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第30話:勘違いされたままのスローライフ

『静寂の夜明け』。

終焉の魔王ザイロスが再び永い眠りについたあの奇跡の夜は、後に歴史家たちによってそう名付けられた。

世界は滅亡の淵から救われた。人々は夜明けの光に涙し、その救済をもたらした名もなき神か、あるいは伝説の再来たる英雄に、心からの祈りを捧げた。


そして、数週間が過ぎた頃。

クライネルト王国の王都からルナ村へと続く道は、かつてないほどの荘厳な行列で埋め尽くされていた。

先頭を行くのは王家の紋章を掲げた純白の騎士団。それに続くのは、宰相ダリウスを乗せた豪奢な馬車。その後ろには、山のような金銀財宝や高級な絹織物を積んだ荷馬車が、延々と連なっている。

王国の威信の全てをかけた大使節団。

その目的はただ一人。

この国を、いや世界を救った偉大なる賢者アランへの、感謝と報奨を伝えるためだった。


村に到着したダリウスたちは、そのあまりにも穏やかで平和な光景に、改めて息を呑んだ。

ここが、あの天変地異を引き起こし、神の如き御業を成した超常の存在が住まう場所だとは、到底思えなかった。


使節団は村人たちの畏敬の視線に送られながら、丘の上のアランの屋敷へとたどり着いた。

ダリウスは、人生で最も緊張しながら、その簡素な木の扉をノックした。


「はーい。どちら様ですか?」


扉を開けて顔を出したのは、眠そうな目をこすりながら、大きなあくびを一つした、ごく普通の青年だった。

アランは目の前に広がる非現実的な光景――完全武装の騎士団と見たこともないほどの財宝、そして国の最高権力者――を前にして、心底面倒くさそうな顔をした。


(うわあ……。一番厄介なタイプの、来客だ……)



屋敷の小さな居間に、不釣り合いなほど大勢の人間がひしめき合っていた。

宰相ダリウスはアランの前に恭しく膝をつくと、国王からの親書を厳かに読み上げ始めた。


「――賢者アラン・フォン・クライネルト殿。貴殿が帝国軍を退け、終焉の魔王を再び封印せし、その神の如き御業に対し、クライネルト王国、及びその民を代表し、最大限の感謝と敬意を表するものであります」


ダリウスはそこで一度言葉を切り、後ろに控えていた従者に目配せをした。

従者たちが次々と、豪華な品々をアランの前に並べていく。


「つきましては陛下より、貴殿に我が国における最高位の爵位『救国の大公』の称号と、王都にこの屋敷の百倍はあろうかという壮麗なるお屋敷を」

「さらに、この金銀財宝の全てと、国庫収入の一割を生涯にわたってお約束いたします」

「どうかこれらをお受け取りになり、今後ともこの国の守護神として、我々をお導きください」


それは一人の人間が受け取れる名誉としては、破格を通り越していた。

国を半分差し出すのに等しい申し出。

ダリウスは、アランがこれにどう応えるのか、固唾を飲んで見守っていた。

セラフィーナやイザベラたちも、誇らしげな、そして温かい眼差しでアランを見つめていた。


アランは。

そのあまりにも魅力的で、そしてあまりにも面倒くさい提案の全てを聞き終えた後。

困ったように眉を八の字に下げて、


こう言った。


「……あのう、大変申し訳ないのですが」


「全部、いりません」


「「「…………え?」」」


その場にいた全員が、凍りついた。

宰相ダリウスでさえ、老獪なポーカーフェイスを崩し、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


アランはポリポリと頬を掻きながら続けた。

「いやその、お気持ちはすごくありがたいんですけどね。大公とかになると、会議とかパーティーとか色々出なきゃいけないんでしょう? 面倒じゃないですか」

「は、はあ……」

「広い屋敷も掃除が大変ですし。お金も別に、今の生活で十分足りてますし」

「……」

「だから、そういうのは全部結構です。俺は英雄でも聖者でも守護神でもありませんから。ただの、静かに暮らしたいだけの隠居した魔術師なので」


彼はにこりと、人の好い笑顔で言った。

「もしどうしても俺に褒美をくださるというのでしたら、一つだけお願いがあります」

「な、何なりとお申し付けください!」

ダリウスが身を乗り出す。


「このルナ村を、今後一切の干渉を受けない不可侵の自治区にしてもらえませんか。使節団とか視察団とか、そういう面倒な人たちが来ないように、王様の名前で保証してほしいんです」


「……それが、俺にとって最高の報酬です」



アランのその、あまりにも規格外な願い。

それを聞いたダリウスはしばし呆然としていたが、やがてその老獪な顔に、深い深い感銘の色が浮かんだ。


(……なんと……! なんという御方だ……!)

彼の勘違い回路が、フル回転を始める。

(国を救うほどの偉業を成し遂げながら、富も名誉も地位も一切求めぬというのか……! ただ、民(村人)の平穏な暮らしだけを願う、と……!)

(これぞ真の賢者の姿……! 真の王の器……!)


ダリウスはもはや、アランという存在に畏敬を通り越し、絶対的な信仰心さえ抱き始めていた。

彼はその場で、床に額をこすりつけんばかりの勢いで、深く頭を下げた。


「……賢者様の、そのあまりにも気高く慈悲深きお心……! このダリウス、感服いたしました! お約束いたします! このルナ村を、王家直轄の永遠の聖域とすることを、陛下に代わりこの場で誓いましょう!」


こうして、アランの「面倒事を避けたい」というどこまでも個人的な願いは国を動かし、「聖域ルナ」という新たな伝説を生み出した。

この日を境にルナ村は地図の上からその姿を消した。いかなる者も王の許可なく立ち入ることを許されぬ、神聖にして不可侵の楽園となったのだ。



使節団が嵐のように去っていった後。

屋敷にはいつもの、穏やかな時間が戻ってきた。


アランは屋敷のポーチのロッキングチェアに揺られながら、セラフィーナが淹れてくれたレモネードを飲んでいた。


「アラン様、本当に、よろしかったのですか? 大公の地位をお受けになれば、もっと多くの人々を救えたかもしれませんのに」

「うーん。でもそうすると、こうしてのんびりレモネードを飲む時間もなくなっちゃうからね。俺は、今が一番だよ」


アランがそう言って笑うと、セラフィーナも幸せそうに微笑んだ。


彼の周りには、いつの間にかたくさんの笑顔があった。

彼の淹れるハーブティーを楽しみにする王女様。

彼の無駄のない動きに武の極意を見出す女騎士。

彼の存在そのものに森の安らぎを感じるエルフ。

そして彼を兄のように慕う、村娘。


(……まあ、計画していたより、少し賑やかになっちゃったけど)


アランは遠くの夕日を眺めながら思う。


(……こういうのも、悪くないか)


それは彼が初めて手に入れた、温かい家族のような繋がりだった。


全ての脅威は去った。

世界は平和になった。

救国の英雄『賢者アラン』の伝説は、吟遊詩人によって歌となり、永遠に語り継がれていくだろう。


だが、その伝説の中心にいる男は、そんなこととは露知らず。

辺境の聖域で、愛すべき仲間たちに囲まれながら。

少し騒がしくなったけれど、温かい、念願のスローライフを続けていくのだった。


そして、世界を救ったその、あまりにも壮大な「勘違い」は。

もはや誰も、解こうとはしなかった。

それが、世界にとって、最も幸福な真実となっていたのだから。


【完】

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