第20話 天翔るもの③
宵の闇が晴れはじめると、青白さをもった雲海の中から一つまた一つと黒き影が浮かび上がってくる。
やがてはるか雲海の先より差し込む光に、影達はその濃色の体躯から鈍い光を反射させ、その姿を空へとさらけ出しはじめる。
無数に浮かんできた影達の正体は、飛竜と天馬。
宵の闇間に大地にて休息をしていたそれらは、朝日と共に再び天空へと舞い上がり、自分達の目的の地へと赴こうとしていた。
そんな飛兵達の中で、一際目立つ深紅の外套を纏う竜騎士が、飛兵軍団の先頭を駆る飛竜の元へと近づいていく。
竜騎士の顔立ちは幼さを残しているが、深紅の外套は伝令将校の証であり、実力主義の前線部隊にあっても一目置かれている立場。
それでも、まだまだ若く経験も浅い女性士官という事もあり、幼い外見や小柄な体躯も相まって、尊敬の類と言うよりは愛玩に近い感情を向けられている。
「シェスタフ閣下、遅くなってしまい申し訳ありませんでした」
「おう、ターニャ竜士、無事だったか。なかなか戻ってこないから心配していたぞ」
「申し訳ありません。荒天に竜が迷い、負傷の治療に当たっていました」
「そうか。まあ、そのあたりは覚悟の上だがな……。それで、気取られなかっただろうな?」
飛兵軍団の指揮官であるレット・シェスタフは、伝令将校であるターニャの帰還に安堵の表情を向け、彼女からの報告を受けるが、報告を聞き終えると表情を引き締め、ターニャに対して鋭い視線を向ける。
彼らにとっても、敵に気取られることなく攻勢をかけ、その戦力を徹底的に破壊する事が勝利の鍵となることは自明の理。
特に、北辺で示した陸と空の堅密な連携による縦深攻撃は、やはり空からの攻撃が大きな要素を占める。
そして、指揮官であるシェスタフは、自分達は兵力において勝っているものの、個人の技量に関しては、パルティノン飛兵に大きく水をあけられている事を自覚している。
まだ、十代の少女と呼べる年齢のターニャが軍内部での実力者であるという事実がそれを証明していた。
「……それが」
「聞こう」
「身を隠してはおりましたが、敵の飛空兵と思われる人間に接触されました。あいにく、敵は技量に勝っており、口封じも敵わず」
「それで? 敵はこちらに気付いているのか?」
「追撃は交わしました。到着が遅れたのもそれ故……」
「……スヴォロフ閣下からの指示は?」
「細かい指示はこちらに。本隊はあと五日でレモンスクに入るとも」
「…………過ぎた事は仕方あるまい。ヴァシレフスカヤ竜士」
「はっ!?」
ターニャの言にそれまでとは一転、厳しい表情を受かべたシェスタフは、水晶版に挟まれた指令書に目を通し、吹きつける風に身を任せるようにふっと息を吐きながら目を閉ざすと、ターニャに対してファミリーネームで呼びかける。
「失態の責は追って取らせる。各部隊に対地攻撃装備を」
「はっ!!」
「それと、貴官は直援部隊の指揮を取れ。――理由は分かるな?」
「ははっ。ご配慮いただき、ありがとうございますっ!!」
シェスタフからの命に、ターニャは表情を引き締めつつそう答えると、飛竜を駆って他部隊への伝達に向かう。
その際に、無意識のうちに唇を手で撫でていた事には、シェスタフはもちろん、ターニャ自身も気付いてはいなかったが、命を受けた側は挽回の機会を得た事で意気揚々と任務へと赴いている。
対して、命を下した側の心情は対照的であった。
「……綻びが出たか。あの子もまだまだ若いという事かな」
ターニャの後ろ姿に、シェスタフは厳しい視線を向けつつもそう呟く。
命令を受けた側も以外に思っていたのであろうが、隠密行動中の接敵は指揮官によっては処断もあり得る重大な失態とも言える。
シェスタフ自身も甘い命令と処罰を下した手前、嘆くわけにも行かないが、ターニャ以外であれば処断はなくとも、この場での追放も十分あり得たように思える。
そうでもしなければ、出撃から安全な上空ではなく、雷雲の中で雷雨に身を晒し、落雷によって生命を失った兵も出るような状況に耐えてきた友軍に申し訳は立たない。
一個の綻びが作戦全体を破綻させる事など、すでに十年近く戦場に立ってきているシェスタフはよく心得ているのだ。
特に、ターニャのような、普段から自分を律し、若くして功績を挙げている期待の人間が起こした失態というのはそのままに敗北へとつながる事がよくある。
戦には、人智を越えた力が働いているとしか思えない事態が発生する事も多いのだった。
「……過ぎた事を嘆いても仕方ないがな」
「閣下っ!! 攻撃準備、完了いたしましたっ!!」
そう呟いているシェスタフの元に、ターニャからの伝を受けた副官が竜を寄せてくる。
「ご苦労。雷雲の状況は?」
「変わらず、レモンスク南方数十まで続いている様子です」
「よかろう……。全隊に伝達。これより、全速で戦闘空域に突入。パルティノン前衛部隊に攻撃をかけるっ!! 続けっ!!」
副官の言を受け、シェスタフは、自身の敵にした大型の槍を前方へと振るう。
それを受けて、副官が右手を掲げ、大型の火球を上空へと放つ。
鮮やかな橙色の光が、雲間より現れ始めた朝日を多い、上空に舞う飛兵達の姿を照らしていく。
そうして、空を覆わんばかりの飛兵達は、一騎、また一騎と雲海の中へと突入していった。
「はじめた以上は仕方があるまい。ここからは私の戦いをさせてもらうぞ」
雷鳴の轟く雲間に突入しながら、シェスタフは二人の女性の姿を思い浮かべながら、そう呟く。
長くリヴィエトの勝利に貢献してきた二人の女性であったが、今回、その作戦を破綻に導きかねないのは、彼女らの妹にあたる人間。
元々、経験の不足から前線配置に賛成はしていなかったのだが、才覚自体は姉たちに劣る事はなく順調に経験を重ねていた。
とはいえ、最も重要な時に失態をしてしまえば、それまでの功は無に帰す。
それでも、その失態を取り返すのは自身の責任であり、失態の穴埋めを行うのは、上官たる自分の役目。
それと同時に、シェスタフにはどうしても相対したい人物が、パルティノン側には存在していた。
◇◆◇◆◇
飛竜の動きに迷いはなかった。
月のない夜は、夜明け前の一時を漆黒の闇に包む。すべてが眠りにつき、大地が無に帰されるその刻に、静寂が支配する森林は木々を許す音と風を切る羽音によって眠りから覚まされる。
上空は雲一つ無い群青の空。顔を向けると、山塊の彼方に白き雲海がそびえ、その周囲には灰白色や黒色に近い雲が点在している。
ミーノスは、後方を振り返ることなく手を上げ、飛竜はそれに従いながらさらに高度を増していく。
やがて、細かい微粒子が顔をつき始める。
手にしたそれは、氷の塊。僅かな水分すらも凍り付くほどの高さにまで上ってきたと言える。飛竜が持つ守護によって、身体が凍り付く事はないが、それでも寒さを感じるような高さになっている。
「各員、点在し、索敵にあたれ」
そこまであがり、雲海へと近づいたミーノスは、短くそう告げると飛竜を緩やかに滑空させていく。
速度を上げて、雲海に接近したミーノスは、ふと跳ね上がる鼓動に気付くと、飛竜を緩やかに横に動かせる。すると、飛竜によって作り出された雲間から、急峻な岩肌が,青を出していた。雲海の中には山塊が姿を隠し、最悪激突死の危険もある場。
だからこそ、敵が身を隠すにはもってこいである。
とはいえ、本来の飛空兵同士の戦いではあり得ない行動とも言える。
雲間を挟んでの対峙はいくらでもあれど、雷雲や暗雲の中に身を隠して移動するというのは、それまでの常識にはない。
飛竜の守護があるとは言え、雷の直撃を受ければ飛竜であっても一瞬で焼き尽くされてしまうし、乱気流によって隊列は乱れる。
さらに、視界が白雲以上に悪く、奇襲の発見も遅くなる。
とはいえ、少々の損害を無視できるとすれば? 敵が常識にあった用兵を行う軍であったとすれば?
奇襲は相手の虚を突く事を第一とする。
本来であれば、少数が大軍を撹乱する為に行うのであろうが、大軍による奇襲もまた数で劣る側にとっては大きな脅威となる。
少数側の力量が、大軍側を上回っているとすれば、いかに大軍であっても正面からの挑戦という勇戦を挑むわけにも行かないのであろう。
「……いないか?」
しかし、敵が奇襲を持って戦いを挑もうとしているのは分かっていても、それを発見できねば意味は無い。
敵の対象は自分達ではない以上、こちらが奇襲を察したところで、地上部隊が対策をとれるはずはない。
もっとも、地上戦力の総指揮官であるフェスティアもシュネシスも敵の奇襲は察知している。察知しているとしても、すべてを防ぎきる事が困難なのが、飛兵による地上への攻勢なのである。
今、こうして雲海を睨むミーノスに課せられた責務は、まさにパルティノンの運命を決めるものであった。
「となると、行くしかないな」
一人そう呟くミーノス。
それに答えるように飛竜もまた、首をあげる。彼と同じように、飛竜もまた操主が求めるモノを知っている。
そして、それがどこにあるのか? 確証はないが、予感は十分にあるのである。
そして、ミーノスが眼前の雲海への突入を命じようとしたその時。
「殿下っ!!」
背後より、耳を突く声。
思わず視線をあげると、雲海の中からゆっくりと顔を出す無数の黒き影の姿がミーノスの目に映りはじめていた。
ほどなく、傍らに飛竜を寄せてきたルーディル、イルマ、ヴェルナーといった竜騎士達に対し、ミーノスは顔を綻ばせた。
◇◆◇
大地は次第に灰白色へと変わっていった。
「やはり、ここしかないというわけですね?」
ルーディルは、傍らにて飛竜を駆る青年を一瞥し、ゆっくりと口を開いた。
早朝より追尾を続ける敵部隊。
こちらの接近を察したのか、昨日の出来事が影響したのかは分からないが、敵飛空部隊は速度を上げて暗雲の中を突き進み、ついには最前線都市たるレモンスク上空にまで接近していた。
地上での移動では数日かかるそれも、空からの移動ではほんの数刻の距離。まもなく、激突が続く前線に炎や岩の雨が降り注ぐ事になる。
当然、ルーディル達に座してそれを見過ごすつもりは微塵もなかったが。
「ああ。運がいいと言ってしまえばそれまでだがな。俺達は賭に勝ったという事だ」
「そうですね。まあ、私からすれば戦いになってくれたのは嬉しいですけどね」
ルーディルの言に、口元に笑みを浮かべながらそう答えたミーノス。
教団の衛士であった頃は、問題児だが有能な若手の一人として有名だったが、まさか自分自身の主君にあたる人物であるとは夢にも思っていなかった。
とはいえ、現時点ではキーリアとして指揮官という立場を預かっているという建前。
皇子である以上、相応の礼儀は尽くすが、それ以上の事を彼が望んでいる様子もない。それに、ルーディル自身は飛竜を駆る戦いそのものを好んでおり、運を味方につけて戦場を選ぶ事も出来た皇子に対してこれ以上望む事もない。
「それにしても、天の悪戯はとは良く言ったモノだ」
そう呟くミーノスに、ルーディルもまた口元に笑みを浮かべながら頷く。
彼らは今、太陽を背に眼下に広がる暗雲とその先に広がる雲間へと視線を向けている。
すでに陽は天高く、陽の光を背後に敵の目を眩ませるには最適な状況。加えて、天の悪戯と呼んだように、敵が目的とするはずの前衛部隊の姿が雲間より視界に捉えられているのだ。
そして、暗雲の中より、一騎、また一騎と飛竜が姿を見せ始める。
「さて、いよいよだな」
「一番槍はお任せいたします」
「ああっ」
そう呟くとミーノスは、ルーディルの言に頷き、目を閉ざす。
すると、飛竜が纏う守りが緩やかに輝きはじめ、ミーノスの周囲に緩やかな風が舞い始める。
白色の軍装や金色の髪が風に揺られ、飛竜と彼の周囲は紫色の光と金色の光が混ざりはじめる。
彼がその身に宿す刻印と飛竜が生まれながらに持つ守護の力が、せめぎ合い、さらに異なる力を産み出そうとしているのだ。
これは、非常に危険であると同時に、恐るべき力を発揮するという側面もある。
元々が、刻印による法術自体が危険なものであるのだが、それを制御しうるだけの力があれば問題ないというのが刻印法術というモノである。
そして、それを制御するだけの才覚を持ち合わせている人物は目の前にいる。
ルーディル自身、戦での経験や実際の戦場での能力は、自分の方がはるかに勝っているとは思うが、その潜在性と刻印などへの相性は、その血の為せる優位性に敵う事はない。
(改めてみるとすごいな)
(あなたが言うか?)
(ん? 私はあんなことできないぞ?)
(あなたの戦いぶりを見たら、殿下も同じことを言いますよ)
と、ミーノスの様子を見つめながらそう思ったルーディルの脳裏に、凛とした女性の声が届く。
ルーディルもまた口を開くことなくそれに答えると、彼の駆る飛竜、ガーデが器用に首をすくめるような仕草をする。
飛空兵と竜騎士がその存在を異とする点。
その最たる点は、竜騎士と竜がお互いにはっきりとした意思の疎通が可能とする事である。
竜は非常に誇り高く、その存在も生まれながらに守護を纏っている点からも優越されている。
それ故に、野生の飛竜は非常に危険で、はぐれ竜に待っているのは討伐という結果のみ。
人との共存の過程で、その高い知性を保ち、竜騎士という真の理解者を得た竜は、単なる飛空士に操られる飛竜以上の力を見せると言われている。
今、こうしてルーディルと親しげに会話をするガーデもまた、そんな竜の一人であり、区別する際には彼女らを“真竜”と呼ぶという。
真竜達にはそれ以外にも様々な力が存在していると言われているが、戦いを前にしてはよけいな事。
彼女もまた、相棒であるルーディルと共に来たるべき戦いを望んでいるのだった。
(……ところで、貴様を狙っている者がいるようだぞ?)
(ふうん。向こうにも竜騎士はいるのか)
(当然だ。我々が、貴様らのようなちっぽけな版図に留まっていると思うのか?)
(まあ、当然だな)
(気のない返事だな。貴様の好きな戦いを欲している相手だぞ?)
(一騎討ちにはそれほどな。まあ、向かって来る以上全力で相手をする。今回は休んでいる暇はないぞ。ガーデ)
(言われるまでもない)
そんな会話を繰り返す両名は、そこまで話すとルーディルは槍と盾を強く握りしめ、ガーデは大きく身を捩る。
天を劈く閃光が眩い光を放ちながら、暗雲を貫いたのはそれとほぼ同時であった。
ちょっと遅くなって申し訳ありません。明日も一応、19時に投稿予定です。




