第36話 夜の果て
きれいに開かれた傷口から血が滲み出してくる。
竜の皮膚は硬く、専用の器具を用いなければ縫合もままならいのだが、元来人よりはるかに耐性に優れ、治癒能力も高い竜である。
応急処置だけでも大事に至る可能性は低かった。
「今、できるのはこれぐらいだな。それにしても、皮肉なもんだ」
「……戦場の習いだ。気にする必要は無い。今は、感謝いたす」
皮膚からの出血が収まりはじめたことを確認したミーノスは、額に浮かんだ汗を拭いながらそう口を開く。
傍らにて様子を窺っていた、女竜騎士もそういうと、丁寧に頭を下げてくる。先ほどまでは苦しげな表情で気を失っていたのだが、どうやら寝ている間に飛竜の加護によって体力は回復していたようである。
傷もミーノスの応急処置によってふさがれ、後は体力の回復を待つだけといった状況だった。
「それにしても、死角からの攻撃によく耐えられたものだ」
「…………これでも、リヴィエトの竜騎士だ。空を戦場とする以上、全方位からの攻撃には常に備えている」
「あの飛空兵はそれが出来ていなかったわけだな」
「っ!?」
「ほんの一時であったのだろうが、僅かな油断が死につながるってのも戦場だな。ほらよっ」
「むっ。あの男は私と同世代であったという。機会に恵まれていた私に比べ、駒の一人でしかなかったということか」
腰を下ろし、水筒の水を口に含んだミーノスは、一息入れると竜騎士にそれを投げ渡す。滝の側であり水に不自由はしないであろうが、僅かに疲労回復の要素を含んでいる特別製である。
敵であるとは言え、抵抗の意志を見せない者を害する気分にはなれなかった。
「それで、我々はどうなるのだ?」
「捕虜という形をとってもいいが……。投降してくれないか?」
「それは出来ぬ」
「まあ、そうだよな。しかし、そいつは俺にお前を連れ去ってくれと言っていたが?」
そんなミーノスの心情を察したが、女竜騎士は躊躇いがちに水筒に口をつけ、喉を潤すとミーノスに視線を向けて口を開く。
本来であれば、竜の力で眼前のミーノスを討つことぐらいは考えるかも知れない。しかし、真竜となった竜が主の意志を越えて、ミーノスに自分の救出を願った意味を察していないわけではない。
空の戦いは竜の力量も関係してくるが、一瞬にして部下達の命を奪い、自分の意識を刈り取るほどミーノスに対し、身を守ることがやっとであった女竜騎士との間で、武勇の差は隔絶している。
だからこそ、抵抗の意志はないのだが、投降するとなれば話は変わってくる。
ミーノスもそれを分かっていての言であり、竜の言葉の意味も気になっていた。竜騎士という地位は、小国であれば一軍の将に匹敵するほどの大身ともいえ、彼女も若くしてその地位にあるということは、実力と家柄の類に裏打ちされた身分とも判断できる。
「姫と呼んだのは、そういうことなのか?」
敵の首魁、大帝ツァーベル・マノロフは、皇后と死別しているとは言え、すでに壮年期を迎えている。妻を迎えていないとは言え、妾という存在は十分にあり得、彼女倉の子女が居ても不思議ではない。
今も目の前の竜騎士からは、どことなく気品を感じもするのである。
「はっきりと言ってはどうだ? 貴公の予測とやらを」
「答えてくれる方が早いと思うが……。まあいい、お前はリヴィエトの皇女か?」
「違う。あのような男を父に持った覚えは無い」
そんなミーノスに対し、女竜騎士は試すような表情を浮かべてミーノスの発言を促したが、あいにくと彼の予想は外れであった。
はっきりと首を振り、彼の問いを否定しているが、それでもどこか引っかかる言い方ではある。
「父に持った覚えは無いと言うのがな。無関係であればそのような言い方はしないと思うが?」
「無関係ではない。しかし、私達はあの男の娘であることも、帝国の皇女であることも否定した。一介の軍人として生きていくとな」
「私達?」
さらに問い掛けるミーノスに対し、女竜騎士はそれまで以上に強い口調で、自身と皇帝との関係を否定する。
そこには、どこか恨みにも似た思いがあるように感じたミーノスであったが、それ以上の問いかけは無駄であると彼は思っていた。
「それじゃあ、お前の処遇だが……」
「煮るなり焼くなり好きにしろ」
「強がるな。先ほどから身体が震えているぞ?」
「そ、そんなことはっ!!」
「心配しなくとも、昨日のような真似はせんよ。してくれと言うのならば別だが」
「ば、馬鹿を言うなっ!!」
そう思ったミーノスが、そう切り出すと女竜騎士は、ふっと身体を強ばらせ、震える口調で答える。しかし、全身が小刻みに揺れていることまでは隠しようがない。
そんな態度を少しでも和らげようと思うと、ちょうど昨日の出来事を思いかえし、笑みを浮かべながらそう告げると、案の定顔を赤く染めて声を荒げる。
先ほどまでの凛とした軍人の表情と今の純粋な少女の表情の差に思わず苦笑したミーノスは、そのまま表情を改めると静かに問い掛ける。
「わかったわかった。それと聞いていなかったが、お前、名は?」
「……ターニャ」
「本名を言え」
「っ!? タチアーナ・ニコラヴィナ・ヴァシレフスカヤ……。だが、私は」
「わかっている。では、ターニャ。処遇はこれだ」
はじめは自身の愛妾を口にすした女竜騎士であったが、ミーノスの鋭い視線と声に居住まいを正し、自身の名を口にする。
とはいえ、苦々しげにその名を口にした竜騎士、ターニャは、気落ちするように顔を顰めた。
そんなターニャに対して、ミーノスは自身の額に指を当て、その指先に水色の光りを灯すと、顔を上げた彼女の額にその指をかざす。
「あっ!?」
一瞬、後方へと頭部を跳ねさせたターニャはキョトンとしままミーノスへと視線を向けた。
「な、なんだ??」
「縛ってヤツだ。皇帝が使役できるモノよりかは効果は薄いが、俺に危害を加えたりは出来ないし、苦痛を与えることも可能なモノ」
「ま、まさか……」
「まあ、奴隷に施されるモノだな」
「っ!? ……貴様ぁ」
突然の衝撃に、目を丸くするターニャ。
そんな彼女に対し、ひょうひょうと事実を告げたミーノスであったが、その態度が癪に障ったターニャは、全身を襲う苦痛に耐えながらミーノスを睨み付ける。
「怒るな。捕虜として扱う気にもなれんし、かといって処断する気もない。お前を奴隷扱いして弄んでいる。となれば、もしもの際にお前の顔をも立つだろ」
「奴隷となった身で名誉もなにもあるかっ!!」
「わかったわかった。それだったら、俺も首をくれてヤツからそれで名誉の回復をしろ」
「っ!? 何を言っている。そもそも、一介の飛空兵の首に価値があるかっ!!」
「まあ、飛空兵には変わらんが……。まあ、少し身体を休めておけ。俺もさすがに眠い」
少しからかいすぎたかな? と思ったミーノスは、怒り心頭と言った様子のターニャを宥めると静かに寝息を立てる竜の側にて横になる。
その場なら、飛竜の加護によって夜半でも身体が冷えることはない。
「ま、待てっ。まだ話はっ!!」
そんな調子で喚くターニャであったが、彼女の言は戦を終えて疲れ切っていたミーノスの耳には、次第に届かなくなっていった。
◇◆◇
目の前にて寝息を立てる男に対し、ターニャはどこか気が抜けた様な気分に襲われていた。
自身の失態によって招いた敗戦。
それによって多くの部下や同胞を失った。そして、その原因となった敵将が目に前にいる。仇討ちにはこれ以上無い機会であるのだが、彼との力量の差を鑑みれば、それは無謀であるようにしか思えない。
寝息を立てているとは言え、その立ち振る舞いに隙はなく、一撃でし損じれば、骸となって転がるのは自分であろう。とターニャは思っていた。
「まったく。不思議な男だ」
昨夜、目の前にあらわれ、自身の失態の原因になったとは言え、自身の不注意がそもそもの原因。男を憎む理由にはならない。
部下達の死も、戦場にあっては致し方がないこと。本心では納得もいっていないが、それでも戦場での死を憎しみに変えるのは筋が違う。
そう自分に言い聞かせているのだが、それでも男に対してはじめから憎しみを抱く気にはならないというのは不思議でしかなかった。
「私の動揺は、貴様の行いが原因。我々を発見したのも、私達の匂いを覚えていたのであろう……。それでも貴様は、仲間の命を奪った敵。だが、こうして……」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐターニャであったが、感情に整理は突いていない。
と言うよりも、男の顔が、むしろ口元が目に入ってしまうと、どうしても整理がつかないというジレンマもある。
(私は初めてだったんだぞっ!!)
(っ!? 主、いかがなされましたっ!?)
「あ、す、すまん……」
そして、脳裏に浮かぶある光景。必死に頭から掻き消そうとするたびに浮かんでは消え、それは次第に戦場にて対峙した姿と相まって行く。
そんな自身の思考に、おかしな苛立ちを感じ始めたターニャは、必死に声を抑えながら、声を荒げる。
それに対して、飛竜が慌てて顔を上げる。
「まあよい。それで、この男に何をさせようというのだ?」
(……主。いえ、姫様のお望みを)
「お前はそれでよいかも知れないが、私にとっては祖国だ。そして、あの男はその頂点に立つ。それは、反逆でしかない……」
(では、その手で姉上様を討てるのですか?)
「そ、それは…………」
目を覚ました飛竜に対し、居住まいを正したターニャは、やや問い詰めるような口調で飛竜に語りかける。
今回の事は、感謝しているが、目の前にて身を休める男には空くまでも敵国の将。それに、主である自分を近づけるというのは道理が合わない。
そして、答えた飛竜に対し、その言を否定するターニャであったが、飛竜の鋭い問い掛けに、思わず言葉を詰まらせる。
(私に人の世界のことまでとやかくは言いませぬ。私は、主の命に従います。私ならば、この男と差し違えることは可能。結印を結ばれたとて、私が彼を討てばそれからは解放されます)
「それは駄目だ。お前を失う訳にはいかないし……この男は恩人でもある」
(なれば、とやかくは言いませぬ。ですが、彼らは主の助けになると私は考えて折るのです)
そこまで言うと、飛竜は再び身体を休めはじめる。戦いの疲弊は大きく、まだまだ全快した訳ではないのだった。
「ゆっくり休め。私もすぐに……」
そういうと、ターニャは軋む身体に鞭打ってそこから少し離れた場から湧き出る泉へと足を向ける。
光蘚の類があるのか、眩く光って見えるその泉を掬い、喉を潤すと、透き通ったそれで顔を冷やす。
幾度も幾度も顔を流し続け、その冷たさに身を任せていく。そうして、ようやく顔の火照りがとれたターニャは、静かに口を開く。
「祖国のための戦いは終わった……。私は敗れたのだ。だが、同胞を討つことなど…………」
静かにそう呟き、泉に移る自身の顔を見つめる。
「だが、父なる人を討ち、母を苦しめ続けた……っ。ツァーベル・マノロフ。貴様だけは……っ!!」
怒りを抑えそう呟いたターニャ。
しかし、彼女の小さな叫びは大瀑布の起こす緩やかな風に乗って、静かに移動していく。
「聞こえているんだよ……。だが、その短慮さは、精々利用させてもらうとしよう」
ほくそ笑みながら、静かにそう呟いた男の言は、彼の傍らにより、身を休めはじめたターニャの耳に届くことはなかった。




