第7話:温泉と癒やしの力
勇者パーティーが焦燥と不和の泥沼に足を取られ始めていた頃、アランのスローライフは、次のステージへと移行していた。
ルナ村での生活は、驚くほど順調だった。いや、順調という言葉では足りないくらい、理想的なものだった。
「アラン様、おはようございます! 今日も良いお天気ですね!」
「ああ、リリアさん、おはよう。畑仕事かい?」
「はい! アラン様からいただいた種のおかげで、野菜がびっくりするくらい大きく育つんです!」
朝、屋敷の庭でハーブの手入れをしていると、村娘のリリアが満面の笑みで手を振ってくる。彼女の弟は月光草ですっかり元気になり、今では村一番のわんぱく小僧になった。それ以来、リリアはアランを「命の恩人」として、兄のように、あるいはそれ以上に慕っていた。
村長であるギベオンも、毎日のように採れたての野菜や卵を持って、挨拶にやってくる。
「アラン様、これは今朝採れたばかりの卵でございます。いつも村をお見守りくださり、誠にありがとうございます」
「いや、そんな大げさな……。でも、卵はありがたくいただくよ。いつもすまないね」
村人たちのアランに対する態度は、もはや尊敬を通り越して、信仰に近いものへと変わりつつあった。森の主を退け、恵みの雨を降らせた救世主。彼らがそう信じるのも、無理はないのかもしれない。
もちろん、アラン本人は「親切で人が良い村人たちだなあ」と、のんきに思っているだけだ。彼らの過剰な敬意も、辺境の村ならではの素朴な人情だと、心地よく勘違いしていた。
衣・食・住、その全てが満たされ、人間関係も(一方通行の信仰を除けば)良好。まさに理想郷。
だが、そんな完璧な生活の中で、アランは一つの、しかし重大な不満を抱えていた。
「……風呂に入りたい」
その日、畑仕事で汗を流したアランは、屋敷の裏手にある水浴び場で冷たい水を浴びながら、心の底からそう呟いた。
この屋敷にあるのは、石で囲っただけの簡素な水浴び場だけ。もちろん、湯を沸かす設備などない。体を清めることはできるが、文明的な生活に慣れた彼にとって、湯船にゆっくりと浸かることのできない日々は、地味ながらも確かなストレスだった。
「ああ、肩まで湯に浸かって、一日の疲れを癒したい……」
熱い湯が満たされた湯船で手足を伸ばす、あの至福の瞬間。それを想像するだけで、いてもたってもいられなくなった。
「ないなら、作ればいいじゃないか」
彼の思考は、常にシンプルだ。
面倒事を避け、快適な生活を追求する。そのための労力ならば、彼は決して惜しまない。
風呂作りという、新たなプロジェクトが発足した瞬間だった。
◇
風呂を作るには、まず何よりも「水」が必要だ。それも、安定して供給される、豊富な水量が。
屋敷の井戸は生活用水で手一杯だ。となれば、新たな水源を探すしかない。
「さて、と。この辺りの水脈はどうなっているかな」
アランは屋敷の裏手の、少し開けた場所に出ると、目を閉じて意識を集中させた。
「《大地の血脈、隠されたる流れよ、我が眼にその姿を示せ――अन्वेषण (アンヴェーシャナ)》」
探査を意味する古代魔法。彼の足元から、淡い光を放つ魔力の波紋が幾重にも広がり、大地の中へと浸透していく。彼の脳裏に、地中の様子が立体的な地図となって描き出されていく。岩盤の硬度、土の成分、そして、地下を流れる水の道筋。
(ふむ、いくつか浅い水脈があるな。だが、風呂に使うには少し心許ない。もっと深く……もっと豊かな流れは……)
アランはさらに魔力を込め、探査の深度を下げていく。
その時、彼の意識が、地中深くに存在する、ひときわ巨大な「流れ」を捉えた。
(……なんだ、これは? ただの水脈じゃない。膨大な魔力を……いや、生命力そのもののような温かいエネルギーを内包している)
それは、大地のマナが凝縮され、熱を帯びて流れる、いわば地球の血管――『龍脈』とも呼ばれる存在だった。普通の魔術師では、その存在を感知することすら叶わない。
アランの目的は、あくまで普通の地下水脈を見つけることだった。だが、彼の規格外の魔力は、無意識のうちにこの強大な龍脈に引き寄せられ、共鳴してしまったのだ。
「まあ、よくわからないが、お湯が湧くなら好都合だ。ここにしよう」
彼は、あまり深く考えなかった。いつものように、「便利だから」という理由で、その龍脈の支流を掘り当てることに決めた。
「《岩よ、道を譲れ。土よ、形を成せ》」
アランが地面に手をかざすと、大地がまるで生き物のように蠢き始めた。轟音と共に地面が割れ、土や石がひとりでに脇へと避けられていく。みるみるうちに、人の背丈ほどの深さの穴が掘られていった。
そして、深さ五メートルほどに達した時。
ゴポッ、という音と共に、穴の底から湯気の立つお湯が湧き出してきた。
「おお、成功だ」
湧き出したお湯は、空気に触れると淡いエメラルドグリーンに輝き、周囲に硫黄と、どこか森の若葉のような清々しい香りを漂わせた。手ですくって温度を確かめると、少し熱いが、ちょうどいい湯加減だ。
彼はそのまま魔法を使い、掘った穴の側面を滑らかな岩肌で固め、縁には檜に似た香りのする魔香木を使って、即席の露天風呂を造り上げてしまった。湧き出した温泉は、湯船を満たし、余った分は縁から溢れ、小さな小川となって村の方角へと流れていく。
「ふぅ……完璧だ」
汗を拭ったアランは、自らの仕事ぶりに満足げに頷いた。まさに、理想のプライベート温泉。これで、今日から至福のバスタイムが送れる。彼は早速、完成したばかりの湯船に身を沈め、至福のため息を漏らした。
「……ああ、最高だ。生き返る……」
彼は知らない。
この、彼にとっては単なる「快適な風呂」が、そして、彼が「余ったお湯」として垂れ流した聖なる霊水が、ルナ村にどれほどの奇跡と、さらなる勘違いをもたらすことになるのかを。
◇
「おい、なんだか川の水が温かくないか?」
「本当だ。それに、なんだかこの匂い……体に良さそうだ」
村を流れる小川で洗濯をしていた女たちが、最初に異変に気づいた。いつもは冷たい川の水が、まるでぬるま湯のように温かい。そして、その湯気は、心身を落ち着かせる不思議な香りを放っていた。
噂はすぐに村中に広まった。
最初、村人たちは気味悪がったが、一人の腰痛持ちの老人が、試しにその温かい川の水で腰を洗ってみたところ、驚くべきことが起きた。
「お……おお……! 痛みが、和らいでいく……!」
長年、彼を苦しめてきた頑固な痛みが、まるで嘘のように軽くなったのだ。
その話を聞きつけ、村人たちが次々と「奇跡の川」に集まり始めた。切り傷を浸せば、みるみるうちに傷が塞がっていく。疲れた体を浸せば、活力が湧いてくる。
川は、いつしか「癒やしの聖水」と呼ばれるようになった。
そして、村人たちはすぐに気づいた。この聖なる温かい水が、丘の上の、あの方の屋敷の方角から流れてきていることに。
「……これも、アラン様の御業だ」
村長ギベオンが、川の上流を見上げながら、感動に打ち震える声で言った。
「我々村人の、日々の疲れや痛みを気遣われ、このような癒やしの霊泉をお与えくださったのだ……! なんという、慈悲深きお方だ……!」
その言葉に、リリアも深く頷く。
「きっと、アラン様は全てお見通しなのよ。誰がどこを痛めているか、誰が疲れているか、全部わかった上で、この奇跡を起こしてくださったんだわ……!」
もはや、疑う者はいなかった。
森の主を退け、村を旱魃から救い、今度は病や怪我から人々を癒す、癒やしの湯を与える。
アラン・フォン・クライネルトは、このルナ村の守護神そのものだった。
村人たちが、再び屋敷の方角に向かって感謝の祈りを捧げている頃。
当のアランは、風呂上がりに自作のハーブティーを飲みながら、新たな計画を立てていた。
「しかし、思ったより湯量が多いな。このまま垂れ流すのは勿体ない。それに、あの小川に村人たちが集まっているようだが、衛生的にあまり良くないだろう」
彼の完璧なスローライフにおいて、不衛生は許されない。
「よし。どうせなら、川のほとりにちゃんとした湯治場でも作って、村の人たちにも使ってもらうか。その方が、資源の有効活用にもなるし、村の衛生環境も向上する。うん、合理的だ」
あくまで、彼の動機は「もったいない」という合理性と、「不衛生は嫌だ」という潔癖さ。そして、ほんの少しの善意。
だが、その考えが、さらなる神格化を招くことになる。
翌日、アランがギベオンに「共同の湯治場を作らないか」と提案した時、老村長は感激のあまり、その場に崩れ落ちるようにして涙を流した。
「おお……アラン様……! 我々に聖水を与えてくださるのみならず、湯治場まで……! この御恩、我らルナ村の民は、末代まで決して忘れませぬぞ!」
こうして、ルナ村に共同湯治場が建設されることになった。
そして、「辺境の地に、どんな病も癒すという奇跡の湯が湧いた」という噂が、村を訪れる数少ない行商人たちの口を通して、ゆっくりと、しかし確実に、外部の世界へと広まっていくのだった。
その噂が、やがて一人の高貴な少女の耳に届くことになるのを、湯船に浸かりながら鼻歌を歌うアランは、まだ知る由もなかった。




