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第1話 涙

 誰かが自分を呼んでいる。


 そう思いながら目を見開くと、周囲に広がっているのは、雲一つ無き大空と永遠に続く緑豊かな草原。


 その視線の先には、青き空と緑の草原が重なり合う地平線が走り、それは自分を中心にして360度方向に存在している。



 何が何だか分からぬまま、視線を巡らせているアイアース。



 のどかな草原に立っているとはいえ、草原独特の草花の匂いも、風の香りもせず、心の奥底からすべてを許してくれる大らかさがこの草原にはないように思えた。



「……どういうことだ??」



 首を傾げつつ、そう呟く。


 誰かに呼ばれたような気がして目を覚ましたまではよかったが、今の自分は草原にただ一人たたずんでいる。


 しかし、雲の動きも、風の流れも、草花の息吹も感じられない。


 そこにあるのは静寂のみであり、自分が知っている草原のそれはではない。ただただ、現実離れした空間がその場にあるだけだったのだ。



「っ!?」



 と、アイアースは背後に人の気配を感じて振り返る。


 しかし、そこには誰もおらず、再び背後に気配を感じると、それは周囲から沸き立つように浮かび上がってきたのだ。



「だ、誰かいるのかっ!?」



 生死の境を幾度となく乗り越え、血で血を洗う戦場に生きていたアイアース。


 恐れなどとうの昔に捨て去ったはずだったが、現実とは違う何かに、困惑と同時に恐れそのものを思い起こされている。



「っ!?」



 そして、周囲に静かに浮かび上がってくる人。


 思わず目を見開き、剣に手をかける。しかし、パルティノン軍の軍装に身を包んだ彼らの姿にその手も緩む。


 中には見知った顔もあったのだ。



「隊長っ!! どうしてっ!?」



 アイアースは、その中でも、カミサの絶望的な戦いを生き残った近衛軍虎騎長に声を上げながら駆け寄ろうとする。



 ともに、絶望の戦場を生き残った間柄。



 晴れて、近衛軍に復帰し、狼騎長へと昇進した彼には、フェスティアのことを頼んであったのだ。


 だが、眼前の彼の目に生気は宿っておらず、彼はただただ静かに草原を歩み始める。


 そして、アイアースもまた、何かに縛り付けられたかのようにその場から動くことが出来なかったのだ。




「くそっ!! 何でだっ!!」


「お前は、こちらに来る人間ではないからさ」


「っ!?」




 去りゆく狼騎長達の姿を追うこと敵わず、声を荒げるアイアースの耳に届く声。


 ひどく懐かしく、聞き間違いのあるはずのないその声に対して、アイアースは振り返り、目を見開きつつも声を上げる。



「父上っ!!」


「久しぶりだな」




 そう言って動くことの出来ぬアイアースの元へと歩み寄ってくるのは、すでに死したる身になっている父帝、ゼノスであった。


 声が耳に届いたときこそ信じることが出来なかったが、こうして今、間の前に立つ父親の姿に、アイアースは目頭が熱くなってくることを自覚する。


 ゼノスも、成長した息子の姿に眼を細めると、口元に笑みを浮かべ、アイアースの肩に手を置く。




「父上、ここは……」


「まあ、説明すると長くなるが、ようはあの世さ」


「長くないですっ」


「おう、お約束ってヤツだ。つまり、お前はまだ死んでいないから、動くことも連中に声をかけることも出来ないのさ」


「で、では?」


「あいつ等は戦死した……。立派だったさ」




 相変わらずの不敵な笑みを浮かべたゼノスであったが、狼騎長等の真実をアイアースに告げる際には、その不敵な表情にも陰りが差す。


 アイアースは、先ほどまでの笑みからその陰りのある表情に、死したる今も、彼が苦悩し続けているのだと言うことを察する。


 そして、こうしてアイアースに対して声をかけていられることもまた、彼なりの贖罪であるような、そんな気がしていた。



「ああ、そんな顔をするな。俺は、ちょっと特殊でな。お前も同じようなもんだが、こうして迷い込んでくるヤツの相手をしているんだよ。まさか、自分の息子がこうしてくるとは思えなかったが」


「わ、私は……」


「まあ、ああ何度も死にかけていればな。今回はまず死にはしないから、安心しろ」


「そうですか……。私は、狭間に生きていると」


「まあな。そして、死んだヤツにとっては、そういう人間は捕まえやすいってことだ」


「……では、私に何を?」


「察しの良いお前だったら分かるだろ? 俺が、ただ一人こうしてお前の前に現れた理由を」




 不敵な表情は変わらぬまま、時折肩をすくめたりしながら言葉を続けるゼノスに対し、アイアースは静かに問い駆ける。


 そして、彼の意図というモノを必死に探ろうとする。




「母上達は……」


「リアはお前が戦う限りそっちにいるさ。イレーネもまたな。だが、アルとメイアは」


「っ!? メルティリア様は?」


「あいつは、グネヴィアの手にかかった。あの悪鬼の正体は知れぬが、あいつに殺されたと分かるヤツはこっちには来ていないんだ。……それは、俺が何とかするが、アルとメイアはのことは、お前に頼みたい」


「……どういう?」


「あいつらもまた、現世に留まっているんだ。シュネシス達を見守るわけではなくな……。おそらくは、教団の手の元に」


「っ!? 分かりました。必ずや、お二人をっ!!」


「すまんな。俺がなまくらだったばかりに、お前達には苦労ばかりをかける」


「そんなことはありません。…………ですが」


「つらいなら言う必要は無いぞ。ま、お前の席はこちらにはない。本当に帰るべき場所も、お前にはあるんだからな」


「っ!? 父上っ、そ、それは……」


「はは。何でだろうな? っと、迎えが来たみたいだぞ? 今回ばかりは、死んだ連中に感謝しておけ。あいつらも、お前が負けるようじゃ悲しむだけだ」




 そう言うと、ゼノスはアイアースの背後に視線を向け、静かに微笑む。


 最後にゼノスが口にした言葉の意味を聞けぬまま、アイアースは耳に届く女性達の声に思わず振り返る。


 そこには、フェルミナ、フィリス、ミュウの三人と、黒みがかった銀色の髪を風に靡かせる女勢の姿そこにあった。



(父上っ!!)




 再びゼノスへと向き直り、声を上げるアイアース。


 しかい、声になることは無く、すでに草原の彼方へと歩みを向けているゼノスは、背を向けたままアイアースに対し、片手を上げるだけであった。


 そして、彼が歩みを向けるその先には、数多の人間達の姿がゆっくりと浮かび上がっていた。



◇◆◇



 再び目を見開くと、見覚えのある天井が目に映る。


 ゆっくりと身を起こすと同時に、後頭部に走る痛み。


 一瞬、顔を顰めたアイアースであったが、分けも分からずに患部を撫でようと腕を動かすと、片方の手に温もりがあることに気付く。


 視線を向けると、アイアースの手を握りしめたフェルミナとフィリスがベッドに手折れ込むように寝息を立てている姿がそこにはあった。




「ミュウはいないか……、とりあえず、戻ってこれたようだ」




 そう呟いたアイアースは、ここが刻印が封印されていた神殿の一角であることを察する。


 アイアースが刻印を宿したために、赤い光り類は見受けられないが、神殿を形作る功績の滑らかな表面が目に映るのだ。




「ん……、殿下」


「ああ、おはよう。フェルミナ」


「おはよう……って、えっ!?」


「フィリスも、おはよう」


「あ、かず、いや、殿下っ。お目覚めになったのですねっ!!」




 そんな折、アイアースの姿に気付いたフェルミナが目を擦りながら身を起こし、アイアースの言にフィリスも続く。


 そして、アイアースの姿をみとめると、目を見開いて身を正す。正体を知り合ってからも、自分に対する態度を改めるつもりはない様子。



 それも、彼女らしいとアイアースは思った。



「ああ、心配をかけた」


「そんなことは……」


「うん? どうした、目を腫らして」


「そ、それは……」


「殿下っ!!」




 お互いに視線を交わし口を開くうちに、アイアースはフィリスの眼が涙に濡れていることに気付く。


 しかし、アイアースの問いにフィリスは口を濁すだけである。そんなとき、アイアースが目覚めたことに気付いたフェルミナがアイアースの胸元に顔を埋め、嗚咽を漏らしはじめる。



「ど、どうしたっ!?」


「殿下…………うぅ……っ」




 突然のことに、目を見開くアイアース。


 しかし、フィリスもアイアースの困惑に答えることなく、不意に涙をこぼし、アイアースへともたれかかってくる。


 さらに問い掛けようとも思ったアイアースであったが、二人の様子にそれをあきらめ、交互に頭を撫でてやるしかなかった。



 ひとしきり涙を流した後、居住まいを正した二人であったが、アイアースの問いに答えることなく、着替えを用意するとそそくさと部屋から出て行く。


 自分達の口からは言えないとのことであったが、何か大事があったというのは、どんなに察しが悪い人間でも分かるほどの二人の態度である。




「尻尾が邪魔だが、まあ、仕方ないな」




 キーリアの白の軍装を身に着け、改めて自分の身体の変化を見まわすアイアース。


 頭部から生えた耳と臀部の尾と鋭くなった爪。そして、前腕と臑の毛が柔らかな猫毛に変わっている。


 戦の際、負傷の可能性が減ることにはなるが、元々が人間の身であったことを考えれば、違和感はある。


 とはいえ、元々自分が受け継いだ血が成せること。受け入れることにそれほど悩むこともない。



「母上……」



 そして、アイアースは先ほどのゼノスの言を思い返し、テーブルに置かれた剣を手に取る。


 リアネイアが残した双剣。一振りは、今のオルスクの地で眠るイレーネの墓標になっており、自分がシヴィラに敗れた際に失ってしまったもう一振り。


 ある時、その手に戻って来てくれてからは過酷な戦いにあって自分を導いてくれている。


 目の前に掲げると、僅かに部屋に入りこんだ光りによって、柔らかく光り輝く。



 それは、剣が自身を導いているかのようにも思えた。



「行きましょう」





 広間へと足を運ぶと、そこは以前と異なり瓦礫が積み重なる空間へと変貌していた。



「来たわね」



 その瓦礫の山の中央に立つヒュプノイアが、アイアースの姿をみとめると静かに口を開く。



「ご迷惑をおかけしました」


「いいのよ。むしろ、悪かったとすら思うわ」



 アイアースの言に、ヒュプノイアは表情を曇らせながらそう答える。


 先ほどまでのフェルミナとフィリスの態度から、重大事があることをアイアースは察している。


 とはいえ、長き時を生き続け、多くの事実を見続けてきたヒュプノイアですらも、動揺が顔に出ているのだ。


 いったいどれほどの事態なのかまではアイアースも想像がつかない。




「お祖母様。いったい何があったのですか?」




 フィリスやフェルミナだけでなく、オイレやミュウにも視線を向けたアイアース。しかし、二人も力なく頭を垂れるだけであり、すべてはヒュプノイアに託されている様子だった。



 立場上、彼女が自分に告げるというのが正当なのであろう。





「先に言っておくわ。決して、自分を見失わないこと。この前みたいに、騒ぎでもしたら、この場で殺すわよ?」



 そんな周囲の様子を見つめ、一瞬瞑目したヒュプノイアは、全身に禍々しい妖気を発しながらアイアースに対してそう口を開く。


 これまで感じたことのない、曾祖母に当たる女性の姿に、アイアースは圧倒され、静かに頷く。



 それだけ、ヒュプノイア自身も激怒しているのであろう。ある意味、今の彼女の言は、自分自身に向けられたモノであるのかも知れなかった。


 そんなアイアースの様子を一瞥したヒュプノイアは、その美しく整った口を静かに動かし、ひどく冷淡な、悲しみと怒りの混在した声をあげる。





「フェスティアが死んだわ」




 周囲の刻が止まる。



「…………え?」




 風の音も、生命の息吹を感じられず、耳鳴りを覚えかねないような静寂が、周囲を支配する。




「聖帝フェスティアは、すでにこの世にはいないわ。教団の……、クズ共の手によってね」




 アイアースの耳に届くヒュプノイアの言。気がつくと、涙がこぼれていた。



 ヒュプノイアも、オイレも、フェルミナも、フィリスも、ミュウもまた。


 その光景が、今自分の脳裏で反芻し続ける言葉が、真実であることを告げていた。

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