62 それは病気です
もう、後戻りはできない……。
なんてモノローグをつけたら、ぴったり。そんな光景が目の前には広がっていた。
視線を落とせば、ゆらゆらと揺れる水面。視線を上げれば、どこまでも続く地平線。
湿った風が私の髪を揺らしていく。その風を吸いむと、潮の匂いがした。私は甲板で手すりを握りしめながら、どこまでも続く大海原を見ていた。
海風は冷える。ふるりと両腕を震わせた。
その時、肩と背中が暖かな物に覆われる。振り返ると、アイルが優しげにほほ笑んでいた。
「あ、アイル様……!」
私はあたふたとして、肩にかけられた物をつかむ。
ふわー、これはアイル様の上着! 何だかいい匂いがする、気がする!
「ディートヘルム帝国まで、後3日はかかるそうだ」
アイルは私の隣に並ぶ。手すりを握って、視線を海へと送った。
「海を見ていたのか?」
「はい、船旅っていいですよね」
「ああ。僕は海を見たのは初めてだ。こんなに広いんだな」
と、アイルは感慨深そうに目を細めている。私も彼と同じように海を見やった。
「RPGだと、船に乗って別の大陸に向かう展開は定番なんですよ。広がる新天地! 新たな敵や謎! そういうのって、ワクワクします」
興奮気味に言ってしまってから、しまった、と思った。
あ、ついアイル様の前でオタク話を……! 最近、レオンが私のオタク話に付き合ってくれるものだから癖で……!
どうしよう。アイル様にこんな話をしても、「意味がわからない」と思われるかも。
「すみません、こんな話……」
どう取り繕うかとあたふたする私に、しかし、アイルは嬉しそうに笑って見せる。
「もっと聞かせてくれないか」
優しげな碧眼は、まっすぐに私のことを見つめていた。
「君の話が聞きたい。君の生まれた世界の話を」
冷たい潮風が私たちの間を通り過ぎた。
しかし、私の体はもう震えることはない。胸の辺りにぽっと温かいものが宿ったような気がした。
「アイル様……。自分で言うのもなんですが、私の話をどうしてすんなりと信じてくれたのですか? 前世の記憶があるなんて、荒唐無稽なこと、この上ないのに……」
「驚いたけど、同時に納得もしたよ。君は昔から、変わり者だったし」
「か、変わり者……」
「推しだとか何とか。皆になじみがない言葉をすらすらと話すじゃないか。それが別世界の言葉なのだと知った時、腑に落ちたんだ」
「な、なるほど……」
以前から私のオタクムーブが隠せていないせいで、信じてもらえたわけですね。喜んでいいのか、自分のオタク体質を反省するべきなのか。
アイルは優しげな表情のまま、私のことをじっと見つめている。
「それに、君のことを疑う理由がない。君は僕の『推し』だから」
ぐっ……。何ですか、そのキラキラ笑顔は……!
こんなのゲームでは見たことないよ!
その笑顔の尊さに私がすっかり固まっていると。アイルは更に続けた。
「君は今まで僕のためにいろいろと頑張ってくれていたのだろう。でも、これからは君だけに負担を背負わせることはしない。今度は僕が君のことを守る」
ずきん。
鋭い痛みが胸を刺す。な、何これ? 痛いってどういうこと?
アイル様の笑顔を見逃すなんてありえないし、じっと見つめて心のスクショに保存しなきゃいけないのに。
私は思わず顔を逸らしてしまった。
ずくずくと心臓の奥が痛む。その理由がわからず、私はそっと自分の胸を抑えるのだった。
何だかいたたまれない気持ちになって、私はアイルから逃げ出すように船室に戻った。
室内ではレオンが怖い顔で地図と睨めっこをしている。私は胸を抑えて、すーはーと深呼吸。
ようやく普通に呼吸ができるようになった。ほっと胸を撫で下ろす。さっきのは何だったのだろう。胸が苦しくて、呼吸もうまくできなくなる、変な感じだった。
「……私、病気なのかしら……」
まるで悲劇のヒロインのごとく、か細いため息をつく。(脳内ではフェアリーシーカーの切ない系BGMを鳴らしながら)。
すると、レオンが呆れた顔で私を見た。
「今頃気付いたのか。自分の頭がおかしいということに」
私はむっとして、睨み付ける。そして、べっと舌を出して、反撃。
「レオンのその辛辣すぎる口も、ある意味病気なのかも。お医者様に診てもらったら?」
「治療不可だ、慣れろ」
レオンは口の端を持ち上げて、にやりとする。
おお、笑ってる。珍しい。最近のレオンはこうして私の前でも笑ってくれることが増えた。アイルに秘密をすべて白状して、いろいろと吹っ切れたみたいだ。
仮面のような笑顔でも、暗殺者然とした怖い顔でもなく。
どこか悪そうで、怪しげで、でも茶目っけも少しある、そんな笑顔だ。きっとこの姿が、レオン・ディーダの素なのだろう。
私はテーブルを挟んで、レオンの向かいに立つ。そして、テーブルにばんと手を振り下ろした。
「何だか私、最近おかしいの。だって痛いんだよ」
「何が」
「ここ」
自分の心臓を指さす。
「前はアイル様を見ていると、『ふわあああああ』とか、『かわいいいい』とか、心も頭もふわふわになって、幸せな気持ちに浸れたのに。推しを吸うと健康になれる体だったのに」
「推しが尊い、ってやつだな」
「でも、最近は何かちがうの。アイル様を見ていると、ここがぎゅっと苦しくなる……。ねえ、レオン。私、いったいどうしちゃったんだと思う?」
すると、レオンは目を細めて、めちゃくちゃ嫌そうな顔をした。
「……お前がどうしようもない奴だということがわかった」
「ちょっと何それ!」
「それより、これを見ろ」
「え、待って待って、話を変えないで! 私の病気ともっと向き合ってよ!」
「それも治療不可だ。慣れろ」
レオンは鬱陶しそうに私の言葉を一蹴する。
そして、何かを突き出してきた。
それは魔導具だ。ヘルマンさんが持っていた物。『空間渡りの針』。ひび割れていて、針も動かなくなっている。
これがどうしたの……?
私はそれを受けとって、眺める。すると、レオンが無言で指をくるりと回した。
それに応じて、私はその腕時計をひっくり返してみる。あ、裏側に何か書いてある……。
でも、私には読むことはできない。知らない文字だ。少なくともレグシール国で使われている文字ではない。
「何これ? 何て書いてあるの?」
「古代語で『ヴェルエラの加護を』とある」
「どういう意味?」
「さあな。だが、これを見てくれ」
と、レオンがもう1つの魔導具を差し出した。こちらはレオンが持っていた物。『時渡りの針』だ。
裏返してみると、そこにも同じ文字が刻まれていることがわかった。
「こっちにも。そもそも、ヘルマンさんとあなたが持っていた魔導具……。よく考えてみたら、ものすごいチートアイテムだよね?」
「ああ、チートだな」
と、真面目な顔で頷き、
「これは俺の家に古くから受け継がれていたものだ。話を聞くに、ヘルマンの方も同じだったらしい」
「ヴェルエラって誰? こんなチートアイテム、どうやって作ったんだろう?」
「わからん」
気難しい表情で、レオンは首を振るのだった。
その日の夜。
私たちは船室に集まって、会議をしていた。
参加メンバーは、ヘルマン、エリック。
そして、アイル、レオン、私だ。
何だか不思議な面子になっちゃったな……。
私たちの目的は魔人族の国で邪神ヴィリロスを倒して、皇帝の洗脳を解くこと。しかし、それには大きな問題がある。
今、魔人族の国は選民思想に染まりきっている。彼らからすれば、私たち人間は下等種族だ。見つかった途端、どんな目に遭わされるかわかったものじゃない。
かといって、小手先の変装でどうにかなるものでもないし……。
魔人族の特徴はこめかみから生えた角、そして、青白い肌の色。ぱっと見で魔人族か、そうでないか、判別がついてしまう。
しかし、ヘルマンさんには何か作戦があるようだった。
テーブルの上でひじをついて、指を絡めたヘルマンさん(いわゆるゲン〇ウポーズ! 美形がやるとものすごく様になる!!)。
彼は開口一番、厳かな声でこう言い放った。
「あなたたちにはまず、魔人族になっていただきます」
その意味が浸透するまで数秒の間が空き、
『…………え?』
私たちは一同に、口をぽかーんと開けるのだった。




