第3話 弔鐘②
光りの当たらぬ寝台に一人の女性が寝かされている。
永遠の眠り。
彼女にもたらされたそれは、過酷な人生を歩み続けた彼女に対する祝福か、それとも来るべき幸福を奪い去った悪夢であるのか。
彼女を見つめる男には分からなかった。しかし、一つの事実として存在するモノ。
それは、今、彼と彼女傍らにて寝かされる小さな命。
母親の命の炎を奪い取り、この世に命を灯すその姿を一瞥した男の脳裏に、ひどく残酷な、ひどく冷淡な声が響き渡る。
それが生まれてこなければ、それが死んでいれば、彼女は助かったのだ。
そう思ったとき、それまで数多の命を消し去ってきた手が、静かな寝息を立てる赤子の首にかけられる。
刹那、驚きと共に目を見開いた赤子。
鳴き声を上げるモノとばかり思っていた男であったが、赤子が男に向けたそれは、鳴き声ではなく、ひどく虚ろ気で、なおかつ男を憐れむような視線。
本来ならば、汚れを知らず、純粋な宝石の如き輝きを持つはずの眼は、すべてを見透かすように男を憐れんでいるのであった。
それを見て取った男は、思わず手に力をこめる。
しかし、大人でもあっさりと命を奪うだけの膂力は発揮されず、赤子を苦しめるだけの力のみが現れるだけであった。
そんな男の耳に届く別の女性の声。
「陛下っ!! お止めくださいっ!!」
涙ながらに必死に声を上げ、男に飛び掛かる女性の声。
陛下、陛下と幾度となく繰り返された女性の声は、ほどなく危機を感じたそれから、男に呼びかけるような平静さを含んでいく。
「陛下、お休み所を申し訳ありませぬ」
「む……、どうした?」
耳に届くヴェルサリアの言に、ツァーベルは目を見開くと駆け込んできた彼女を一瞥し、口を開く。
床机に腰掛け、つかの間眠ってしまったようである。
ずいぶん昔の夢を見たモノだと思ったツァーベルであったが、普段のそれとはことなり、今し方見ていた夢はひどく脳裏に刻まれている。
実際に、自身が経験した過去であるのだから当然であるが。
「夜明け頃から、パルティノン側がざわついておりました。ほどなく、手の者より報告がございましたが……」
ツァーベルの問いにそう答えたヴェルサリアであったが、そこから先は言いがたそうに言葉を濁す。
彼女がこのような物言いをするときは大抵が悪い知らせである。
朗報であればこのように言葉を濁すことなどあり得ないのだから当然とも言えるが、それにしては今のヴェルサリアの表情は普段以上の動揺が見られる。
「どうした? お前らしくもないぞ?」
ツァーベルは、眼前の参謀の姿に、改めて彼女の母親の姿を重ねつつも、歯切れの悪い彼女に対して続きを促す。
悪い知らせとて、それを避ける必要は無い。
「はい。報告によれば、…………シヴィラ・ネヴァーニャ謀反。フェスティア・ラトル・パルティヌス崩御。とのことでございます。陛下」
「…………何?」
「パルティノンの女帝、フェスティアは、謀反によって戦場に果てたとのことでございます。陛下」
そんなヴェルサリアの言が脳裏に撃ち込まれると、ツァーベルは居住まいを正し、眼前の美しき副官を一瞥する。
今、彼女は何を言ったのか? はじめに彼の脳裏に浮かんだ言葉はそれである。
そして、ゆっくりと目を閉ざすと、昨日相対した女帝の姿が、はっきりと脳裏に浮かび、やがてその姿が血に染まって崩れ落ちると、その背後には同じように全身を赤く染めた巫女、シヴィラが相も変わらぬ憐れみの視線を向けてくる。
そんあシヴィラの姿に憤怒が込み上がってくることを自覚したツァーベル。
生まれ落ちたその時より、自分に対して憐れみを向けてくる少女の姿は、決して消えることはない。
だが、今更激発したところで何も変わらぬことは自覚していた。
静かに首を振り、目を見開くとツァーベルは両の手の平から赤き血がこぼれ出てきていることに気付く。
激発を抑えた結果であれど、数多の血を吸ってきた両の手が自身の血に塗れている様は、なかなかに滑稽であった。
そんな両の手に、ヴェルサリアが静かに手を添えてくる。
一瞬視線が交錯し、俯いた彼女に対して、ツァーベルはようやく口を開くことが出来た。
「妙なことだ……」
「如何なされました?」
「これで、勝利は我が物となったにもかかわらず、心は晴れんのだ」
血を見たことで、さらに怒りが沈み、心に平静がもたらされた。しかし、胸の奥底のつかえは取れず、なんとももどかしい気分にツァーベルは支配されている。
女帝の死によって、抵抗を続けようとするパルティノン兵の心は折れ、広大な領土も分裂の危機を迎えるはず。
利に聡い者達がこちらに靡いてくることは必定とも言えるにもかかわらずである。
「シヴィラ様がもたらしてくれた勝利でございます。これにて、兵達に苦労をかけることも」
「余計なことだ……。俺は俺の戦を楽しむ。そのつもりであった」
そんなツァーベルに対し、手に流れる血を舐め取りながら、口を開くヴェルサリア。その言によって、彼女の真意を読み取ったツァーベルであったが、思わず本心を吐露する。
侵略と破壊。
浮遊要塞を得る事で加速を増したそれであったが、地上の戦いにて強敵を破り、その守るすべてを蹂躙することこそ至高の喜び。
それを味わうためにも、自身の手で女帝と戦いたかったというのが本音でもあるのだ。
「はい。リヴィエトの兵は、陛下の御ために命をとして女帝との戦いに望んだしょう。ですが」
「……俺が勝てぬと踏んでいたか」
しかし、そんなツァーベルに対するヴェルサリアの言は、どこか皮肉めいた響きがこめられている。
彼女にとっては、ツァーベルの死もまた、リヴィエトの死。それを避けるための手管は幾重にも張り巡らしていると言えよう。
「私には、お母様より託された願いがございます故」
「ふん、それだけでは無かろう」
血を舐め取り、柔らかな布で手を拭ったヴェルサリアに対し、ツァーベルは吐き捨てるようにそう言うと、彼女の肩を掴み、しつらえられた寝台へと押し倒す。
一瞬、怯えにもにた感情が表に出たヴェルサリアであったが、すぐにそれを表情から追い出し、副官としてのそれから、女のそれへと表情を変える。
「血を沈めたい。相手をしろ」
「仰せのままに」
◇◆◇◆◇
それに一縷の望みをかけることが最善なのであろうか?
突如、現れたミュウの言を脳裏にて反芻しつつ、シュネシスをはじめとする帝国軍首脳は自身の麾下の待つ天幕へと戻っていた。
フェスティアよりアイアースに託されたモノ。
それは、シュネシスをはじめとする兄弟の正体を証明するとともに、パルティノンの命脈を繋ぐ望みでもある。
だが、ミュウの思惑とは別に、その場にてその事実を知った者達が抱いたのは、希望ではなく疑惑であった。
「何故、姉上はアイアースに? 姉上がヤツを可愛がっていたことは……」
「あの御方は、ティグの血を引き、将来は飛天魔の血をも得る事になりまする。選帝の際には十分な権威を得ると踏んだのでしょう」
「だが、あいつには野心はないだろう」
「火種には十分になり得ます。エミーナやハイン、ヴァルターもまた、あの御方を慕っておいでです」
「…………いや、あり得ぬ。今は、ヤツを信じるしかあるまい」
「陛下」
「まだ、皇帝ではない」
天幕に戻り、そう口を開いたシュネシス。
自分の心のうちに抱いた感情に驚きつつも、それを煽ろうとするフォティーナの言を受けると、首を振ってその感情を追い出す。
本音を言えば、フェスティアから皇位を奪い取るという野心を抱いたこともある。
幼き頃より、才覚を賞賛され、女性であることを惜しまれもしたフェスティアに対し、シュネシスは明らかに劣等であった。
母、アルティリアが口のこそ出さないが、かつては対立していた姉メルティリアと自分の子の才覚の差に嫉妬をしていたこともシュネシスは知っている。
だが、こうして目の前にある帝位。いや、それ以前に、お互いに屈辱の日々を越えての再会となった時点で、そのわだかまりは消えていたはずなのだ。
そして、ともに地獄とも言える戦いを乗り越えた弟たちに対しては、それ以上の絆を抱いている。
だが、なぜこの時になってアイアースに対して、得体の知れぬ感情を抱くのか。
シュネシスが、心のうちから強引にそれを取り払わんとしながらも、その感情は心の奥底で静かに燃え残っている。
「印綬を託されていたとはいえ、これは紛れも無き反逆に値すると私は考えます」
「何を?」
だが、そんなシュネシスに対し、フォティーナは表情を硬直させたまま口を開く。
シュネシス自身、ここまで冷酷な表情を浮かべる彼女の姿を見たことはなく、冷静かつ剛胆な彼も驚きを隠せなかった。
「印綬は本来、皇帝その人と内務官吏。加えて、皇帝の代行職にある者のみが使役できまする。ですが、代行職は皇帝の選定と全土への任命宣誓を持ってはじめて成立いたしまする。ですが、四太子殿下はそれを為さずに印綬を手にしております」
「緊急であるのだ。致し方なかろう。そのぐらいにしておけ」
印綬の意味を静かに口にするフォティーナ。
そのことはシュネシスも理解していたが、国難に際しては如何なる事態に備えることも必要。そんなことで、弟に対して反逆呼ばわりをすることに、シュネシスは苛立ちを覚えはじめる。
「しかしながら、皇帝陛下にはそれを為す時間もございました。当然、陛下を後継者に選ぶ時間も。ですが、それを為さなかったことは…………っ!?」
「そのぐらいにしろと言ったぞ?」
さらに言葉を続けるフォティーナに対し、シュネシスは胸ぐらを掴んで強引に口を閉ざさせる。
若きときより愛執し、そのここのうちの野心を知っても、自身のものとして側に置いてきた女である。
本心ではこのような行為に及びたくはなかったが、それでも弟に対する侮辱と自身のここのうちを抉るような発言は許し難かった。
「陛下……」
「そのように呼ぶなと言ったはずだが? まあ、悪かった」
一瞬の激発はすぐに落ち着いていく。
今は、フェスティアの死に際する動揺が大きいために、シュネシスの精神も平静ではないのだが、根は冷静な男である。
この後にあるであろうことが済めば、女の戯れ言として水に流してしまう。
「申し訳ありませぬ。お怒りはもっともなことと思われますが、そろそろ時間に」
「時間?」
そんなシュネシスに対し、僅かに頭と垂れたフォティーナは、天幕内にある寝台へと歩み寄る。
ほどなく、そこから赤子の泣き声が聞こえはじめる。
「は? お、お前……」
慌てて寝台に駆け寄ったシュネシスの目に映ったのは、寝台にて声を上げる二人の赤子の姿。
あまりに唐突な事態に、シュネシスは思わず目を見張っている。
「昨日、あなた様がお倒れになった際に……。驚かせるつもりはなかったのですが」
「ちょ、ちょっと待て。いくら何でも早すぎるだろっ!?」
「ええ。ですが、守護は為しており、このように健やかに」
そう言って、一人の赤子を抱き上げ、シュネシスへと手渡すフォティーナ。その表情は、普段の計算高い女のそれではなく、子を愛する母親のそれである。
初めての子ではないが、それでもシュネシスは両の手に伝わる温もりと、その重さに困惑していた。
はじめの子は今も女の実家にて健やかに育てられているが、その子を抱いた際の温もりと動揺の何かが全身を支配していく気がしたのだ。
「いや、まだ駄目だ。お前はとりあえず、二人とともにキエラに下がれっ!! 何かあってからでは遅いぞっ!!」
「え、あ、あの殿下?」
「おーい、ゼークト殿っ!! アルテアっ、じゃなかった。アリアっ!! 来てくれぇっ!!」
そして、シュネシスは途端に、戦士から妻と子を心配する父親へと姿を変えていく。
器用に子どもに負担がかからぬように抱いた彼は、大声を上げながら天幕を飛び出し、あろう事か全軍の幕僚長と実の妹の名を口にしながら走り去っていく。
「ふふ、ああは言ったけど、根は変わっていないのね……」
そう言って、フォティーナは残されたもう一人の赤子を胸に抱く。
「貴方のご両親も、もう少し器用に事を進めてくれればいいのに……。いくら私でも、義理の弟を手にかけたくはないわ……」
そう言うと、フォティーナは再び目を閉じ、寝息を立て始めた赤子に視線を向ける。
「貴方が、ご両親と健やかに暮らせる未来。皇帝と皇后と、そして皇女としてではなく、一つの家族としてね……。こんなつらい世界だったら、それが最善だと思わないかしら?」
静かにそう口を開くフォティーナ。だが、その言に応える者はない。
今この場にあって、彼女一人が知る真実。それは、自身の身に抱く野心を叶えると同時に、彼女なりの贖罪の意識が為すそれでもある。
だが、それを他者に知られせるつもりも、それによって誰かに許されるつもりも彼女にはなかった。




