第37話 宴を前に……
レモンスク攻防戦におけるアレクシス・スヴォロフの死は、パルティノン・リヴィエト両陣営につかの間の休息をもたらしていた。
双方ともに、戦力の消耗と全軍の動揺という代償を払ったものの、連日の激戦を展開していた両軍にとって、嵐の前の静けさとも言える時間が緩やかに経過している。
最前線では、パルティノン中央軍がドニエスル川を背後に城塞を建設しリヴィエト前衛軍の侵攻を完封しているが、長き帯陣と不安定な気候による衛生状態の悪化などが出はじめ、決着を求める声は日に日に大きくなっている。
戦そのものはパルティノン本国が担っているが、戦いの舞台となっているルーシャ地方、占領されたままのスカルヴィナ、カレリア両地方は元より、いつリヴィエトの侵攻に晒されるかわからないままのエウロス、リメニ(ルーシャとシヴェルスの中間に位置する地方。大陸最長と言われるリメニ山脈を中心都市、鉱山開発が盛ん)地方では、住民の反発も見え始め、ルーシャ難民の受け入れとなっている東南部の各地方からも先行きの不安が見られはじめているという。
広大な領土は、大兵力と巨大な生産力を生むが、崩れるときは非常に脆い。本国と同等の統治が及ばないという実情は、膨張する帝国には常について回る問題でもあった。
それに対し、リヴィエト陣営は、スヴォロフの死と事前にパルティノンが行っていた焦土策によって補給の確保に綻びが出はじめている。
巨大要塞での生産も可能だったが、激戦が続けばその供給も困難になってくる。
永久氷域を突破するだけでもその消費は膨大であったという側面もあり、冬期の侵攻は北辺における糧秣の確保も困難にさせる。
緒戦における巨大な戦果の代償は、大軍が常に直面しかねない補給との戦いを予感させるものであった。
◇◆◇◆◇
後退した敵前衛軍に目立った動きは見られなかった。
接近してくる敵本隊の収容体勢を整えているのであろうが、動きがないが故にこちらからの攻勢も躊躇われる。
前衛部隊とは言え、こちら側に匹敵する規模の軍団であり、罠にはまれば一気に壊滅させられかねないだけの精強さも持っている。
加えて、カミサにてキーリア達を苦しめた獣人部隊やひたすら前進のみを頼みとする洗脳兵部隊の姿も見受けられている。
「どう思うシュネシス?」
丘にかまえた本陣にて、シュネシスは原野を挟んだ丘に陣を置く敵前衛軍に視線を向けつつ、フェスティアからの問いかけを受ける。
「合流は待つでしょう。そのために、こちらの要塞群を叩きつぶしたのですから。あとは、件の走る箱ですか?」
「うむ。火に弱く、車輪を破壊すれば停止するとのことだが、高速で接近し、衝突の威力も強力だという。数で劣るこちらからすれば、なんとか敵の特殊部隊を殲滅しておきたい」
「獣人と相対可能なキーリアはほとんど残っておりません。アイアース等だけでも呼び寄せますか?」
「いや、今になって作戦は変えられん。万一の際の保険でもあるしな」
「そうですね……。洗脳兵は何とかするしかないですし、箱の方は後方に仕掛けたアレでどうにか出来るでしょう」
「となると、やはり獣人部隊か」
「はい。となれば、教団の者達をけしかける以外に」
シュネシスは、自ら相対した獣人部隊の姿を思い浮かべながらそう口を開く。教団の謀略に嵌った形になったが、結果としてキーリアを獣人部隊にぶつけたことは間違っていなかった。
兵士の消耗を抑えるという意味でも利には適う。あとは、フェスティアがそれを肯じえるかどうか。それだけがシュネシスの懸念でもある。
「あの女を中心とした連中か……。勝ったら私はあやつ等を許さねばならんな」
「気持ちはわかります。特に、グネヴィアやヤツに付き従った連中は」
シュネシス自身、フォティーナが“探ってきた”情報に触れたときは、怒り心頭であった。しかし、状況が状況である。個人の情よりも優先せねばならないことは存在する。
それでも、いまだに教団に身を寄せたままのキーリア達に対しては、過去の因縁も相まって明確な敵意が消えてはいない。
「小娘が納得しているのならば、その時だけは信用しよう。状況によっては我々が手を下す。それでよかろう」
「では?」
「とりまとめはそなたが行え。全軍の指揮は私がとる」
「はっ」
そういいながら、再び原野へと視線を向けるフェスティア。眼前に展開する敵の大軍を一瞥し、ふっと一息ついたフェスティアは、再びシュネシスへと向き直る。
「……必ず勝つぞ」
「っ!? ……はいっ」
改めて振り返ったフェスティアの何とも言えない視線を受けたシュネシスは、思わず居住まいを正し、力強く頷くだけであった。
「体調はどうだ?」
宛がわれた居室へ戻ると、すでに戻って来たフォティーナに対して口を開く。
帯陣が長引き、軍務や教団との折衝に当たっているフォティーナであるが、彼女もまた身重の身。今もくろうそうな表情浮かべて椅子に腰を下ろしている。
「すこぶる快調でございます。殿下」
「そうか。よし、脱げ」
「え? 昼間からでございますか?」
今にも倒れそうな青白い顔に笑みを浮かべてそういうフォティーナに対し、シュネシスはあきれ目になってそう告げると、フォティーナもまた戯けるような笑みを浮かべて頬を赤く染める。
「……さて、首尾は?」
「……疲れますね。一応、動かすことは出来そうですが」
「やはり、衛士となると難しくなるか」
「信徒兵は目さえ覚ませればどうにかなりますが、今も教団に忠誠を誓う衛士は、元々の忠誠心厚い選りすぐりでございますので」
少し間の抜けたやり取りに、両名とも虚しさに襲われると、本来の話へと戻る。
シュネシスは、フォティーナに信徒兵や教団のキーリアの動員を命じており、幹部級への賄等を駆使して行動している。
教団の信徒兵やその信心を拠り所として、巫女のために戦い続ける狂信性を持ち、フェスティアの親征成功にも一役買ってきている。
それ故に戦力としての信用は、帝国軍内にも広く広まっており、帝国への忠誠あつい勢力との間で長く引き抜き合戦が行われてもいた。
「今は巫女のためでもよい。戦い置いて死んでくれればそれで解決もする。それより、信徒兵どもの目は覚ませそうなのか?」
「すべては不可能ですわ。それでも、陛下とともに戦場に立ち、そのお姿に惹かれる兵も多くおります。元々、彼らの多くは信仰よりも慈善活動による施しを求めていましたので。国内が安定し、陛下の存在を依り代とすれば引き離すことは可能かと」
「それだと、姉上に何かあったときが怖いな」
「そうですわね。何かがなければ無ければよいのですがね……」
壁に掛けられた地図に顔を向けつつ、そう呟いたシュネシスに対し、フォティーナは口元に柔らかな笑みを浮かべてそう答えた。
◇◆◇◆◇
前衛軍の中にも動揺はたしかに広がりつつあった。
それでも、歴戦の将兵はそれを表に出さぬように努め、獣人兵や奴隷兵のように士気の類が関係ない部隊は至って平然と過ごしている。
「思っている以上のことではない様子だな」
「目に見えぬだけだ」
ロマンはアンジェラとともに転移にて先行してきたのだが、ロマンから見た前衛軍の様子は、普段とそれほど変わらぬように見える。
アンジェラの言もわかるが、総司令官のバグライオフ将軍の力に拠るところの大きさを彼女はそれほど重要視していないとも思える。
「ん? なんだアレは?」
そんな二人の視界に、前部に筒状の突起物のついた車両が入ってくる。それまでは、速度や突撃力に定評があるそれであったが、悪路には弱く泥濘と化した草原での戦いでは使用されていなかった。
「おい。なんだそれは?」
「っ!? 将軍っ!? いつ頃お付きに」
「今し方だ。それより、その筒はなんなんだ?」
興味が惹かれたロマンは、車両の付近で指揮をとっている士官に近づき声をかけると、彼はロマンの姿に慌てて直立する。
そんな彼の言によると、浮遊要塞の外面に取り付けられている“砲台”を小型化したモノだという。
「ほう? では、突撃するだけでなく破壊行動もとれるというわけか」
大地を蹂躙した砲台の破壊力を知るロマンはその事実に思わず目を剥くが、アンジェラは変わらずに冷めた視線を向けているだけである。
「それで、魔導粒子はどこにやる気だ?」
「あ、そのことなんですが」
「これで外に放出するわけか。中の兵が焼け死ね可能性を考えるのはわかるが、弱点を晒す意味も私には分からぬ」
そんな調子で士官の言に答えるアンジェラ。
この車両は、刻印の力を推進力に変える“機関”という物ので動いていると言う。
その“機関”は、刻印の力を特殊な箱に閉じ込め、その内部の歯車を回転させることで車輪を動かすという。
しかし、閉じ込められた刻印の力は、たまり続ければいつかは崩壊する。
そのため、外部に力を放出するのだが、それも扱いをあまれば危険であり、魔導粒子という刻印が人の身体の内部にて媒介とする元素に変換した上で、外部へと放出するという。
その際に、車両内部は高熱が発生し、兵達も移動の際には出来売り限りの歓喜などをが義務づけられている。
そして、高熱を発する粒子を外の放出すれとなれば、そこを攻撃された際に引火・爆発の可能性もあるという。
「我々も、細かいことはわかりかねますので……。あ、おーいそこは違うぞ」
ロマンが以前に法科士官から受けた説明内容を思いかえしている間にもアンジェラからの問いつめは続いており、さすがに士官もねをあげた様子で、車両の元へと歩いて行く。
「一般士官を困らせてどうする」
「閣下はあの手の兵器を嫌っておいでだったからな」
「そうだったな。それ以上に、法科の者達全般を嫌っていた。万事柔軟なあの方らしくなくな」
「我が国の国是は侵略と膨張。しかし、それは人の手を持って為すことだと私は思う。だが、あやつらは……っ」
士官を見送ったロマンは、苦笑しつつアンジェラに対してそう口を開くが、アンジェラはしれっとしたまま遠くを見つめるようにそう答える。
ロマンもまた、スヴォロフらしくない一面を思いかえすが、彼に心酔しているアンジェラの言は、スヴォロフのような深謀遠慮よりは個人的な感情が優先しているとも思う。
もっとも、個人の感情を作戦に影響させるような愚かさとは無縁の女である。必要とあらば、使用に躊躇いを見せることはまず無い。
「よせよせ。なんのために絶縁したんだ? それより、行くとしよう」
とはいえ、今は感情を表に出すアンジェラに対し、肩を軽く叩いて宥めたロマンは、先を促す。本来の目的を忘れる訳にも行かないのである。
司令所が置かれている大型の天幕へと向かうと、二人は居ならぶ諸将の冷たい視線という出迎えを受けた。
彼らにとってみれば、必死に前線で難敵と交戦していたにも関わらず、総司令官を戦死させた人間達である。
生きながらえていることですら、怒りを感じている者もいるのであろう。
「お待たせいたしました。中へどうぞ」
そんな視線を無言で感じ続けたいた両名もほどなく奥へと通される。奥の方でも装備を纏った事務方が忙しく駆け回っており、本隊の受け入れ体制や来るべき決戦への備えて活気に満ちている。
「二人とも、ご苦労だったな」
奥へと通されると、積み上げられた書類に目を落としていた壮年の男が顔を上げ、二人を出迎える。
眠そうな目元と左の眉から右の頬に刻まれた深い傷痕が印象的な男は、前衛軍総司令官のロレンツ・バグライオフ将軍。
今回のリヴィエトによるパルティノン侵攻においても常に先頭に立って戦場を駆け抜けてきた猛将である。
「閣下。我々の無能さ故に……申しわけございません」
「やめておけ。あのスヴォロフ閣下が敗れたのだ。敵を褒めるしかあるまい?」
「…………はい」
膝を折り、頭を垂れるアンジェラに対し、バグライオフはすぐに彼女を立たせそう口を開く。
アンジェラは個人的な事情があっての憔悴だが、バグライオフもまたスヴォロフに見出された者の一人。言わば師に当たる人物の死に動揺していないはずもない。
「それよりも、貴官は自分の為すべきことを為せ。閣下の最後の弟子なのだぞ? 貴官は」
「はっ……」
「それで、状況は?」
椅子を用意させ、二人の前に腰を下ろしたバグライオフは、改めてそう口を開く。
現状、敵の追撃は緩くむしろこちらを女帝の眼前へと押し込んでいるようにも見える。死兵や伏兵を用いて追撃をかわしてきたが、目立った犠牲を出してもいない。
本隊の到着はおよそ二日後になるとは思うが、その間も追撃部隊の影に怯え続けることによる消耗やスヴォロフの死を受けた動揺の連鎖を二人は恐れている。
それらをふまえ、報告を受けたバグライオフは、二人の眼前にこの戦域の地図を広げる。
「やはり、誘い込まれていると見るのが正しいのか」
「やはりとは?」
「我々の、いや、私の首をとる機会はいくらでもあった。しかし、それを為さなかった」
「それは……」
「斥候を放ち、敵の動静を探っているが、背後の大河には渡河様の大型船が並び、補給のための船も盛んに行き来している」
「背水という訳ではないのですね?」
ロマンはバグライオフの言に頷き、そう問い掛ける。
敵とこちらが睨み合う平原の背後は、ドニエスル川とプリャスク川の合流点になっており、大型船の行き来も可能な大河となっている。
それ故に、兵力で劣るパルティノン側は女帝の陣頭指揮の下、背水にてこの戦いにすべてを賭けているのではないかという思いもあった。
「川か……水位の変化などは見ておりますか?」
「情報は収集している。雪解けと春雨の影響か、川は荒れているそうだ」
「橋梁の類はございますか?」
「付近にはない。それ故に、この地を決戦場に選んだのであろうが」
「なれば、迂回策も検討した方がよろしいでしょうね」
アンジェラの言に、バグライオフは斥候からの報告を告げる。
それを受けて、彼女が出した結論は迂回策。それに対して、バグライオフとロマンは目を見開く。
「ここに来てかね?」
「はい。敵は眼前の我々しか見ておりません。ですが、ここから東方に進軍し、ロトフ、セルヴァストポリといったセラス湖沿岸都市を攻撃するのです」
「待て、それは先頃に不可能だと判断しただろ?」
「うむ、スヴォロフ閣下無き我々には無理だとな。だが、閣下の指揮ならば」
「後背にパルティノンの女帝を置いての南進か? ううむ……」
「おそらく、敵もスヴォロフ閣下への奇襲に失敗していれば、沿岸部急襲も読んだでしょう。ですが、閣下の死でそれはないとも考えているはず。なれば……」
「危険すぎる。たしかに、スヴォロフ閣下は私にその策を告げられていた。パルティノン本隊の妨害を死を決して行うようにとな。しかし、今となっては南北から挟撃を受ける形になっている。これ以上の圧力に耐えきれる兵は少ない」
さらに説明を続けたアンジェラであったが、ロマンもバグライオフも一様に首を振る。
賭に出たいという判断はわかるが、あまりに危険すぎる。
パルティノンは眼前しか見ていないと彼女は読んでいるが、今もラドやモルクワ占領軍に備えてエウロス、リメニの両地方軍は動きを見せていない。
仮に沿岸部を占領したとしても、南部に控える大軍が即座に駆けつけてくるとも思える。
むしろ、千載一遇とも言える機会を逃すことにもなりかねないと二人は考えたのだった。
「それに賭けるだけの価値はございます。パルティノンは言わば巨大な獣。つまり、生きるためには相応の血脈が必要であります」
そういうと、アンジェラは頑なにその策にこだわる理由を二人に伝えていく。彼女の言は、かつてスヴォロフが彼女に対して語ったことであり、アンジェラはそれを自身の言葉として二人に告げていく。
リヴィエト軍本隊及びパルティノン東西方面軍の到着まで残すところはあと2日。両陣営に決戦の気運が高まる中で、一つの時が緩やかに動き始めようとしていた。




