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第29話 運命の雨③

雹を受けた軍馬が嘶き、身体を捩らせる。



「静かに。この程度でなんじゃ」



 スヴォロフは、暴風雨の中、必死で陣幕を張り続ける兵士達に視線を向けつつ、自身の軍馬を宥める。


 周囲に降り注ぐ雹は、パシャリと音を立てながら泥水を跳ね上げ、跳ね上げられたそれはやがて泥水となって流れ始める。


 山頂にいるスヴォロフはそれを気にする必要は特段無いのだが、斜面から麓にかけて展開する兵士達は、足元を取られて四苦八苦している事は容易に想像できる。


 こんな時に敵の攻撃を受ければひとたまりもなかったのだが、嵐のそれよりもはるかに激しい風雨。



 敵の足も自然と止まると考えるのが普通であった。



「鹿が通れるところは、リヴィエト兵は通れるか。よく言ったものじゃの」


「は?」




 しかし、スヴォロフは今になって過去に自身が口にした言葉を思いかえし、それを口にする。


 過去に自分自身も“普通”ではないことを実行して勝利を得てきた。


 老齢になった今でこそ、兵をいたずらに失うまいと采配を振るってきたが、あの頃は兵を消耗品と考え、自分自身も危険に身を晒すことを厭わなかった。


 それが、結果としてリヴィエトの勝利に繋がり、ツァーベルを登極させることに成功したとはいえ、自分が歩んできた道は今も足元を流れる雨水のように、常に流血の道であったと思える。



「こんな時に、敵の奇襲を受けたら。と思うてな」



 そんなことを考えつつ、スヴォロフは口元に笑みを浮かべながら目を丸くする騎兵達にたいしてそう口を開く。



「ロマン閣下やかの白騎士が事に当たっております。他の戦線も、この豪雨では動きようがありますまい」


「万一、我々に向かってきたところで、山上の我らにとっては格好の標的。恐れる必要は無いでしょう」


「周囲に展開した各部隊が包み込み、これを殲滅すればよいだけですしな」



 用意された天幕へとスヴォロフを促しながら、騎兵達は口々にそう応える。


 全身の風雨と跳ね上がった泥で濡れそぼり、軍装もひどく汚れているが、その自信にみなぎる眼差しに陰りはない。


 スヴォロフは、そんな騎兵達の姿を頼もしく思える半面、若さ故に恐ろしさを知らぬまま敵を迎え撃つことの危うさを感じずにはいられなかった。


 かつて、自分が見出した男達も、そんな若さ故の出鼻をくじかれ、それによって戦場の怖さを知ることで、成長してきた。



 しかし、それはまだまだ自分達が挽回の効く勢力であった頃のこと。



 たった一度の敗戦からも立ち直るのは困難ではない勢力であったのだ。


 だが、今のリヴィエトはその頃とは比べものにならないほど大きくなり、対峙する敵もまたはるかに強大な敵。



 そして、その巨大さ故の脆さもスヴォロフ自身は感じ始めている。




「私もまた、敵が予想だにしないことを実行して勝ってきたのだがな」



 口元に笑みを浮かべ、周囲の騎兵達を試すように口を開くスヴォロフ。しかし、口元に浮かんだ笑み以外は、戦を前にした武人。いや、それすらも超越した武神の表情へと変わっている老将の姿に、騎兵達は思わず息を飲む。



 年を重ねたとはいえ、そのスマートに整った容姿のスヴォロフは、普段の好々爺然とした態度であれば、そこいらにいる老人と変わりはないのだが、こうして戦を前にしたとき特有の表情を浮かべるときは、とてもではないが老人のそれとは言い難い。




「まあ、諸君等の言うとおり、包囲をして殲滅すればよいだけのことなんじゃがな」



 周囲の様子に、よけいな緊張を与えたことを悟ったスヴォロフは、はっとしながら表情を崩すと、肩をすくめながらそう口を開く。


 そんなスヴォロフの様子に、騎兵達はやや肩の力を抜いた様子であったが、それからの動きは先ほどまでよりかはるかに締まった動きと成っている。


 図らずも自分の態度が部下達の態度を締めることになったのは幸いであったが、それでもスヴォロフは胸に去来する懸念は払拭できなかった。


 何かがおかしい。否、何か、とてつもないモノが自分の眼前へと迫っているような、そんな予感がしていた。


 兜を脱ぎ、顔と髪を拭ったスヴォロフであったが、それまで浴びていた雨露と泥を落としたとき、その何かを本能的に察する。


 思わず、手にした兜と布を捨て、天幕の外へと飛び出すと、掲げられた軍旗へと視線を向ける。


 その軍旗は、前方レモンスクの方向より暴風に吹きつけられ、激しくはためいている。そして、スヴォロフの鼻腔へと届くある匂い。



 豪雨によって、大地からえぐり取られたそれとは異なり、別のそれがはっきりとスヴォロフの元へと届いてきたのだ。




(……来たかっ!!)




 そう思い、総員に騎乗を命じ駆けたスヴォロフであったが、その刹那。




 世界が揺れた。




「な、なんじゃっ!?」



 思わず体勢を崩しかけつつも、数十年の歳月をかけた彼の足を取ることは敵わず、その場に立ち続けていたスヴォロフ。


 周囲の天幕は倒れ、軍馬は棹立ちになり、将兵が濡れた大地へと叩きつけられているなか、スヴォロフの目には天空を切り裂く一条の光が目に映っていた。



「ぬうっ……っ!!」


「な、何事でしょうかっ!?」


「総員、騎乗」


「はっ!?」


「総員、騎乗だっ!! 急げっ!!」



 全身を泥にまみえさせながらスヴォロフの元へと駆けつけた騎兵に、スヴォロフは短くそう告げる。


 突然のことに、思わず声が上ずった騎兵は、その命を理解していたが、スヴォロフは頓狂な声を出した騎兵に怒鳴るような口調で再びそう命ずる。


 慌てて、その場にて復唱し、臭に対して声を上げる騎兵。すぐさま、本陣に置かれた鐘の音が周囲に鳴り響き、山全体が蠢き始める。


 そんな中、閃光によって切り裂かれた雲が、山全体に陽の光をもたらす。


 先ほどまで、薄闇に包まれていた大地にとって、それはまるで祝福の光りであるかのように、豪雨によって濡れそぼった将兵の身を温めてくれる。



 しかし、スヴォロフ等にとってそれは、大きな脅威が目前にまで迫っていたことを告げる死の光りであったのだ。



 そして、麓にて赤い閃光が起こったかと思うと、轟音とともに火柱が立ち上り、いくつかの竜巻が麓のリヴィエト兵達へと襲いかかる。


 やがて、方々にて歓声が上がったかと思うと、剣戟の音が山頂へと届けられ始めた。



◇◆◇◆◇



 天を切り裂く閃光は、暴風雨を彼方へと追いやり、大地に光りをもたらしていた。


 そして、眼前にそびえ立つ小山に陣をかまえる軍。いまだに吹き荒れる風雨の中、鮮やかにはためく赤き御旗。


 それは紛れもなくリヴィエト軍の軍旗であり、何かを守るように陣をかまえる軍の姿から連想される回答はただ一つである。


 剣を握る手に力がこもり、馬腹を挟み込む足も力強さを増していく。


 そうして、背後に控える者達を一瞥するアイアース。



 視線の先にはフィリスの姿。


 凛とした佇まいに、凛とした視線。決して弱さを見せぬ力強さは、十数年の時を経ても変わることはない。


 今となっては、その強さの中にある弱さを自分がもっと早くに気付いていれば? と思うときもある。しかし、それがなければこうして互いに思い合うこともなかったのであろう。



 傍らにはフェルミナ。



 かつては、すべてに絶望し、一人の女性にすがり、そしてアイアースにすがるしかなかった弱き姿。今の彼女にそれはなく、苦労を重ねながらも成長した女性の目には穏やかな光りが灯っている。



 そして、彼女達から一歩下がった位置にてアイアースに視線を向けているミュウ。



 普段はどちらが年長者か分からないほど幼稚な面がある女性だったが、かつての悲劇からそれまでの屈辱の日々の間、常にアイアースとともにあり、その悲しみも苦しみもすべてを知る女性。


 今もまた、母性に溢れ、暖かく、茶目っ気に満ちた笑みと視線をアイアースへと向けている。




 さらに視線を向けると、白き軍装に身を包んだジルの姿。



 顔合わせは、互いに気まずいモノであったが、その後の地獄のような戦いと愛するモノとの別離の中で確実に互いの心情を理解し合う仲間。


 臣下として常にアイアースに忠誠を尽くし、時に叱咤し、時に激励しながら、強の日まで付き従ってくれている。




 そんな彼とともにアイアースに視線を向ける白き軍装に身を包んだ兵達。



 帝国の崩壊とともにその地位を闇へと落とされ、宿敵の支配に身を置く屈辱の日々。今こうしてともにある者達は、それでも希望を捨てずに戦い続けた者ばかり。




 そして、帝国の崩壊と復活の長き塗炭の苦しみの中でも帝国に忠誠を尽くし続けた騎兵達の姿。



 かつて、白き狼虎とともに永遠なる草原を疾駆し、パルティノンの礎を築いた騎馬軍団。千年の時を経た今となってもその伝統は色濃く残る頼もしき面構えと猛き視線がそこにはある。


 それらの視線が一点に集まる中、アイアースは自分をこの世界に産み落とし、この世界にて導き続けた女性が、彼のために作り出した剣を光り降り注ぐ空へと掲げる。



 腹の底から何かを叫ぶが、なぜかその時のアイアースの耳には自身の声は届いていなかった。




 それでも、彼と同様に得物を掲げ、声を上げる兵達の姿が目に映る。




 そして、気付いたときには、アイアースは光り溢れる草原を疾駆していた。






 次第に迫りくる山景。


 その麓にて陣をかまえる敵兵達の姿が大きくなり、こちらの姿に狼狽する姿が目に映る。無言のまま、アイアースは剣を握りしめた手を掲げると、その手が鮮やかな赤い光りを灯し始める。



 全身から何かが右の手に集まっていく感覚。



 法術は、その生命力そのものを媒介として大きな力を生み出すとされている。実際に巨大な威力を誇る法術を駆使した者は、歩くことすら億劫になるほど消耗されるという。


 しかし、今のアイアースにそんなことを考慮しようという意志はまったくと言っていいほど無かった。


 否。すでに、アイアースの肉体も意志も、彼ではない別の何かによって支配されているような、そんな状態になっているのだった。




「――――――っっ!!」




 再び、耳に届く事なき雄叫びを上げたアイアースの手から、赤き閃光が解き放たれる。


 眩い光を放ちながら、虚空を翔けるそれは、慌てふためく敵兵達の元へと飛び掛かると、巨大な火柱となって天空へと舞い上がっていく。


 それに続けとばかりに、周囲に襲いかかる巨大な竜巻と氷塊。さらには、雷と炎の入り混じった巨大な破壊の光りが敵陣へと襲いかかっていく。


 アイアース等が敵陣へと突入したとき、それらによって蹂躙された敵兵の亡骸無数に転がり、難を逃れた敵兵達もその場にへたり込んでいる。




「第二陣っ!! 続けぇぇいっっっ!!」



 ようやく音を感じ始めた両の耳に、自分自身の無意識の叫びが届き始める。


 法術による奇襲はもう通用しない。第一陣の敵を一方的に蹂躙しただけで十分なのである。


 第二陣以降、眼前の防護柵からこちらを睨む敵兵達の姿が目に映る。互いに睨み合う格好になると、アイアースは敵兵達が筒状の何かをかまえる様を見て取る。。



 何かは分かっていたが、それに対して躊躇いを見せるつもりはさらさら無い。馬腹を蹴ると、斜面を疾駆していた軍馬が行く手を阻む防護柵を一気に飛び越えんと跳躍する。




 眼下に敵兵士。その手にかまえられた弩は、周囲の兵が持つすべてがアイアースへと向けられていた。



 突然、すべてが低速になる。



 そんな中をアイアースは跳躍し、迫り来る弓矢が眼前へと迫る。



 再び雄叫び。



 世界が元に戻ったとき、アイアースは両の手に構えた剣を振るってそのすべてを叩き落とすと、着地と同時に周囲の敵兵の首を飛ばした。



 刹那。



 鼓動が大きくなって耳に届く。



 何かが迫っている。そんな気がしていた。アイアースの背後に続く者達が周囲を蹂躙する最中、アイアースは鼓動を感じる先へと視線を移す。




 再びの鼓動。





 視線の先には、山頂より猛然と下ってきている騎兵の姿が映りこんでいた。



◇◆◇◆◇



 生涯を不敗のまま生きてきた男と生涯を不勝のまま生きてきた男。


 そんな相反する人生を歩んできた二人の邂逅。それは、老将と少年の邂逅ではなく、戦場に生きる男と男の邂逅であった。




 運命の雨は上がり、決着の時へと時間は動こうとしていた……。

明日も19時の投稿予定です。

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