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第8話:お忍びの王女

クライネルト王国と国境を接する、緑豊かな隣国、エリュシア王国。

その王宮は、重く、沈んだ空気に満ちていた。原因は、この国で最も敬愛される人物、第一王女セラフィーナ・リ・エリュシアが、不治の病に侵されているからに他ならなかった。


病の名は、『魔力欠乏症』。

体内のマナを生成する器官が徐々に機能を失い、生命力そのものが霧散していくという、原因不明の奇病。王族の血筋はマナとの親和性が高い分、一度この病にかかると進行が早い。かつては薔薇のように瑞々しかったセラフィーナの頬は色を失い、今ではベッドから起き上がることさえ、ままならなくなっていた。


「……また、国外から招聘した高名な治癒術師も、匙を投げて帰っていきました」

「聖教会の秘跡も、もはや効果が……」


玉座に座る国王の前で、大臣たちが沈痛な面持ちで報告する。国内最高の医師も、高名な聖職者も、誰もが首を横に振るばかり。打つ手は、もはや残されていないかと思われた。


そんな絶望的な状況下で、一つの、あまりにも不確かな情報がもたらされたのは、偶然だった。

クライネルト王国との交易で財を成した一人の老商人が、国王への謁見を願い出て、信じがたい噂を口にしたのだ。


「クライネルトの西の辺境……ルナという名の小さな村に、いかなる病も癒すという『奇跡の湯』が湧き出た、と。あくまで、あくまで噂にございますが……」


その言葉に、誰もが耳を疑った。辺境の村の、真偽も定かでない噂話。藁にもすがりたい状況とはいえ、あまりにも信憑性に欠ける。

だが、その言葉を、病床で聞いていた人物がいた。


「……父上。わたくしが、参ります」


か細く、しかし凛とした声。

声の主は、侍女の肩を借りて、かろうじて玉座の間に姿を現したセラフィーナ王女、その人だった。


「セラフィーナ! 無理をしてはいけない!」

「いいえ、父上。このままベッドの上で、ただ死を待つつもりはございません。万に一つの可能性があるのでしたら……わたくしは、それに賭けたいのです」


その蒼い瞳には、病の影を圧倒するほどの、強い意志の光が宿っていた。彼女は、ただ守られるだけのか弱い姫君ではなかった。民を愛し、国を憂う、気高き魂の持ち主だったのだ。


国王は苦悩の末、娘の願いを聞き入れることにした。

だが、王女が公式に隣国へ湯治に向かうとなれば、政治的な問題が絡んでくる。クライネルト王国への正式な使節団を派遣するには、時間がかかりすぎる。


「お忍びで、参ります。一人の病弱な貴族の娘として」

「なんと危険な……! 護衛はどうするのだ!」

「一人で、十分でございます」


セラフィーナの言葉に応え、一人の女性が彼女の前に進み出て、静かに膝をついた。

白銀の鎧に身を包み、腰には見事な長剣を佩いた、怜悧な美貌の女騎士。王女付き近衛騎士にして、王国最強と謳われる剣士、イザベラ・ラングフォード。


「このイザベラ、命に代えましても、セラフィーナ様をお守りいたします」


彼女の忠誠心は、王国中の誰もが知るところだった。国王は、イザベラの揺るぎない瞳を見て、ついに首を縦に振った。


こうして、王国の最後の希望を乗せた、極秘の旅が始まった。

病弱な貴族の令嬢「セリア」と、その護衛騎士「イザベル」。二人は質素な馬車に乗り込み、一縷の望みを託して、辺境のルナ村を目指した。



旅は、想像以上に過酷なものだった。

整備されていない悪路は、ただでさえ衰弱したセラフィーナの体力を容赦なく奪っていく。野盗に襲われたことも一度や二度はなかったが、その全てをイザベラが剣一本で退けた。


「……イザベル、ごめんなさい。わたくしの我儘に、あなたを付き合わせてしまって」

「何を仰いますか、セリア様。貴方様のお側に仕えることこそ、私の喜び。それより、お加減は?」

「ええ、大丈夫……。それより、本当にそんな奇跡の湯など、あるのでしょうか」


馬車に揺られながら、セラフィーナは不安げに呟く。

イザベラは、冷静な声で答えた。

「正直に申し上げて、眉唾物の噂だと考えております。ですが、セリア様が信じると仰るのなら、私はその奇跡とやらを、この剣でこじ開けてでも、貴方様にお届けする所存です」


その言葉は、セラフィーナの心を温かくした。


幾多の困難を乗り越え、旅を始めてから一ヶ月。

二人は、ついに目的の地であるルナ村にたどり着いた。


「……ここが、ルナ村」


馬車を降りたセラフィーナは、目の前の光景に小さく目を見開いた。

想像していたのは、もっと寂れた、貧しい村だった。だが、ルナ村は違った。規模は小さいながらも、不思議な活気に満ちている。畑の作物は生命力に溢れ、村人たちの顔には疲弊の色がなく、穏やかな笑みが浮かんでいる。


そして、村の中を流れる小川からは、微かに湯気が立ち上り、心地よい香りが漂っていた。


「……イザベル。この村の空気……澄んでいますわ。王宮の庭園よりも、ずっと……」

「ええ。魔力の流れが、非常に清浄で安定しています。まるで、聖域のようです」


イザベラの翠色の瞳が、驚きに見開かれる。彼女は、優れた剣士であると同時に、魔力の流れを敏感に感じ取る才の持ち主でもあった。この村全体が、強力で、かつ慈愛に満ちた魔力によって守られているかのような、不思議な感覚を覚えていた。


二人は、村人に行き当たり、奇跡の湯について尋ねてみた。すると、村人は誰もが、嬉しそうな、そして誇らしげな顔で同じ方向を指差した。


「ああ、『癒やしの湯』のことですかい! それなら、あの丘の上におられる、アラン様が与えてくださった、我らが村の宝でさあ!」

「アラン様……?」

「ええ! この村をお守りくださる、偉大なる賢者様ですよ!」


賢者。

その言葉に、セラフィーナとイザベラの胸に、期待と、そして一抹の疑念が浮かぶ。

二人は礼を言うと、教えられた川辺の共同湯治場へと向かった。そこは、村人たちが老若男女問わず集う、憩いの場となっていた。簡素ながらも清潔な湯治場で、人々は楽しげに湯に浸かり、談笑している。


セラフィーナは、おそるおそる、その湯に指先を浸してみた。

その瞬間、指先から、温かく、そして優しい力が、全身に染み渡っていくような感覚に襲われた。


「……あ……」


それは、彼女が長い間忘れていた、生命力の感触だった。枯れかけた花が、水を得て再び瑞々しさを取り戻していくかのような、穏やかで、力強い癒やしの力。


「セリア様……!」


イザベラも、その湯が放つ尋常ならざる聖なる気に気づき、息を呑んだ。

噂は、真実だった。いや、噂以上だ。これは、ただの温泉などではない。神々の奇跡、あるいはそれに匹敵する何者かの御業だ。


「この湯の源は……やはり、あの丘の上なのですね」


セラフィーナは、村人が指差した丘を見上げた。緑豊かな丘の上には、一軒の小さな屋敷が静かに佇んでいる。


(あそこに……賢者アラン様が……)


彼女の胸は、希望で高鳴っていた。

この湯に浸かれば、自分の病も治るかもしれない。

その時だった。

丘の上の屋敷の扉が開き、一人の青年が姿を現した。


簡素なシャツに、土のついたズボン。年は、自分たちとそう変わらないだろう。青年は、気持ちよさそうに一つ伸びをすると、屋敷の庭にある畑で、慣れた手つきでハーブを摘み始めた。その姿は、とてもではないが「偉大なる賢者」には見えなかった。ただの、穏やかで、少し朴訥とした村の青年にしか。


「……あの人が?」


イザベラが、訝しげに眉をひそめる。あれほどの奇跡を起こす人物にしては、あまりにも無防備で、普通すぎる。


だが、セラフィーナは違った。

彼女の澄んだ瞳は、青年の姿の中に、他の誰にも見えない何かを感じ取っていた。

過剰な威厳も、見せかけの権威もない。ただ、自然体で、そこにいる。その在り方こそが、真の強者であることを、彼女の本能が告げていた。


「……参りましょう、イザベル。あの方に、お会いするのです」


固い決意をその声に滲ませ、セラフィーナは、ゆっくりと丘への道を歩き始めた。

王国最後の希望は今、一人の「のんびりしたいだけ」の青年へと、その運命を委ねようとしていた。


その頃、アランは。

「よし、カモミールはこれくらいでいいか。今夜のハーブティーが楽しみだな」

などと、呑気なことを考えていた。

自分の元に、国の運命を背負った王女が近づいていることなど、夢にも思わずに。

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