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第3話:最初の『勘違い』

ルナ村での生活が始まって、一週間が過ぎた。

俺、アランの毎日は、かつてないほど充実していた。


朝は鳥の声で目を覚まし、自分で淹れたハーブティーを飲むことから始まる。昼間は、屋敷の掃除や庭の手入れに勤しんだ。もちろん、古代魔法をふんだんに活用してだ。


「《塵よ、本来あるべき場所へ還れ》」


指を軽く鳴らすと、何年も積もっていたであろう屋敷中の埃が、まるで意思を持ったかのように窓から飛び出し、風に溶けて消えていく。これは古代魔法『浄化』の応用だ。


「《眠れる種子よ、太陽の呼び声に応えよ》」


庭に作った小さな畑に手をかざせば、蒔いたばかりの種が次々と芽吹き、双葉を開く。古代魔法『育成』を使えば、作物が育つのを待つ時間さえ短縮できる。もっとも、それではスローライフの趣旨に反するので、今は発芽を促す程度に留めているが。


夜は、今回の生活のメインイベント、古代魔法の研究に没頭する。書斎の大きな机に、実家から持ち出した数少ない古文書を広げ、蝋燭の灯りを頼りに解読を進める。誰にも邪魔されず、ただ己の知的好奇心を満たすためだけに時間を使う。これほど贅沢なことが、他にあるだろうか。


追放されたあの日、勇者カイルは俺を「役立たず」と罵った。だが、そのおかげで手に入れたこの生活は、彼らが血眼になって求める名誉や富よりも、ずっと価値のあるものに思えた。


「さて、と。今日は森の探索にでも行ってみるか」


屋敷の食料庫も、そろそろ寂しくなってきた。計画書通り、森へ薬草や食料の調達に出かけることにした。手製の籠を片手に、俺は屋敷の裏手から広がる「賢者の森」へと足を踏み入れた。


村の子供たちが恐れるこの森も、俺にとっては宝の山だ。足元には食用のキノコが顔を出し、木々には瑞々しい果実がなっている。俺は古文書で得た知識を頼りに、食べられるものと、薬になるものを手際よく籠に入れていく。


「お、これは『月光草』か。珍しいな」


銀色に淡く輝く葉を持つ薬草を見つけ、俺は小さく声を上げた。精神安定に高い効果があり、王都の市場では高値で取引される希少品だ。こんな場所に群生しているとは。


夢中になって薬草を摘んでいると、ふと、周囲に漂う虫がやけに鬱陶しく感じられた。羽音を立てて顔の周りを飛び回るアブや、腕に止まろうとする蚊。


「……まったく、集中できないな」


俺は少し眉をひそめ、無意識のうちに、ごく微量の魔力を体外に放出させた。

古代魔法の中でも最も基礎的な技術の一つ、『斥力結界』。本来は物理的な攻撃を防ぐためのものだが、魔力の出力を最小限に絞れば、虫程度の小さな生き物を近寄らせない効果がある。いわば、魔力でできた虫除けスプレーのようなものだ。


これでよし、と。鬱陶しい羽音から解放され、俺は再び薬草の採取に集中し始めた。


だから、俺は気づかなかった。

少し離れた樫の木の陰で、一人の少女が息を殺してこちらを見ていたことにも。

そして、その少女のすぐ背後まで、この森の『主』が忍び寄っていたことにも。



彼女の名前はリリア。ルナ村で生まれ育った、茶色い髪を二つに結んだ快活な少女だ。

だが、今の彼女の顔に、いつもの明るさはなかった。その表情は、不安と決意が入り混じったようにこわばっている。


彼女が、村人たちが決して近づかない賢者の森の、それも奥深くまで足を踏み入れたのには理由があった。数日前から、年の離れた幼い弟が、原因不明の熱病にうなされているのだ。村のなけなしの薬草を煎じて飲ませても、一向に良くならない。


昨日、村長のギベオンが、古い文献に書かれていた話を教えてくれた。

「この森の奥には、『月光草』という不思議な薬草が自生しているという。どんな病も癒す力があるそうじゃが……森の主が住まう場所ゆえ、誰も近づけん」


森の主。村で最も恐れられている存在。その姿を見た者は誰一人として生きては帰れないとさえ言われる、伝説の魔獣。


だが、リリアは諦めきれなかった。弟の苦しむ顔が、脳裏に焼き付いて離れない。彼女は家族に内緒で、夜明けと共に家を抜け出し、この危険な森へとやってきたのだ。


幸運にも、彼女はすぐに銀色に輝く薬草の群生地を見つけた。

(あれが、月光草……!)

希望の光が見えた、その時だった。群生地のすぐそばに、先客がいることに気づいたのだ。


(あ、あの人は……丘の上の屋-敷に来た、アランさん?)


数日前、村にやってきた不思議な青年。隠居した魔術師だと名乗っていたが、その物腰はどこか気品があり、村の誰とも違う空気をまとっていた。リリアは、遠巻きに彼が屋敷の庭を手入れしているのを見かけたことがあった。


(どうして、こんな森の奥に……?)


警戒しながら様子を窺っていると、アランは慣れた手つきで薬草を摘んでいる。まるで、自分の庭を散歩でもしているかのような落ち着き払いようだ。


その時だった。

リリアの背後で、木々が大きく揺れ、獣の唸り声が響いた。

振り返った彼女は、息を呑んだ。


そこにいたのは、巨大な熊だった。いや、熊などという生易しいものではない。身の丈は四メートル近くあり、全身の毛は苔むした岩のように硬質化している。背中からは、まるで樹木のような鋭い棘が無数に突き出し、爛々と輝く四つの赤い目が、飢えた光をたたえていた。


(あ……あ……森の主……『フォレスト・タイラント』……!)


村の伝承で語られる、災厄の化身。その圧倒的な威圧感を前に、リリアは足がすくんで動けなかった。声も出ない。死の恐怖が、全身を凍りつかせる。


ガルルルル……。

フォレスト・タイラントは、獲物であるリリアをひと睨みすると、興味を失ったかのように、もう一人の侵入者――アランの方へとゆっくりと向き直った。自分の縄張りを荒らす、不遜な存在。その魔獣の本能が、アランこそが排除すべき敵だと告げていた。


(だめ……逃げて、アランさん……!)


リリアは心の中で叫ぶ。だが、アランは背を向けたまま、呑気に薬草を摘み続けている。魔獣の接近に、全く気づいていないかのようだった。


グオオオオオオオオオッ!


大地を揺るがす咆哮と共に、フォレスト・タイラントが動いた。その巨躯に似合わぬ俊敏さで、地面を蹴り、アランへと突進する。岩をも砕くであろう剛腕が、無防備な青年の背中に向けて振り下ろされた。


もう、だめだ。

リリアは、思わず目を固く閉じた。


――ドゴォンッ!


しかし、想像していた肉が潰れるおぞましい音は聞こえなかった。代わりに響いたのは、まるで鋼鉄の壁に巨大な岩でも叩きつけたかのような、鈍く、硬い衝突音。


恐る恐る目を開けたリリアは、信じられない光景を目の当たりにした。


アランは、依然として薬草を摘んだまま、背を向けたまま、立っている。

そして、彼に殴りかかったはずのフォレスト・タイラントが、まるで透明な壁にでも激突したかのように、くの字に折れ曲がって数メートル後方まで弾き飛ばされていたのだ。


「ん……? 何か風が吹いたか?」


アランが、ようやくといった様子で、小さく首を傾げた。その声は、どこまでも平坦で、のんきだ。


一方、弾き飛ばされたフォレスト・タイラントは、何が起きたのか理解できないといった様子で混乱していた。自分の全力の一撃が、全く通用しなかった。それどころか、触れることすらできなかった。


グルル……?


魔獣は威嚇の声を上げるが、その声には先程までの威圧感はなく、明らかな困惑と……そして、恐怖の色が混じっていた。

本能が警鐘を鳴らしている。目の前にいるこの生物は、自分などが決して手を出してはならない、次元の違う存在だと。


それでも、森の主としてのプライドが、退却を許さなかった。フォレスト・タイラントは再び咆哮し、今度は口から緑色の瘴気を帯びた魔力ブレスを放った。木々を瞬時に腐らせる、必殺の一撃。


しかし、そのブレスも、アランの背中に届く直前で、まるで霧のように四散して消えてしまった。アランの体を覆う、不可視の『虫除け結界』に阻まれたのだ。


「……ああ、もう。しつこいな」


アランが、今度ははっきりと苛立ちの声を上げた。ただし、その視線は魔獣の方ではなく、自分の周りを飛び回る(ように彼には感じられる)しつこい羽虫に向けられている。彼は、面倒くさそうに、魔力をほんの少しだけ強めた。


その瞬間、フォレスト・タイラントの巨躯が、見えない力によって宙に持ち上げられた。

「グ、ギャアアアアアアアッ!?」

魔獣は、生まれて初めて、恐怖の絶叫を上げた。何が起きているのか分からない。ただ、抗うことのできない絶対的な力が、自分の体を玩具のように弄んでいる。


「これで静かになるだろう」


アランは、虫を追い払うように、軽く手を振った。


それと同時に、フォレスト・タイラントの体は、まるで投石器で打ち出された石のように、凄まじい勢いで森の遥か彼方へと放り投げられた。木々をなぎ倒し、小さな悲鳴を残して、あっという間に視界から消えていく。


森に、再び静寂が戻った。


アランは「ふぅ」と満足げな息をつくと、何事もなかったかのように薬草採取を再開した。

「さて、と。月光草はこれくらいでいいか。ああ、そうだ。夕食のために、あのキノコも採っていこう」


鼻歌交じりに、彼は目的のものを籠に入れると、やがて満足したのか、のんびりとした足取りで村の方へと帰っていく。


最初から最後まで、彼は一度も、背後にいたリリアと、森の主の存在に気づくことはなかった。


……


ア-ランの姿か"見えなくなっても、リリアはその場から一歩も動けなかった。

腰が抜け、へなへなと地面に座り込む。心臓が、まだ激しく鼓動を打っている。


(今……今の、なに……?)


目の前で起きたことが、まるで現実だとは思えなかった。

村の誰もが恐れる、伝説の魔獣、フォレスト・タイラント。その森の主が、まるで赤子のように、赤子以下のように、一方的にあしらわれていた。


アランは、一度も振り返らなかった。

指一本、動かさなかった。

ただ、そこに立っていただけ。

それだけで、森の主は恐怖に慄き、逃げることすらできずに、空の彼方へ吹き飛ばされた。


(あの人は……隠居した魔術師なんかじゃない……)


リリアの頭の中に、村の古い伝承が蘇る。

この森が「賢者の森」と呼ばれる由縁。

それは、遥か昔、世界を救った一人の大賢者が、晩年をこの地で過ごしたという言い伝え。


(まさか……アランさんは……その賢者様の、生まれ変わり……?)


壮大な勘違い。しかし、先程の光景を目の当たりにしたリリアにとって、それはもはや揺るぎない確信へと変わりつつあった。


彼女は震える手で、アランが気づかずに落としていった一本の月光草を拾い上げた。

弟を救うための、希望の光。

そして、あの人知を超えた存在が、今、このルナ村にいるという、畏敬の証。


リリアは薬草を胸に抱きしめ、よろよろと立ち上がると、一目散に村へと駆け出した。

アランという人物の規格外の力が、初めて他者に目撃された瞬間だった。

そしてそれは、これから始まる、壮大な勘違いの物語の、ほんの序章に過ぎなかった。

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