第17話 震える大地
晴れ渡った空を見たのは久しぶりであった。
「昨日までの雲はどこに行っちまったんでしょうね?」
「さてな。雲だけじゃなく、敵もどこかへ行ってくれればいいが」
小高い丘に建設された砦から上空を見上げる少壮の男二人。つい先日、最前線のホルムガルドから後退してきた守備隊指揮官フェドンと副官のユーキスである。
敵浮遊要塞からの情け容赦のない砲撃に晒された両者であったが、もっとも被害を出さずに撤退を成功させ、今再び前線の守備を任されている。
もっとも、両者からすれば状況を鑑みての即時後退は常に許可されているが故の戦果であり、死守命令があれば全力で防衛にあたるつもりでもあった。
「今のところ、動きはないようです」
「敵さんも後方に控える大軍の存在は把握している。精々、いつもの小競り合いがやっとさ」
「といっても、この状況が続けば、まーた例の攻撃に晒される。安全とは言え、それほど喜ばしい事じゃないですね」
後方には大河と草原。前方には草原。お互いに身を隠す事など不可能な大地の中央部に位置する丘である。
敵前衛の動きも地平線に蠢く影を見る事で把握できる。
「おっ? 定時連絡だ。こちらもさっさと回してやれ」
ふと、周囲に視線を向けたフェドンは、左方の丘からこちらへ向けられる光に気付き、そう口を開く。砦どうしの連絡は、早馬や烽火の他に、晴天時には金属板の反射による通信でも行われる。
光の瞬きを細かく区切り、簡単な情報のやり取りをする。新兵の時に何度も頭に叩き込まれる手法の一つでもあった。
「司令。後方より伝令。こちらを」
「うむ。同時とはめずらしいな…………ふむ」
そんな隣接砦からの通信に目を向けていたフェドンに、下から駆けて来た兵士から書類と包みを手渡される。
包みの方は普段はないモノであるため、首を傾げながら視線を向けるが、書類に目を通す方が先である。
後方からの書類は定時に届くのが普通であったが、この時間に届くというのならば何らかの動きがあった事になる。
「ほう、いよいよか」
「どうしました?」
「女帝陛下のお出ましだっ。兵士達を集めてくれ。外にいる連中も、警戒したまま二刻後には中央広場に集まるように伝えろ」
「そうですか、いよいよっ。しかし、広場に全員を収容するとなると」
「とりあえず、入れるだけでいい。万一に備えて、すぐに動けるようにだけしておいてくれ」
「はっ!!」
書類から顔上げ、元気よく答えたユーキスは、部下達とともに簡易の司令所から駆けだしていく。
最前線から後退を続けていた彼らにとって、皇帝の出陣の意味は大きい。
「ほんと、ようやくだな。前線に立つ事を誇りとする陛下にしては、ずいぶん、遅かったが……」
そんな副官達の姿を見送ると、フェドンは静かに腰を下ろす。
「気のせいだよな?」
フェドンは、前線の崩壊と敵の進撃が停止してもなお動きを見せなかった皇帝や中央の動静に対して僅かながらに感じる違和感を吐露する。
それまで、攻勢にあっても常に前線にあり、敵に先制を許すしたとすれば、情け容赦のない反撃を加えていた苛烈な女帝の姿を彼は知っている。
それゆえに、北辺への侵略から先の後退などを鑑みると、フェスティアの身に何かがあったのではないかという思いが胸をついていたのである。
とはいえ、書類に記されていた事が事実であるならば、皇帝は間違いなく健在であり、勝利のための深謀遠慮と考えれば、なんとか納得はいくように思えたのだった。
◇◆◇◆◇
眼前に広がる大地は、人の波で埋め尽くされていた。
皆が皆、整然と時が来るのを待ってはいるが、万を超える人間が永遠なる平原に居ならんでいるのである。一人の身じろぎが、やがては大きな波となって蠢く。
それは、人の力では決して止める事の出来ぬことでもあったのだ。
アイアースもまた、小高い丘より大地を見下ろす。
再会から数日。眼前の丘には、黒の軍装に身を包んだ皇帝直属舞台と白の軍装に身を包んだキーリアや近衛軍が詰める。
皆が皆、一人の女性の登場を今か今かと待っているのだった。
と、それまで大地を照らしていた陽光が、薄雲によって隠される。
アイアースは、跳ね上がる鼓動を感じる。視界に写るすべての者達もそうであるのか、皆が皆息を飲み、先ほどまでの人の波が一斉に停止していく。
まるで刻が止まったかのような錯覚がすべてを支配する。
そんな静寂の中に、一条の光が通り抜ける。
薄曇りの狭間よりこぼれ落ちた光。それは、ただ一点を照らし出し、そこには、白地に青の装飾を施した戦装束と黒地の外套を纏った一人の女性が、鮮やかな白馬に跨がり、進み出でる。
この世でただ一人、天の祝福を受けたかのような女性の姿に、その場に集まった者達は思わず息を飲んでいた。
「親愛なる民よ。この国難に際し、数多の生命が散り、二度と帰らぬものとなった事は、我が身が引き裂かれる思いである」
静寂に包まれる草原に、女性の凛とした声が響き渡る。
彼女は決して叫んでいるわけでも、声を張り上げているわけではない。しかし、天が、地が、人が、あらゆるすべてが、彼女の語りを耳にするべく静寂に身を置いている。
それ故に、この場にいるすべてのものへと語りかけるように口を開く彼女の声は、聞き漏らすことなくすべて者達へと届く。
「先人達は、この国を、大地を、人を慈しみ、それを永らえる事を願ってきた。その先人達の思いは、いまこの大地に生きる諸君等に託されている。それらを守り、語り継ぐ事こそ我らの責務」
女性はそこまで言うと言葉を切る。すると、それを待って居たかのように女性を照らしだす光は明度を増していき、やがて先ほどまでと同様に青く澄み渡った空が大地を包み込んだ。
「我は身はか弱き女の身であれど、皇帝たる心と気構あり。今、リヴィエトと称する敵種が我らが祖国を侵略し、あまつさえ同胞を手にかける事は許しがたき暴挙。我は剣をとり、諸君等とともに悪逆たる侵略者どもを駆逐し、生死を共にする覚悟を決めたのである」
そう告げると、女性は腰に下げた剣を抜く。
灯りはじめた陽光に照らされ、あざやかな光を放つそれに倣うように、すべての人間が自信の武器を手に取る。
金属のこすれる音が鳴り響き、すべてのものの心に死への覚悟と戦いへの決意を刻みつける。
「だが、いかなる覚悟を決めたとて、我は死を恐れる」
再び、声を落とし、ゆっくりと語りかけるように女性は口を開く。
「我の死により、諸君等が、後方にある無辜の民が、悪逆なる敵種に害される事を恐れる」
それは、それまでとは異なり、その場にいる者達へと語りかけるのではなく、彼女が抱く恐れというものが、表に溢れ出したような、そんな印象を覚える。
「死を恐れるならば、いかにするか? それは、敵を討つ事である」
うつむき加減に女性はそう言葉を切る。
「眼前の敵を討ち、すべての敵を討ち滅ぼしたとき、その恐れは消える。そして、我らの前にあるのは勝利のみ。勝利がほしくば、敵を討てっ!! 皆が皆、恐れを持って敵に当たり、それを討ち果たせば、待っているのは絶対なる勝利のみっ!! 進むのだっ!! 勝利のためにっ!!」
再び顔を上げた女性は、そう声を上げると、虚空へ向けて高々と剣を掲げる。
「我らに勝利をっ!!」
女性に倣うように、剣を掲げる者達の中から声が上がる。
そして、それは、やがて全軍へと伝播していき、すべての人間が声を上げた。
◇◆◇◆◇
大地が揺れていた。
ツァーベルは、閉ざしていた目を見開き、その動きを察する。長き沈黙が終わり、時の動きが肌を刺すような錯覚を与えてくる。
「来たか……フェスティア」
静かにそう呟いたツァーベルは、ゆっくりと立ち上がると、ヴェルサリアをはじめとする文武官が控える広間へと足を向ける。
すでに先日の攻撃で敵の前線は壊滅。総司令官のスヴォロフからも、再進撃の準備は整っているとの連絡を受けている。
それでも、ツァーベルは動くことなく、この地に留まっていたのは、単に浮遊要塞の補給が整わぬという理由だけではない。
砲撃は不可能であったが、進撃はすでに可能な状況にあり、前線にて小競り合いと続ける兵士達の元へと向かう事は容易。
それでも、彼が動く事がなかったのは、ひたすらに一人の人間を待っていたからである。
「ヤツは必ず現れる。バグライオフもスヴォロフですらも打ち破ってな」
ツァーベル自身、臣下の能力を疑った事はない。彼が、今日のこの日まで敗れることなくすべてを蹂躙してきたのは、彼自身の力と共に不敗の老将や勇猛か果敢なる猛将。そして、魔女が如き策士の存在がある。
それでも、彼はいまだに顔を合わせた事すらもない一人の女性が、やがて自分を討つべく目の前に現れると信じて疑ってはいなかった。
「ヴェルサリア。スヴォロフに再進撃を命ぜよ。同時に、我々も前線へと向かう。今、この時より我々の停止の時はない。一路、敵種の本拠、パリティーヌポリスへと進撃せよっ!!」
広間への入室と同時に、玉座の傍らに立つ女性へとそう告げたツァーベル。
その命を受け、要塞中に音楽が鳴り響き、すべての人間達が動き始める。ほどなく、全身に感じる浮遊感。
それは、戦を前にした昂揚によく似ており、ツァーベルの心は自然と躍っていた。
聖帝と大帝。
共に至尊の冠を戴き、孤独と孤高に生きる人間。
それは、その高みにある人間だけが通じ合う事の出来る奇妙な共感であったのかも知れなかった。
そして、時代が産んだ二人の英傑とともに生きる人間達もまた、時代という濁流の中に身を投じようとしていた。
◇◆◇◆◇
「始まったようね」
暗幕に包まれた室内に、抑揚のない少女の声が響き渡る。
その冷たい声は、その場にいるすべての人間の背を凍り付かせるほどのものであり、今も水晶に映る男女の様子に冷笑を浮かべている。
「愚かな男と女。精々、殺し合うがいいわ」
「巫女様……」
どこか、狂気めいた何かを纏いはじめている少女に対し、常にその背後に付き従ってきた女性が静かに口を開く。
しかし、巫女と呼ばれた少女。シヴィラは、それを無視して、眼前に跪いている男達へと視線を向ける。
正確には、跪いているのではなく、地面に縫い付けられているというのが正しかったが、男達の行動の自由は巫女の手の中にあるのだった。
「久しぶり見るけど、ずいぶん疲れたようね。ロジェ」
「巫女様……」
「あなたは勝手にやるつもりだったみたいだけど、大帝にはまったく相手にされていないみたいね。大言を吐いた割りには、情けない事」
「ちっ……」
「あら、ジェス。竿の良さだけが取り柄だったのに、使い物にならなくなってからは、反抗する気も起きないの?」
シヴィラは、床に跪く男達の顎に手を添え、強引に顔を引き揚げながらそう口を開く。身体の自由を奪われた彼らは抵抗する事も出来ず、激痛が全身を襲う。
「まあ、いいわ。愚かなあなた達に、もう一度機会をあげる。私を散々利用しようとしたんだもん。感謝してもらいたいわ」
「な、なにを……」
「私は、自分は特別だとか思っている人が嫌いなの。特に、それが女だったとすればね」
目に狂気の光を讃えながら、そう告げたシヴィラは、背後に立つ男女へと視線を向ける。
「あなた達にも協力してもらうわ。せっかく拾ってあげた命。私のために使いなさい」
静かに、抑揚無く言葉を紡いだシヴィラの言に、二人は静かに頷くだけであった。




