第31話 雨露の彼方②
山頂より急峻な崖を駆け下りてくる一団が目に映る。
騎兵を中心に、獰猛な獣の如く突進してくるその先頭には、重装に身を包んだ初老の男の姿があり、彼に続く者達も一歩間違えば滑落の危険がある場を恐れることなく疾駆してきてきた。
いまだに距離があるとは言え、正面からぶつかれば逆落としになっている敵の勢いが増さるのは自明の理。
だが、今更山を下って陣を組むような余裕も兵士もない。山にいるのは一万ほどのスヴォロフ直属であろうが、その周囲には彼が率いてきた数万単位の敵兵が群がっている。
山を下りた途端に包囲され、殲滅の憂き目に遭うのは目に見えているのだ。
「殿下っ」
アイアースと同様に下ってくる一団に気付いたジルがこちらへと視線を向ける。臭の敵を斬り伏せつつ、彼の目は本能的にどうするべきかを訴えかけてきているように思える。
「ああ。敵が来るならこっちは上に行けばいいっ!! 続けっ!!」
「各騎、隊列を乱すなっ!!」
そんなジルに対して頷いたアイアースは、山頂へと続く山道の前にて堅陣を組む数千を睨み付けると、手綱を振るって騎馬を疾駆させる。
当然緩やかな上りになっており、一回の突撃で突破は困難であろうが、騎兵の攻勢は何も突破だけではない。
幸いにして陣が敷かれている場は、騎兵が立ち回るだけの余裕がある。
そして、周囲のキーリアや騎兵達も迫り来るスヴォロフ直卒の接近に気付き、アイアースの言の意図も察している様子だった。
「ミュウっ!!」
「分かってるっ!!」
眼前を睨みつつ、右手の刻印に意識を向けるアイアース。
彼の背後では、周囲をキーリアと騎兵に守られたミュウが鐙み足をかけて鞍から立ち上がり、精神を集中させる。
山嶺での戦いであり、双方の距離は短かったが、彼女に取ってみれば数秒とて常人の数十分に勝るだけの時間になる。
ほどなく彼女の周囲に吹き上げるような風が舞い上がると、前衛のアイアース等を風がさらに後押してくる。
そして、前方にて堅陣を組む敵兵達の中心から巨大な氷塊が飛び出し、周囲の兵士をなぎ倒す。
しかし、成功したのはそれだけでその周囲は眩い光が灯っただけで何も起こっていない。
アイアースもそれを見て右手から業火球を放つが、そのすべてが敵兵達の眼前にて掻き消される。
「法術師か。やはり、上手くいかん」
法術が掻き消さる様を見ていたアイアースは、舌打ちとともにそう呟くとさらに速度を上げる。
敵方の法術師による防護壁であろうが、それは、大地の力を使役する刻印による法術であり、武器による攻撃も威力を減退させるもの。
このまま突っこんだところで、速度を減退させられて打ち倒されるのは目に見えている。
「殿下、あのくらいだったら時間をくれれば破れるわ」
「その時間がない」
慣れない騎馬をアイアースの脇にまで寄せてきたミュウがそう口を開くが、すでにスヴォロフ等は表情を視認できるほどの距離にまで接近してきている。
さすがにミュウと言えど、防壁を打ち破るには相応の時間がいる。例えそれが、一流の法術師よりもはるかに短い時間でもってのことであっても。
「殿下っ、私がっ!!」
「フィリスっ!?」
そんな折、アイアースの傍らへと進み出でてきたフィリスが、弓を引き絞る。
慌ててアイアースは彼女の周囲に飛来する敵の矢を端から叩き落としていくが、数本が身体に突き立ち、フィリスもまた頬に矢をかすらせる。
「っ!!」
それを受け、目を見開いたフィリスが手にしていた矢を放つ。
疾駆する騎馬を置き去りにし、敵陣へと飛翔する一本の矢。本来、矢は弧を描きながら飛ぶものだが、彼女が放った矢はほぼ一直線に緩やかな上りを飛翔していく。
と、矢が弦楽器の如き鋭い音を立てて虚空にて停止する。
すると、その周囲から波紋のごとく揺らめく何かが広がっていき、そこを中心に眩い光が放たれる。
「あれは?」
「防壁破りの矢です。殿下とミュウ様の法術も効いていたのも幸いしました」
眼前の光景に驚きつつ、アイアースはフィリスの言に再び右手に精神を集中させると、細かい火球を無数浮かび上がらせ、一気に敵陣へと放つ。
横一線に並んだ火球が飛来し、一部は再び透明な何かに衝突して消滅するが、フィリスが矢にて穿った穴は修復を許さず、アイアースの火球が敵兵を吹き飛ばしていく。
それを見た他のキーリアや法術を得意とする騎兵達も一気に法術を穴へと穿っていく。
眼前の脅威を排除したかに見えたところに、穿たれた穴は敵兵達には衝撃であった様子で、倒れた味方の救助も後手になんとか陣形を立て直そうとする。
しかし、アイアース等もまた、せっかく穿った穴を埋まらせる訳にはいかず、さらに手綱を引き絞って騎馬を疾駆させる。
そんな中、数騎の騎馬が足を折って転倒し、数人の騎兵がそれに巻き込まれる。
途端に背後から追撃してきていた敵兵達が殺到する。
視線を向けたアイアース達であったが、騎兵達は群がる敵兵たちに頑強に抗いつつもアイアース等に向けて声を上げている。
「殿下っ!! 行ってくださいっ」
「パルティノンをっっ!!」
そんな声が耳に届いたとき、アイアースは騎馬でそのまま敵兵を踏みにじり、剣を振るうままに敵兵を血飛沫に染めていく。
そうして、堅陣を突破したアイアース達。しかし、眼前の隘路の先には敵の第三陣。
この先に、先ほどまでのスヴォロフの本営があるのだが、すでにそこに主は居らず、目先第三陣に控える弩部隊の排除が優先課題となる。
しかし、背後にて上がった喊声に、そこまでの時間は残されていないという事実をアイアースは告げられる。
「っ!? 速いっ!?」
すでにスヴォロフが第二陣と合流したのか、敵兵達の喊声は絶望の縁から救世主が現れたかのような張り裂けんばかりものである。
となれば、すぐにでも反転して逆落としを駆けるべきだとは思うが、眼前の第三陣に背後を見せることになり、一気に崩される危険性が大きい。
「殿下っ!! 後詰めは我々が。殿下はキーリアを率い、逆落としをっ!!」
そんな状況に、フィリスが声を上げる。
たしかに、アイアースとキーリアのごく少数ならば敵の一点を突破し、体勢を立て直すことは十分に可能であろう。
「ダメだ。それではスヴォロフの首はとれん」
しかし、そうなれば、後詰めの騎兵達は全滅する。
弩は騎兵に対しては非常に強力であり、キーリアのような身体的優位性がなければ、致命傷は避けられても落馬の危険性は非常に大きくなる。
さらに、今のような隘路で敵に挟撃されれば、待っているのは全滅しかない。
それが分かっているからこそのフィリスの言であり、その裏にはキーリア達にアイアースを連れて離脱しろと言っているのは明白である。
山の周囲に集まっている敵部隊も、突破するだけならそれほどの労はない。
今更、配下の命の心配をしたところで意味は無く、すでに部下を盾にして生き残った事は何度もある。だが、今回の場合は、元々の成功の可能性は極めて低い任務。
ならば、死ぬ以上は敵指揮官の首を手土産にしなければ割に合わないだろうとアイアースは思う。
なにより、彼自身が部下を見捨てて離脱するなど決して受け入れるつもりはない。
そう思うと、アイアースはそれまで以上に右手の刻印に意識を集中させる。すでに法術を多用していたが、戦による昂揚が全身を支配しており、身体のたがは完全に外れている。
「全軍反転っ!! 敵将スヴォロフの首だけを目指せっ!!」
フィリスの言を退け、なおも眼前の第三陣へと迫ったアイアースは、そう叫ぶと右手を前方へとかざす。
すると、スラエヴォやアウシュ・ケナウ監獄周辺を炎で包み込んだ、小さな火球ではなく、かつて処刑台の露と消えた皇后メルティリアへの弔の炎。
それによく似た巨大な火球が、アイアースの眼前に現れる。
「で、殿下っ!?」
その光景に目を見開くミュウ。他の者達も、突然現れた巨大な火球に唖然としている。しかし、アイアースがそれを前方へと放ったまま騎馬を駆ったことで、全身がその後に続く。
アイアースは敵第三陣の前方にて弧を描くように転進すると、脇に迫る崖伝いに馬を走らせ、一気に跳躍させる。
すると、今までかつて聞いたこともないような爆音が後方にて巻き起こり、熱を帯びた突風がアイアース等をさらに遠方へと運んでいく。
「耐えろ。耐えてくれっ!!」
突然の熱波に狼狽する騎馬を宥めつつ、アイアースは爆風によって吹き飛ばされていく兵士の焼死体とともに第二陣が敷かれていた広場へと達する。
途中、スヴォロフをはじめとする敵主力達が唖然とアイアースの姿を見つめる様を見て取ったが、さすがに自身の放った法術の爆風で敵を飛び越えるなど前代未聞であろう。
そんな敵種の様子にほくそ笑んだアイアースは、着地すると怯える馬に手綱を振るって気立たせると、麾下の者達が着地するのを見計らって、再び馬腹を蹴る。
一気に敵陣へと迫るアイアースとそれを見ておって前に出ようとするスヴォロフを、周囲の兵達が必死に抑えている。
そして、アイアースが再び右手を掲げると、それを見て取った兵の大部分が、顔を青ざめその場から逃散し始める。
麓では突然吹き飛んだ山頂付近の様子に逃散する兵が出はじめており、今の兵達の様もスヴォロフという重しの抑えが効かなくなった結果であろう。
少なくとも、数千人の人間を一瞬で炭変える人間となど、昂揚に身を任せる戦好きでもなければ誰も戦いたくはないだろう。
結果として、スヴォロフを中心とした一部の兵が再び堅陣を組み、アイアースを先頭に紡錘状になって攻め寄せてくるこちら側と一気に激突する。
こちらは二千五百がひとかたまりになっているが、スヴォロフ側は五千ほどを中核として、山頂部や山嶺の各所よりより駆けつけてくる兵士がいるため、まだまだ余力を残している。
となれば、勝負を決めるのは今しかなかった。
「ジル、兵を戻せっ」
「はっ!!」
一度、突撃し、前衛と交戦の末離脱してきたアイアースが、傍らを駆けるジルに視線を向けそう口を開く。
ほどなく、交戦中の騎兵が離脱し、アイアースを先頭に再び弧を描く形となってスヴォロフ本隊と睨み合う形を取る。
「車懸りだ。これにすべてを賭ける。スヴォロフに到達するまで、決して止まるなっ」
騎馬は円を描き、回転をしながら敵に当たり、離脱をして再び敵に当たる。車輪が回るような攻め方であり、たった一度の攻勢では意味を成さない。
参加する全員が、決して停止することを許されず、万一落馬をしたりすれば味方の馬蹄によって挽肉へと変えられる可能性もある。
そして、回転しながら敵に背を向けることもあり、矢で射られることや後方からの逆で気を受ける危険性も十分にある。
しかし、消耗の代償として敵の一点に強力な攻勢を続けることが可能なのである。
元々、原野を疾駆し、騎射を繰り返す戦い方を主とするパルティノン騎兵は、勝も濃激しいこれを嫌ってはいるが、原野を駆け巡ってきた騎馬の持久力は非常に優れており、この作戦で打ち破れなかった敵は、存在していないという。
「ミュウ。フェルミナ」
「はい」
「なに?」
一旦停止し、アイアースはミュウとフェルミナを呼び出す。
フェルミナは相変わらずであったが、ミュウはどこか気に入らないことがあるのか嫌に素っ気ない。
「お前達は数騎ととも待機し、消耗する我々の回復を頼む。とても追い付くとは思えんが、それでも回復は必要だ」
「随分見くびられたものね?」
「そう言うな。まあ、期待している」
そう告げたアイアースに、ミュウの毒のある言が突き刺さるが、今はそんなことを気にする余裕は無い。
二人から目を話したアイアースは、再び剣を握ると、声を上げる。
「これが最後だっ。続けぇっ!!」
そう言って手綱を振るい、馬腹を蹴る。一気に速度を上げ、眼前の堅陣へと迫るアイアース。と、そんなアイアース等の周囲を水色と緑色の柔らかな光が包み、身体が軽くなっていく。
そんななか、アイアースは敵陣の内部にいるであろう、敵将の姿を睨みながら、敵陣へと向かっていった。




