第5話:冒険者ギルドの調査員
アランがルナ村に恵みの雨(本人はコップ一杯の水だと思っている)を降らせてから、およそ二週間後のこと。王都から遥か西に位置する辺境都市ロイドの冒険者ギルドに、一枚の指令書が届いた。
『特命:西部辺境山脈、座標X-1378地点周辺における、原因不明の魔力変動及びモンスター反応の急激な消滅について、速やかに調査せよ』
ギルドマスターが渋い顔でその指令書を眺める。座標が示すのは、ルナ村を含む賢者の森一帯。つい先日まで、魔力計の針がほとんど振れることもなかった、いわば「凪」のような場所だった。それが、ここ数週間で、まるで嵐の後のように静まり返っているという。観測記録によれば、ごく短時間、計測不能なレベルの魔力が観測された直後、周辺一帯のモンスターの気配が、まるで地図から消しゴムで消されたかのように、完全に消失したのだという。
異常事態であることは間違いない。下手をすれば、古代竜の目覚めや、魔王軍の新たな幹部の出現すら考えられる。生半可な冒険者を送れば、命がいくつあっても足りないだろう。
「……やれやれ、面倒なことになったな。彼女を呼んでくれ」
ギルドマスターのため息混じりの指示を受け、一人の女性が彼の前に現れた。
銀色の髪をきつく三つ編みにし、知的な眼鏡の奥に、全てを見通すかのような鋭い翠色の瞳を持つ女性。その名はエリーゼ。表向きはギルドの受付業務をこなす事務員だが、彼女の正体を知る者は、ギルド内でもごく僅かだ。
元Sランク冒険者パーティー『銀の流星』のリーダーにして、斥候兼魔法解析のスペシャリスト。あまりの有能さから、ギルドマスターが引退後も半ば無理やり籍を置かせている、ギルドの切り札的存在である。
「お呼びでしょうか、マスター」
「うむ。エリーゼ君、君にしか頼めない仕事だ。この調査書に目を通してくれ」
エリーゼは指令書を受け取ると、淀みない動きで内容を確認する。その翠色の瞳が、かすかに細められた。
「……計測不能な魔力反応の直後、モンスター反応が『消滅』、ですか。討伐されたのではなく?」
「そうだ。討伐されれば、死骸や血、そして何より魔力の残滓が残る。だが、観測上は『無』になった、と。まるで、最初からそこにいなかったかのようにだ」
「……承知いたしました。直ちに、現地へ向かいます」
エリーゼは表情一つ変えず、静かに頷いた。だが、その胸中には、ただならぬ緊張感が渦巻いていた。彼女の長年の経験が、この任務が常識の通用しない、極めて危険なものであることを告げていた。
◇
馬を走らせること数日、エリーゼは目的地のルナ村に到着した。
彼女がまず感じたのは、異様なほどの「平穏」だった。指令書にあったような、大災害や強大な魔物の気配はどこにもない。むしろ、村は活気に満ち溢れていた。畑は青々と茂り、村人たちの顔には笑みが浮かんでいる。
(……報告と違う。一体どういうことだ?)
訝しみながら、彼女は身分を隠して村長であるギベオンの家を訪ね、最近、村で何か変わったことがなかったか、聞き込みを開始した。
「変わったこと、でございますか? ええ、ええ、ありましたとも! 我が村には、アラン様という、それはそれは偉大なお方がおられるのです!」
ギベオンは、目を輝かせながら語り始めた。森の主の伝説、恵みの雨の奇跡。彼の話は、あまりにも荒唐無稽で、おとぎ話のようにしか聞こえなかった。
次に話を聞いたのは、リリアという村娘だった。彼女は少し頬を赤らめながら、森で目撃したという光景を語った。
「アラン様は、ただそこに立っておられただけなんです。それだけで、あのフォレスト・タイラントが……!」
エリーゼは冷静に彼らの話を聞いていたが、内心では困惑を深めていた。フォレスト・タイラントは、ギルドでもAランクに指定される危険な魔獣だ。それを、ただ立っているだけで退けた? 恵みの雨を降らせ、枯れた井戸を復活させた? 馬鹿げている。集団幻覚か、あるいは何かの宗教的な思い込みだろうか。
しかし、嘘をついているようには見えない。村人たちの「アラン様」に対する敬意と感謝は、本物だった。そして何より、この村一帯のモンスター反応が消滅しているという事実は、動かせない。
(アラン……丘の上の屋敷に住むという、隠居した魔術師。全ての鍵は、この人物が握っている)
エリーゼは村人たちに礼を言うと、件の屋敷がある丘へと、静かに足を向けた。プロの斥候として、まずは対象を刺激せず、遠距離から観察する。それが鉄則だ。
◇
その頃、アランは頭を悩ませていた。
原因は、彼が丹精込めて育てている家庭菜園にあった。順調に育っていた野菜の葉に、いくつかの穴が開いているのを発見したのだ。
「……虫か」
よく見れば、キャベツの葉の裏に、黒光りする甲虫が数匹、張り付いている。それは『魔甲虫』と呼ばれる、微弱な魔力に引かれて集まる性質を持つ害虫だった。一体一体は弱いが、繁殖力が強く、群れをなして作物を食い荒らす厄介な存在だ。
「はぁ……面倒だな」
アランの口から、いつもの言葉が漏れる。
一匹ずつ手で取る? 想像しただけで気が遠くなる。
農薬のようなものを作る? 材料を揃えるのが面倒だ。
何か、こう、一瞬で、手間をかけずに、野菜には一切影響を与えず、この鬱陶しい虫だけを消し去るような、都合のいい方法は……。
「……ああ、あったな」
彼は、書斎で読んだ古文書の一節を思い出した。
古代魔法『消去 (मिटाना)』。
特定の概念や存在を選択し、その空間から因果律レベルで消し去るという、神の御業に等しい魔法。もちろん、そんな大層な魔法を完全に行使できるわけではない。だが、その応用で、指定した生物種の生命活動だけを選択的に、かつ完全に停止させることは可能だった。
「よし、これで行こう。野菜に影響が出ないように、出力を最小限に絞って……と」
彼は庭に立つと、軽く片手を野菜畑にかざした。そして、ごく短い詠唱と共に、古代魔法を発動させる。
彼の目には見えない魔力の波が、庭全体に広がる。その波は、野菜や、土の中にいるミミズ、飛び回る蝶には一切干渉せず、ただ「魔甲虫」という種族の生命情報だけを認識し、その活動を根源から停止させていく。
畑にいた数十匹の魔甲虫は、音もなく、その場で塵となって崩れ落ち、風に吹かれて消えていった。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「ふぅ。よし、これで一安心だ。さて……少し昼寝でもするか」
最大の懸案事項を片付けたアランは、満足げに頷くと、屋敷に戻り、居心地の良いソファにごろりと横になった。
彼は知らない。
彼が「害虫駆除」のために使ったその魔法が、どれほど異常な痕跡を、この土地に刻みつけたのかを。
◇
エリーゼは、アランの屋敷が見える森の木陰に身を潜め、慎重に観察を続けていた。屋敷は静まり返っており、人の気配は感じられない。
(……留守か? いや、魔力の残滓が濃すぎる。この屋敷の主は、間違いなく内にいる)
彼女は元Sランク冒険者としての全神経を集中させ、周囲の情報を読み取っていく。そして、すぐに気づいた。この屋敷の敷地一帯が、異様な「静けさ」に包まれていることに。鳥の声がしない。虫の羽音もしない。まるで、生命の音が死んだかのような、不自然な静寂。
(これは……結界か? いや、違う。もっと根源的な……)
彼女は意を決し、気配遮断の魔法を最大レベルでかけながら、屋敷の敷地へと侵入した。
足を踏み入れた瞬間、全身に鳥肌が立った。
空間が、歪んでいる。生命の循環が、ある一点を境に、不自然に断絶している。
慎重に歩を進め、彼女は屋敷の裏手にある家庭菜園にたどり着いた。
野菜は青々と茂っている。しかし、その周辺の空間だけが、まるで真空地帯のように、生命の気配が欠落していた。
エリーゼは地面に膝をつき、特殊なゴーグルを装着して土を観察する。ゴーグルは、微弱な魔力や生命の痕跡を可視化する魔法具だ。
「……なんだ、これは……!」
ゴーグルを通して見た光景に、彼女は絶句した。
空間の至る所に、高密度のエーテルの残滓が漂っている。それは、現代魔法のそれとは比較にならないほど純粋で、根源的な力の名残だった。
そして、地面のあちこちに、極めて微細な、黒い甲殻の欠片が残っている。
(この甲殻は……魔甲虫! 間違いない!)
だが、おかしい。魔甲虫の生命反応が、どこにもない。一匹残らず、完全に「消滅」している。普通、これだけの魔力の痕跡があれば、討伐されたモンスターの死骸や、断末魔の痕跡が残るはずだ。だが、ここには「無」しかない。まるで、魔甲虫という存在そのものが、この空間から抉り取られたかのように。
エリーゼの頭脳が、長年の経験と知識を総動員して、目の前の現象を分析し始める。
「魔甲虫は、単体ではDランク程度のモンスター。しかし、繁殖力が極めて高く、コロニーを形成する。この規模の生命反応の消失……この敷地全体に、少なくとも数千匹からなるコロニーが存在したと考えるのが妥当だ」
「そして、大規模なコロニーの中心には、必ず『魔甲虫の女王』が存在する。女王のランクは、A。そのブレスは、一帯を腐食させる猛毒だ」
「つまり、この場所には、かつてAランクモンスターを頂点とした巣が存在した……?」
そこまで考えた時、エリーゼの背筋を冷たい汗が伝った。
「その巣を……周囲の野菜や他の生物には一切の被害を出さず、痕跡すらほとんど残さずに殲滅するだと……? 馬鹿な……そんな芸当、Sランクパーティーが総力を挙げても不可能だ! 空間ごと消滅させるような大魔法を使えば別だが、それならこの屋敷も畑も無事では済まない……!」
ありえない。
常識では、考えられない。
だが、目の前の事実が、それを物語っている。
導き出される結論は、一つしかなかった。
「この屋敷の主は……たった一人で、おそらくは一撃で、Aランクモンスターの巣を、完全に『消去』した……」
村人たちが語っていた、おとぎ話のような奇跡の数々。それらが、今、エリーゼの頭の中で、恐るべき信憑性を持って繋がり始めた。
(人知を超えている。彼(か彼女)は、我々と同じ次元の存在ではない。まさに、伝説に語られる賢者か、あるいは……神か魔王か)
ゴクリ、とエリー...ゼは生唾を飲み込んだ。
調査対象は、自分の手に負える相手ではない。下手に接触すれば、自分もこの場の魔甲虫のように、「消去」されかねない。
彼女は、音を立てないように、ゆっくりと後ずさると、静かにその場を撤退した。その背中は、歴戦の猛者である彼女が、生涯で数えるほどしか感じたことのない、絶対的な強者に対する畏怖の念で、冷たく濡れていた。
ギルドへの報告書に、何と書くべきか。
『対象は、推定ランクSSS。接触を禁ず』
それくらいしか、書きようがなかった。
その頃、屋敷の中では。
気持ちのいい昼寝から目覚めたアランが、大きく伸びをしていた。
「さて、と。よく寝たな。おやつに、庭のハーブを使ってクッキーでも焼くか」
彼の知らないところで、彼の評価は「村の救世主」から「国家レベルで警戒すべき超規格外の怪物」へと、また一つ、劇的にランクアップを遂げたのだった。




