第27話 運命の雨①
ヘイム山山頂に烽火が上がった。
レモンスクの城塔を横目にそれを視界に捉えたスヴォロフは、表情を崩すことなく伝令将校を呼び寄せ、静かに命令を伝える。
一瞬、驚きの表情を浮かべた伝令将校であったが、反問するこなく命令を受諾した彼は、部下達を方々へと散らせ、自身も駆けだしていく。
「ふむ」
そして、ほどなく彼を中心に巨大な竜の如く大地を闊歩していた軍から、鱗が一枚一枚剥がれ落ちるように部隊が左右へと展開していく。
それらはまるで演舞を踊るかの如く連動し、草原を悠然と進む巨竜が翼を広げ、大空へと舞い上がらんとしている。
すでにレモンスクへの道は開かれているが、その動きは戦闘のための展開であり、全軍にはスヴォロフがレモンスクにて停止することなく、パルティノン東西方面両軍に戦闘を仕掛ける意志があると伝わっていく。
両軍とも数は有しているが、連日の戦闘で大きく疲弊しており、悠々と進軍してきたスヴォロフ本隊にとっては路傍の石と変わりはない。
そこには、スヴォロフと一部の将兵しか知らぬ意図があるのだが、それを口にするつもりはスヴォロフにはない。
烽火が上がった以上、すべてを託せる人物もこちらへと向かっているはずであった。
「掛かりますでしょうか?」
傍らにて馬を進める騎兵が静かに口を開く。
烽火はパルティノン側の設置したモノであったが、すでにヘイム山の陣はアンジェラによって攻略されており、こちらに敵奇襲部隊への攻撃開始を告げる合図となっている。
逆にパルティノン側にとっては、如何なる意図を持っての烽火か分からずに、あわよくば撹乱を狙う事も出来る。
そして、今騎兵が口にした“掛かる”とは、文字通りこちらが仕掛けた罠にはまるか否かという事である。
「掛からずとも良い。元々、ロマンとアンジェラが討ち漏らした際の備えじゃ」
スヴォロフは、そう言うと改めて眼前にてうごめく部隊とそれに隠れるように離脱していく小隊の姿を一瞥する。
大部隊の動きに合わせ、本隊側面に埋伏する部隊。
仮に、二将の隊を突破したとしても本隊に突撃する際には、彼らの横やりを受ける事になる。
豊富な戦力を有するが故の慎重な用兵に見えるが、それは守備のためと言うよりも敵を討ち取りに向かう攻勢の意味合いが強い。
「ふむ……。昼はあの山に陣を取るとしようかの」
「良いと思います。交戦中の各軍にも閣下の勇姿が映りましょう」
「加えて、レモンスク周辺で戦う敵部隊も一望できるかと思われます」
にわかに騒がしくなり始めたスヴォロフ軍本隊。
彼らにとっての目的地たるレモンスク到着は両日中に成り、スヴォロフが意図する進撃に際してにの必要な戦いもまた目前にある。
しかし、それも時が来ればのことであり、時が来るまでは状況を見つめる事もまた必要であった。
視界に映った小高い丘を指し示したスヴォロフは、周囲の騎兵達の言に頷き、馬を進める。
「それにしても、土気の良い大地よの」
ここ数日、この地特有の春雨は止んでおり、大地も比較的締まっているが、普段のこの大地は泥濘に包まれ、進軍を妨げると聞く。
それでも、雪解けと春の雨が眼前に広がる豊潤な草原を生んでいると思えば、それも一興かとスヴォロフは思う。
それは、すべてを蹂躙し、奪い、破壊し続けたリヴィエト軍人とは思えぬ感慨であるが、普段は浪曲や合唱に興じ、お世辞にもマジメな軍務生活を送っているとは言い難いスヴォロフにとっては、それらの大地の生き様もまた感性に触れるのである。
丘を登り始め、水気を含んだ空気が鼻に届くのを感じながら先へと進むスヴォロフ。
そんな詩人気質の老将の耳に、疾駆する軍馬の馬蹄の響きが耳へと届く。
「どうしたのかね?」
馬をとめ伝令を迎え入れたスヴォロフは、予想外の伝令の接近を訝しげに思いつつ静かにそう口を開く。
「コンドラーチェ将軍より閣下に。『我、パルティノン軍と遭遇。その地に、白き軍装に身を包み、目元に悪魔の紋様を刻みしキーリアあり』との事であります」
「悪魔?」
伝令の言に、スヴォロフは短くそう呟き、顎に手を当てながら伝令の言を反芻する。
そんなスヴォロフの様子に、周囲の騎兵達も伝令の“悪魔”と言う言葉を受け、顔を見合わせていた。
ロマンがやや大仰な言い回しで言葉に色をつけるというのはよくある事であったが、今回の悪魔との表現は、それを目にした人間でなければすぐにイメージのわくものではない。
『閣下……。我々の出番が来たようですな』
「む?」
そんなスヴォロフ等の耳に、どこからともなく男の声が届く。
ほどなく、彼らの眼前に柔らかな光が現れると、それは徐々に人の形に変わっていき、光が消えるとそこには報告にあった白き軍装に包まれた巨漢の男が立っており、彼に目元には牡牛を模った紋章が刻まれている。
「ふむ、貴公は…………誰だったかの?」
「……マクシミリアン殿等とともに、大帝陛下の幕下に馳せ参じましたゼノンにございます」
「ああ、そうだったか? それで?」
突然目の前に現れた男に、周囲の騎兵達が色めき立つが、男から向けられる鋭い眼光にみな得物を握ったままその場にて凍り付く。
男から発せられる覇気は本物であり、歴戦の兵士達を震え上がらせるには十分な者でもあったが、不敗の老将はそれを意に介することなく男に対して口を開く。
あいにくと、戦場のすべてを見通さねばならぬ老将の脳みそによけいな人物を記憶していく余裕などほとんど残っていない。
ゼノンと名乗った男に対して、スヴォロフはさしたる興味も抱かぬまま先を促す。
そんな老将の悠然とした姿に、周囲の騎兵達も得物を治め、落ち着きを取り戻し始める。
その様子に、それまで慌てふためいていた騎兵達に冷たい視線を向けていたゼノンも、スヴォロフの統率に感心したのか、恭しく膝をつき改めて口を開く。
「……件のキーリアの討伐。是非とも私めに御命じください。彼奴を討てる者は私をおいて他にはおりませぬ」
「ほう? それほどまでの大物か?」
「御意に。彼奴の名は、イースレイ・タルタロス。現在のパルティノンにおけるキーリアの頂点に立つ男にございます」
「タルタロス?? パルティノンには、奈落を意味する家名があるのか?」
「偽名であろう。キーリアとはこの男のような得体の知れぬ者が多いとも聞く」
「それは分かりかねます。ですが、私もかつては№2にまで上り詰めた身。直接の対決無く、その地位を超えられたことに納得はしておりません」
イースレイの名を口にしたゼノンの表情は、一見すると穏やかな者であったが、その内面に秘められた憎悪をスヴォロフ等ははっきりと感じ取る。
端から見れば、取るに足らぬ嫉妬であるとは思うが、現在ロマン等と対峙するキーリアが本当に№1であるとすれば、それを討ち取る事がこちらの優位に働くことは自明の理。
かつて、帝国の守護神として君臨していた時代と比べればその地位は下落しているとは言え、相応の力を持つ人間の死に動揺しない軍は無い。
「まあよい。差し向ける予定だった連中を一緒に連れて行け。貴公の矜持は知らぬが、それは受けてもらうぞ?」
「…………仰せのままに」
そう言って馬を進め始めるスヴォロフの言に、恭しく頭を垂れたゼノンが顔を上げたとき、すでにスヴォロフはゼノンの姿を見てはいなかった。
そして、ゼノンが伝令兵とともにその場を後にするのを待ち、静かに口を開く。
「ふん。蝙蝠が」
めずらしく侮蔑の表情を浮かべたスヴォロフに対して、周囲の騎兵が顔を見合わせるが、生涯を一つの国に捧げてきた老将が、裏切り者に抱く感情を容易に察し、苦笑ともに顔を見合わせる。
いずれにしろ、スヴォロフの首を狙う人間が、彼の元へと辿り着くには、不快な人間であっても件のキーリアを打ち破り、かつ増援として赴く五千を突破する必要がある。
すでにスヴォロフの関心は、森に現れたという巨大な闘気から、レモンスクを囲む大軍への攻勢へと移っていたのだった。
「淀んできたの……」
山の頂上へと馬を進めるスヴォロフは、ふっと空を見上げながらそう口を開く。
朝方からやや雲の多い天気であったが、正午に近づいた今になってにわかに荒れ模様をていし始める。
そして、頂上へと到着したスヴォロフが、眼下にレモンスクの城塔と周囲にて交戦を続ける両軍を視界に収める。
その視界に広がる景色は、雨によって静かに彩られ、色彩を濃く染めていた。
◇◆◇◆◇
斜面に転がる骸が風雨によって洗い流されていく。
アイアースは、周囲に転がる首のない死体を一瞥すると、顔に吹きつける風に眼を細めつつ眼下の大地へと視線を向けた。
ヘイム山の斜面からは、ニブル丘陵以上に周囲を見渡せる。
敵の目を欺く意図と同時にそのような思惑もあって山を登ったアイアース等であったが、その思惑は脆くも崩れ去る事になる。
風雨によって敵の視界が狭まっている事が救いであれ、こちらも敵の状況を把握する事が困難になってくる。
速度を生かし、敵に先んじて攻勢をかける。
兵力に劣るこちらにとっては必定の命題であるのだが、この状況下ではそれも困難になってくる。
「とはいえ、敵の目が眩んでいるのも事実。今なら、東西両軍の味方に紛れる事も可能なはずです。スヴォロフの本隊を探り出し、これにっ!!」
周囲に立つ者達の仲で、フィリスがそう口を開くと、周囲の者達も頷く。
雨に乗じてニブル丘陵を出立。
ヘイム山を通る事でこちらを警戒していた敵の目も欺いている。加えて、雨足を増す風雨。動かぬ理由は何もなかった。
「敵は、レモンスク北面の包囲陣を切り崩し、街道の通行を可能にした。だが、こちらの奇襲を見破った以上、レモンスクには入らずに直接東西両軍に戦いを挑むと私は読む」
「……つまり、街道を直進しては来ないと?」
「うむ、……加えて言うのならば、東西両軍への攻勢すらも敵の本意ではないかも知れない」
「……レモンスクを迂回し、本隊に奇襲をかけるとも?」
「あり得ないことではない無いと思う。しかし、そう言った選択肢があるのならば、こちらが攻め込む場所も絞り込める」
「街道が交錯する場。もしくは、各軍の動きを一望できる場……」
「状況に乗じた動きが出来る場所という事ですね」
「でも……、敵に攻撃できるのは一回だけ。それを逃せば次はないわよ?」
アイアースの言に、フィリス、ジル、フェルミナ等が応じ、それに頷くアイアース。にわかに生じた風雨が状況を動かし、一つの判断がすべてを決する状況になってきている。
ミュウのアイアースに対する言も、そんな状況に対する覚悟を促す意味合いが強く、年長者として悪者になろうという意図もアイアースには伝わってきていた。
「一回ではないさ。外れだったらとっとと逃げればいい。だが、俺達が攻め込んだ先には必ずスヴォロフが居る」
「根拠は?」
「無い。あくまでも勘だ」
「馬鹿みたいな話ね。頭脳派としては、頭の痛い話だわ」
「しかしミュウ殿。戦場にあっては、理論よりも本能が結果を生む事も往々にしてあること。まして、殿下はこれまでに様々な状況を覆してきたお人だ」
「それならそれでいいわ。私だって、殿下を信じていないわけじゃないもの」
そう応えたアイアースに対して、ミュウは力なく首を振るう。普段のほんわかとした彼女とは大きく異なる姿に、フェルミナをはじめとする者達が目を丸くしているが、すでに彼女の意図を察しているジルが、やんわりと口を開く。
「ならば、信じろ。――一時休息を取る。出立は半刻後」
そう言って軍馬から降りたアイアースは、レモンスクを望む崖の縁に足を向ける。
普段であれば、街を一望できるこの場も、勢いを増す風雨によってその姿は薄く写っているだけである。
ふっと一息吐き、風雨の先へと視線を向けるアイアース。そこに敵の姿はないが、うごめく何かの存在ははっきりと感じ取る事が出来る。
これが、万人が感じる事なのか、生まれもってに血が成せる事なのかは分からなかったが、アイアースはそれに対して、恐れとともに身体の昂ぶりを感じずにはいられなかった。
「殿下」
そんなアイアースに近づく気配。
普段であれば思わず剣を抜いているところであったが、その声にアイアースはそれまでの昂ぶりが抑えられるように思えた。
「フェルミナか。どうした?」
銀色の髪と黒き翼から水を滴らせながらアイアースへと近づくフェルミナ。一瞬、普段とは異なるその姿に、少女から大人への成長を感じさせられ、アイアースは思わず旨が高鳴ったような気がしていた。
しかし、彼女の真剣な表情に、そんな感情を即座にしまい込む。
「殿下、何卒、私に斥候を御命じください」
「……それは、以前に却下したはずだが?」
「何卒……」
「…………。この風雨の中では、空を駆る事は困難であろう。身を隠す事は容易でもな」
片膝をつき、そう口を開いたフェルミナに、アイアースは静かにそう答える。
それでも、フェルミナはその大きな瞳をアイアースへと向けてくる。その目は、それまでの弱々しさを含んでいた少女の目ではなく、カミサにて再会したときの凛とした一人の戦士のものであるようにアイアースには思える。
「何故、そこまで死に急ごうとする? 俺に、再び大切な者を失わせるつもりか?」
「私は死にません。そして、これ以上、殿下に大切なものを失う悲しみを背負わせる事はいたしません」
「質問を変えよう。お前は十分に俺の役に立っている。なぜ、そこまで無理をしようとする?」
そんなフェルミナの態度にアイアースは憐憫の情を抱きながら、再び問い掛ける。
彼女は、あの悲劇の際にも自分と行動をともにし、同じように地獄を経験している。しかし、それは一重にアイアースが彼女を奴隷として自らのものとした事にある。
そうしなければ救う事は難しかったという側面はあれど、それを正当化するつもりはアイアースにはないし、フェルミナもまたそれを理由として、今の行動をとっているつもりはない事は分かる。
では、なぜここまで危険な任務に身を置きたがるのか?
自分が倒れる事が、アイアースにどれほどの衝撃をもたらすかが分からぬフェルミナでも無いはずであった。
「勝つためです。殿下」
「ならばよけいなことだ。必要は無い」
「確実に勝つためです。殿下が大切な人達とともに……」
「お前もその一人だ」
「…………次元を超えて、思いあっている人達の間に、私は入れませぬ」
「っ!? あの時の事か……っ」
「申し訳ありません。ですが……っ」
「…………フィリス。お前も来い」
何かをこらえるように、そう声を上げるフェルミナの言を受け、アイアースは先ほどよりこちらへと窺っている少女のの名を告げる。
風雨はさらに強まり、二人の会話が周囲に届く事も姿が認められることもないなか、フィリスが風雨の中をゆっくりと二人の元へと近づいていくる。
「殿下」
「それはやめよう。斉御司」」
「今の私にとって、殿下は殿下です。それで、フェルミナ様……」
「フィリスさん。あなたは、殿下の事を」
風雨の中、姿を見せたフィリスに対し、アイアースはかつての呼び方で彼女を呼ぶが、彼女はそれに首を振り、改めてフェルミナへと顔を向ける。
フェルミナもまた、初めてと言って良いほどはっきりと自分の言葉でフィリスへと問い掛ける。
「それはね……。あれから十何年、いえ、正確には記憶が戻ってからだから7年ぐらいかしら? 思い続けてた人だもの」
「……あの時も、思いを告げようと思っていたのはこんな場だったな。多分、ここの夜景はそれほどきれいじゃないだろうが」
ふっと、少女のそれから、大人の女へと表情を変えたフィリスが、風雨の先へと視線を向けると、アイアースもまた苦笑しつつ、過去の記憶を口にする。
「そして、帝国の皇子様と大貴族の息女様。奴隷の身であった私が、これ以上の思いを抱くのは分不相応でございます」
「お前は飛天魔の姫だろ」
「すでに国を離れて数年。私の存在など、すでに無くなっております殿下。そして、私は……っ!?」
「きゃっ!?」
そんな二人の様子に、年来の思いと仲むつまじさを感じ取ったフェルミナは、こぼれ落ちるそれを拭うことなく、そう口を開く。
アイアースもまた、宥めるように口を開いたが、それはフェルミナの言によって否定される。
すでに身を引く事と同時に、命を擲つ覚悟をするまでに思い詰めていることを悟ったアイアースは、静かにフェルミナ、そして、フィリスを抱き寄せる。
「…………俺には、二人のどちらかを選ぶなんて出来ない。フェルミナは、もっとも苦しいときに一緒にいてくれた人。フィリスは、この世界に来てからも忘れることのなかった人」
「で、殿下……っ!?」
「そ、その……っ」
風雨が静かに三人の姿を濡らす。
「だからこそ、生きよう。そして、勝とう。フェルミナ、心のわだかまりが無いのならば、斥候の任。お前に託す。――能るか?」
「――っ!? はいっ!! 任せてください」
「フィリス。お前は、後詰めの指揮を。万一の際は、殿軍となる。――能うるか?」
「……分かりました。殿下は、そして、皆さんは必ず」
「よし。――それで、生きて帰ってきたら、答えを聞かせてくれ……。二人とも、俺の――――」
◇◆◇
運命の雨が戦場を激しく濡らしている。風雨の先に待つのは、栄光か崩壊か。その答えを知る者は、誰もいなかった。




