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第4話:枯れた井戸と恵みの雨

賢者の森から駆け戻ったリリアは、半狂乱のまま、村長であるギベオンの家に駆け込んだ。

「大変です、村長さん! 森の主が……アランさんが……!」


呂律の回らない彼女の言葉と、その尋常ならざる様子に、ギベオンをはじめ集まっていた村人たちは何事かと色めき立った。リリアは震える声で、森で目撃した一部始終を語り始めた。伝説の魔獣フォレスト・タイラントの出現。そして、丘の上に住む魔術師アランが、振り返りもせずに、まるで虫でも払うかのように、その魔獣を空の彼方へ吹き飛ばしてしまったことを。


しかし、彼女の話を信じる者は、誰もいなかった。


「リリア、疲れているんだ。少し落ち着きなさい」

「森の主に会って、気が動転しちまったんだべ」

「魔術師様がそんな……ありえねぇよ」


村人たちの反応は、当然のものだった。あまりにも現実離れした話だ。恐怖のあまり、幻覚でも見たのだろうと、誰もが彼女を気の毒そうな目で見るだけだった。リリアは唇を噛み締め、それ以上何も言うことができなかった。自分の目で見た真実を、誰にも理解してもらえないもどかしさに、涙が滲んだ。


だが、物語はそれで終わらなかった。

リリアが震える手で差し出した、一本の『月光草』。彼女が持ち帰ったその薬草を煎じて弟に飲ませたところ、奇跡が起きた。数日間、高熱にうなされ続けていた弟が、翌朝にはすっかり熱を下げ、元気な顔で目を覚ましたのだ。


この出来事は、村に静かな衝撃を与えた。

リリアの話は幻覚だったかもしれない。しかし、弟の回復は紛れもない事実だ。そして、彼女が伝説の薬草を持ち帰ることができたのは、賢者の森の奥深くへ足を踏み入れたからに他ならない。


「……もしかしたら、リリアの言う通り、森の主は本当にいなくなったのかもしれん」

「あの魔術師様が、本当に……?」


村人たちの間で、そんな囁きが交わされるようになった。丘の上に住む、物静かで穏やかな青年、アラン。彼は、ただの隠居した魔術師などではないのではないか。リリアが見たという光景は、あながち嘘ではないのかもしれない。


アランに対する、畏れと興味。そして、かすかな期待。

そんな、名状しがたい感情の種が、ルナ村の人々の心に、静かに蒔かれたのだった。



そんな村の空気の変化など、アランは知る由もなかった。

彼は今日も今日とて、悠々自適なスローライフを満喫している。庭で育て始めたハーブは順調に育ち、書斎での古文書の解読も捗っていた。


「ふむ……古代文明の魔力循環システムか。実に興味深い」


机の上に広げた羊皮紙の写本に没頭していると、不意に喉の渇きを覚えた。いつもはすぐそばの水差しに水を入れてあるのだが、今日はうっかり切らしてしまっていたらしい。


「仕方ない、汲みに行くか」


椅子から立ち上がりかけたアランは、ふと、窓の外の光景に眉をひそめた。

ここ数日、異常なほど日差しが強い。空には雲一つなく、乾いた風が庭の土を舞い上げている。屋敷の裏手にある井戸も、昨日確認したところ、ずいぶんと水位が下がっていた。


「このままだと、井戸の水も枯れるかもしれないな。それは少し……いや、かなり面倒だ」


水を求めて村の共同井戸まで降りていく自分の姿を想像し、アランはうんざりしたようにため息をついた。彼の行動原理は、徹頭徹尾「いかに面倒事を避けて快適に過ごすか」という一点に集約される。水汲みという労働は、彼の理想の生活からは最も遠い行為の一つだった。


書斎に戻り、再び椅子に腰掛けた彼は、腕を組んで思案する。

(どうしたものか。雨乞いの魔法でも使うか? いや、儀式は大袈裟で面倒だ。それに、下手に天候を操作すると、生態系に影響が出かねない)


彼の使う古代魔法は、世界の理に直接干渉する。それゆえに、安易な行使は思わぬ副作用を招く危険性があった。スローライフを脅かす可能性のある選択肢は、極力避けたい。


(もっと手軽で、ピンポイントで、俺の喉の渇きだけを癒してくれるような……都合のいい魔法は……)


考えながら、彼は机の上の古文書に目を落とした。そこに描かれていたのは、大気中に含まれるマナと水分を制御する魔術式。主に、砂漠地帯などで純度の高い魔力水(ポーションの原料になる)を精製するための魔法だった。


「……これだ」


アランの口元に、笑みが浮かんだ。

大掛かりな天候操作魔法ではない。周囲の空間から、純粋な水分だけを抽出し、凝縮させる魔法。彼の目的は、あくまで自分の目の前にある空のコップを、一杯の水で満たすことだけ。これならば、周囲への影響も最小限で済むはずだ。


「よし、やってみるか」


彼は空のガラスコップを書斎の机の中央に置くと、目を閉じ、精神を集中させた。


「《空に満ちる無形の恵みよ、我が見えざる手に集え。汝は形を得て、渇きを癒す一滴の雫とならん。来たれ―― बुलाना (ブラーナー)》」


それは、招来を意味する古の言葉。

アランが詠唱を終えると、彼の周囲の空気が微かに揺らぎ、部屋の中のマナが活性化していくのが肌で感じられた。屋敷の周り、村の上空、賢者の森の大気に含まれる、無数の水分子が、アランの魔力に引かれ、目に見えない奔流となって書斎の一点へと殺到し始める。


もちろん、アランの意識は、目の前のコップにだけ向けられていた。

彼のイメージ通り、コップの真上の空間に、水滴が一つ、また一つと現れ、それらが集まって一筋の水の流れとなり、ガラスの器を満たしていく。


「うん、上々だ。魔力の純度も申し分ない」


コップが極上の水で満たされていくのを満足げに眺めながら、彼は自分の魔力制御の完璧さに一人悦に入っていた。


だが、彼は気づいていなかった。

自分の規格外の魔力量が、たった一杯の水を生成するには、あまりにも過剰であったことに。

そして、コップに注がれなかった膨大な量の水分子――いわば魔法の「余波」が、屋敷の上空で、とんでもない現象を引き起こしていることに。



その日、ルナ村は絶望的な空気に包まれていた。

村の生命線である中央広場の共同井戸が、ついに枯渇したのだ。桶を降ろしても、乾いた土を叩く虚しい音が響くだけ。女たちは井戸の周りで途方に暮れ、男たちは日照りでひび割れた畑を前に、頭を抱えていた。


「このままでは、村が干上がってしまう……」

「川まで水を汲みに行くにも、ここからじゃ半日仕事だ」

「どうすりゃいいんだ……」


村長ギベオンの家の前に集まった村人たちの間では、怒号とため息が飛び交っていた。日照りは、人々の心の余裕さえも奪っていく。


その時だった。

誰かが、空を指差して叫んだ。


「み、見ろ! 雲だ!」


村人たちが一斉に空を見上げる。

ついさっきまで、一点の曇りもなかったはずの青空。その中央、ちょうどルナ村の真上にだけ、まるで墨を流したかのように、巨大な黒い雲が急速に形を成していくではないか。


「な……なんだ、ありゃあ……」

「嵐が来るのか!?」


村人たちが不安にざわめく中、ギベオンとリリアだけは、別の可能性に思い至っていた。彼らは、まるで示し合わせたかのように、丘の上の屋敷の方角を見つめた。


ゴロゴロ……。

天が鳴動し、次の瞬間、大粒の雨が、乾ききった大地へと降り注ぎ始めた。


「雨だ! 雨が降ってきたぞ!」

「おお……神よ……!」


それは、まさに慈雨だった。村人たちは、降りしきる雨に打たれながら、歓声を上げ、抱き合い、天の恵みに感謝した。雨は、村と畑を隅々まで潤し、枯れかけていた作物に再び生命の息吹を与えていく。


そして、小一時間ほどで雨が上がった後、さらなる奇跡が村人たちを待っていた。

誰かが、井戸の異変に気づいたのだ。


「み、水が! 井戸に水が戻ってるぞ!」


その声に、人々が井戸の周りに殺到する。

覗き込んでみれば、枯渇したはずの井戸の底から、清らかな水がこんこんと湧き出し、みるみるうちに水位を上げていくではないか。


自然現象では、ありえない。

日照りが続く中、自分たちの村にだけ都合よく雨が降り、枯れた井戸が復活する。

これは、奇跡だ。誰かが、この村を救うために起こした、人知を超えた御業なのだ。


村人たちの視線が、一点に集まる。

丘の上の、魔術師の屋敷。


「……アラン様だ」


リリアが、震える声で呟いた。

「森の主を退けた時と同じ……アラン様が、私たちのために、恵みの雨を……!」


彼女の言葉が、引き金だった。

森の主の撃退。月光草の奇跡。そして、今回の恵みの雨。

点と点が繋がり、村人たちの心の中で、一つの確信が生まれた。


「おお……なんということだ……」

村長のギベオンは、屋敷の方角に向かって、深く、深く頭を下げた。

「あの方は、我々の苦境を見かねて、天に祈りを捧げてくださったのだ……!」


「アラン様、ありがとうございます!」

「我らの村を救ってくださり、感謝いたします!」


ギベオンに倣い、村人たちが次々と丘の上の屋敷に向かって跪き、感謝の祈りを捧げ始めた。

彼らの目には、アランはもはや「ただの魔術師」などではなかった。村を災いから救う、神の使いか、伝説の賢者の再来。まさに、救世主そのものだった。


その頃、騒動の元凶であるアランは。


「――ぷはぁ。うん、美味い」


書斎の椅子に座り、自分で生成した極上の水を飲み干して、満足げな息をついていた。魔力によって不純物が完全に取り除かれた水は、喉を滑り落ち、体に染み渡っていく。


「やっぱり、魔法で精製した水は最高だな。これでまた、研究に集中できる」


窓の外で、村人たちが自分に向かって祈りを捧げているなどとは露ほども知らず、彼は再び古文書に目を落とす。


彼のささやかなスローライフへの渇望が、結果として村一つを救い、新たな伝説を生み出してしまった。

そして、この壮大な勘違いが、さらに大きな勘違いを呼ぶことになるのを、彼はまだ知る由もなかった。

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