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第9話:意図せざる救済

緑豊かな丘の上に静かに佇む、一軒の石造りの屋敷。

セラフィーナとイザベラは、その質素ながらも手入れの行き届いた門の前に立ち、息を整えていた。ここが、村人たちが語る賢者アランの住処。自分たちの最後の希望が、この中にある。


「セリア様、お下がりください。私がまず、相手の力量を確かめます」


護衛騎士であるイザベラは、主君を背に庇うように一歩前に出た。彼女の全身から、王国最強と謳われるに相応しい、研ぎ澄まされた闘気が放たれる。だが、奇妙なことだった。目の前の屋敷からは、殺気や威圧感、あるいは強者が放つ独特の圧のようなものが、一切感じられない。あまりにも無防備。あまりにも穏やか。それは、歴戦の強者である彼女にとって、逆に不気味なほどの静寂だった。


(……考えられるのは二つ。ただの凡人か、あるいは、自らの力を完全に制御し、気配の一片すら外部に漏らさない、本物の怪物か)


村で起きた数々の奇跡を思えば、答えは後者であると、イザベラは判断していた。彼女は柄に手をかけ、いつでも剣を抜ける体勢で、屋敷の扉を叩こうとした。


その時だった。

「こんにちは。どうかしましたか?」


穏やかで、どこか気の抜けるような声が、すぐ横から聞こえた。

二人がはっとしてそちらを見ると、一人の青年が、ハーブの入った籠を片手に、不思議そうな顔でこちらを見ていた。庭仕事の途中だったのだろう、その手は少し土で汚れている。先ほど、丘の下から見えた青年――アラン、その人だった。


「!」


イザベラは瞬時にセラフィーナの前に立ち、警戒態勢を取る。だが、アランはそんな彼女の殺気だった様子にも全く動じることなく、にこりと人の好い笑みを浮かべただけだった。


「旅の方ですか? この屋敷に何かご用で?」

「……貴公が、この屋敷の主、アラン殿か」

「ええ、アランですが……そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ」


あまりに普通。あまりに無害。

だが、イザベラの直感が警鐘を鳴らす。

(違う……! この男、私の闘気を、まるで春風のように受け流している……! これほどの達人が、本当に存在するとは……!)

彼女の警戒は、いつしか畏敬に近いものへと変わり始めていた。


一方、セラフィーナは、アランの穏やかな物腰と、彼が自然に纏う清浄な空気に、直感的な安心感を覚えていた。この人は、危険な人物ではない。むしろ、その逆だ。


「……申し訳ありません、アラン様。わたくしはセリアと申します。病の療養のため、この村の『癒やしの湯』の噂を頼りに、旅をしてまいりました」


セラフィーナが、侍女の礼法に則って丁寧に挨拶をする。そのか細い声と、血の気の失せた顔色を見て、アランの表情が少しだけ曇った。


「そうでしたか。それは、大変な旅でしたでしょう。顔色が優れないようだ。よろしければ、中で少し休んでいかれませんか?」


純粋な、善意からの申し出。

断る理由は、どこにもなかった。



招き入れられた屋敷の中は、彼の人物像をそのまま映したかのように、質素だが塵一つなく、温かい日の光に満ちていた。磨かれた床、整然と並べられた数少ない調度品、そして、壁際に積まれた夥しい数の書物。


「どうぞ、お掛けください。今、お茶を淹れますから」


アランはそう言うと、二人を居心地の良さそうなソファに促し、自分は厨房へと向かった。

イザベラは、セラフィーナの耳元で囁く。

「セリア様、お気をつけください。あの男、底が知れません。出されたものに、安易に口をつけては……」

「大丈夫よ、イザベル。あの方からは、悪意の欠片も感じられませんわ」


セラフィーナは、不思議と落ち着いていた。この屋敷にいるだけで、体の芯の冷えが、少しだけ和らぐような気さえした。


やがて、アランが盆に乗せた二つのカップと共に戻ってきた。湯気の立つカップからは、甘く、優しい香りが漂ってくる。


「旅の疲れも出るでしょう。先ほど庭で摘んだばかりのカモミールです。安眠の効果があるそうですよ」


そう言って差し出されたハーブティー。

イザベラは毒見をしようと身を乗り出すが、セラフィーナは穏やかにそれを制し、カップを手に取った。

「……ありがとうございます、アラン様。いただきますわ」


彼女は、感謝の祈りを捧げるように一口、その黄金色の液体を口に含んだ。

その瞬間、奇跡は起きた。



温かい。

ただ、温かい。

それは、ハーブティーの温度だけではなかった。まるで、小さな太陽を飲み込んだかのように、体の芯から、優しい光のような温もりが、全身の血管へと広がっていく。


長らく、セラフィーナの体は、まるで冬の氷のように冷え切っていた。生命の源であるマナが枯渇し、生きている実感さえ、日に日に薄らいでいた。


だが、今、その氷が、ゆっくりと溶かされていく。

アランが育てたハーブに宿っていた、濃密で清浄な魔力。それが、彼女の体内に流れ込む。

そして、その魔力が、引き金となった。

彼女は、村の『癒やしの湯』に触れたことで、既にその聖なる力を体内に取り込んでいた。二つの、源を同じくする強大な癒やしの力が、彼女の体内で巡り会い、劇的な相乗効果シナジーを引き起こしたのだ。


止まっていた歯車が、再び動き出す。

機能不全に陥っていた、体内のマナ生成器官が、まるで雷に打たれたかのように、強制的に再起動される。枯れ果てた泉の底から、新たな水が湧き出すように、生命力そのものであるマナが、奔流となって彼女の全身を駆け巡り始めた。


「あ……ああ……」


セラフィーナの口から、吐息のような声が漏れた。

呼吸が、楽になる。

指先に、力が戻ってくる。

視界が、鮮やかに色を取り戻していく。

自分の体に起きている奇跡的な変化を、彼女ははっきりと実感していた。


その変化は、傍目にも明らかだった。

死人のように青白かった彼女の頬に、みるみるうちに、健康的な血の気が戻っていく。乾いていた唇は、潤いを取り戻し、桜色に染まった。そして、その蒼い瞳には、力強い光が再び宿っていた。


「……セリア、様……?」


目の前の主君の変貌に、イザベラは絶句した。

彼女は、魔力の流れを視ることができる。今、セラフィーナの体内では、枯渇していたはずのマナが、まるで嵐のように渦を巻き、生命の炎が力強く燃え上がっているのが見えた。

そして、その奇跡の源が、たった今セラフィーナが口にした、あの一杯のハーブティーにあることも。


(馬鹿な……! ただのお茶が、王国の全ての賢者と聖職者が見放した不治の病を……一瞬で……!? これでは、まるで神々の霊薬エリクサーではないか……!)


イザベラの常識は、完全に粉砕された。

この青年は、一体何者なのだ。人知を超えた奇跡を、まるで日常の些事のように、こともなげにやってのける。

この男の力は、自分たちが想像していたものを、遥かに、遥かに超えている。


一方、奇跡の張本人であるアランは。


「え? え? どうかしましたか?」


突然、黙り込んでしまった二人を前に、心底、困惑していた。セラフィーナの顔色が良くなったことには気づいたが、それが自分のハーブティーのせいだとは、夢にも思っていない。


「もしかして、お茶、口に合いませんでしたか? それとも、旅の疲れがどっと出てしまったとか……。薬草なら少しありますが……」


本気で心配するアランのその姿が、二人の目には、全く違う意味で映っていた。


(これほどの御業を行いながら、それを誇示するでもなく、ただ我々の身を案じてくださっている……なんと、なんと慈悲深く、謙虚なお方なのだろう……!)


セラフィーナの胸は、感謝と感動で張り裂けそうだった。彼女は、アランが自分の病の全てを見抜き、この一杯のお茶に、治癒の奇跡を込めて与えてくれたのだと、完全に確信していた。

彼女の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。


「……温かいです。体が……こんなに温かいのは、何年ぶりでしょう……」


その涙を見て、アランはますます混乱した。

「え、あ、泣くほど不味かったですか!? す、すみません!」


この、どこまでも噛み合わない会話。

しかし、そのアランのズレた反応さえも、イザベラには、彼の底知れない器の大きさを物語っているようにしか見えなかった。

(自分の偉業を悟らせまいと、あえて道化を演じておられるのか……! なんという御仁だ……!)


セラフィーナは、すっかり力が戻った体で、ソファからすっくと立ち上がった。そして、アランの前に進み出ると、王女としての最敬礼で、深く、深く頭を下げた。


「アラン様。この御恩は、生涯、決して忘れません。わたくしの命は、今この瞬間から、貴方様のためにあります」

「は!? い、命!? いやいや、お茶を一杯出しただけですよ!? 病み上がりの方は、どうか座っていてください!」


慌てて彼女を止めようとするアラン。そのやり取りは、まるでコントのようだったが、そこにいる三人の間には、確かな絆が生まれつつあった。


イザベラも、静かにアランの前に進み出ると、剣を収めたまま、騎士の礼を取った。

「……感謝する、アラン殿。貴公が何者であれ、我が主君の命を救っていただいたこと、騎士として礼を言う。このイザベラ・ラングフォード、この御恩、必ずや返させていただく」


その真摯な瞳を見て、アランはもう、何も言うことができなかった。


(ずいぶん思いつめた感じの人たちだったな……。まあ、元気になったなら、それでいいか)


一人残された書斎で、ハーブティーのカップを片付けながら、アランは首を傾げる。

彼が親切心で振る舞った一杯のお茶が、一国の王女を救い、その未来を大きく変えたこと。

そして、王国最強の女騎士から、絶対の忠誠と信頼を勝ち取ったこと。


その重大な事実を、彼自身が理解するのは、まだ、ずっと先の話である。

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