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第29話:夜明け前の鎮魂歌

勇者パーティーと呼ばれた者たちが失意のまま王都へと姿を消してから、数週間。

アランの元には、彼が心の底から望んでいた完璧なまでの平穏が訪れていた。


「どうかな、セリアさん。この『光る苔ランプ』、書斎の明かりにちょうどいいだろう?」

「まあ、素敵ですわ、アラン様! まるで瓶の中に、小さな星空を閉じ込めたみたい……」


アランは最近、ルミナが森から採ってきた苔を改良し、魔力を注いで半永久的に光り続けるエコな照明器具の開発に夢中だった。彼のスローライフは、彼の尽きることのない探究心によって、日に日に、より快適で文化的なものへと進化を遂げていた。


セラフィーナやルミナ、そしてイザベラたちも、そんな彼の穏やかな日常にすっかりと溶け込んでいた。彼女たちは、アランが古文書の解読に没頭すればその静寂を乱さぬよう息を潜めて見守り、彼が畑仕事に精を出せば楽しげにその手伝いをする。

誰もが、この陽だまりのような時間が永遠に続くことを、信じて疑わなかった。


だが、世界の理とは無情である。

一つの巨大な「面倒ごと」が去った後には、さらに巨大な、そして抗いようのない「災厄」が訪れるものなのだ。


その兆候は、ある日唐突に現れた。

最初に村を襲ったのは、微かだが不気味な揺れだった。

そしてその揺れは、日を追うごとに激しさを増していった。

空はまるで毒を流し込んだかのように、どす黒い紫色に染まり、昼間でも薄気味悪い闇が大地を覆った。


ルナ村の『癒やしの湯』は輝きを失い、ただ不気味に黒く濁った。

森の動物たちは一斉に姿を消し、代わりにこれまで見たこともないような凶暴な魔物たちがうろつき始める。


「……長老から、伝言です」

エルフのルミナが、蒼白な顔でアランに告げた。

「大森林の全ての精霊たちが、恐怖に叫んでいます……! 世界の理が乱れている、と……! 古の大いなる『災厄』が、永い眠りから目覚めようとしている、と……!」


イザベラもまた柄に手をかけ、厳しい表情で空を睨んでいた。

「……この禍々しい魔力の奔流……! 先日、国境で感じた帝国軍のそれとは、比較にさえならない……! これはもはや戦争などという生易しいものではない。世界の終焉の始まりだ……!」


セラフィーナはただ黙って、アランのその横顔を見つめていた。

その瞳には恐怖よりも深い、絶対的な信頼の色が浮かんでいた。


アランは。

そんな三人の深刻な様子を、どこか他人事のように眺めながら。

心の底からうんざりした、という顔で一つ大きなため息をついた。


(ああ、もう……)

彼の思考は、ただ一つだった。

(地面は揺れるし、空は変な色だし。最近どうも、うるさくてよく眠れないんだよなあ……)



その頃、王都は文字通りのパニックに陥っていた。

王城の魔術師たちが、血の気の引いた顔で国王に最悪の報告をもたらしたのだ。


「……古代の魔王を封印せし中央祭壇の、『オリハルコンの楔』が……砕け散りました!」

「な、なんだと!?」

「遥か神話の時代に、初代勇者王がその命と引き換えに封じたという、最古にして最強の魔王……『終焉の魔王ザイロス』が……! 今この瞬間に、復活しようとしております!」


それはもはや一国の危機などというレベルの話ではなかった。

世界の終わり、そのものだった。

騎士団は絶望的な状況下でも、民衆の避難誘導にあたっているが、どこへ逃げればいいというのか。

大臣たちはただ祈ることしかできない。

かつての勇者パーティーは、もういない。


全ての希望が潰えたかのように見えた、その時。

玉座に座る国王ウィルフレッドの脳裏に、たった一人、青年の顔が浮かんだ。


「……使者を、出せ」


国王が絞り出すような声で命じた。

「西の辺境、ルナ村へ! 我が国の最後の希望……賢者アラン様の元へ、急がせよ!」

「は、ははっ!」

「伝えよ! もはや我が国に、差し出せぬものなど何もない、と! 領土でも富でも、この王位でさえも! 望むものは全て差し出す! だからどうか、この世界をお救いください、と!」


一人の王としてではなく。

ただ滅びゆく民を思う、一人の人間としての魂からの叫びだった。



王の悲痛な願いを乗せた王国最速の馬は、その命を燃やし尽くすかのように荒野を駆けた。

そして息も絶え絶えに、ルナ村のアランの屋敷の前に滑り込んだ。


「け、賢者アラン様……! お、お願い申し上げます……!」


転がり落ちるように馬から降りた使者は、アランの前にひれ伏した。

「魔王が……! 終焉の魔王が、復活いたしました! もはやこの世界は終わりでございます! どうか、どうかその御力で……!」


アランは、その半狂乱の使者の報告をただ黙って聞いていた。

そして、セラフィーナが心配そうに彼の名を呼んだ。

「アラン様……世界が……」


その言葉を、アランは遮った。

彼は天を仰ぎ、今日何度目かも分からない、深くて長いため息を吐き出した。


「……知ってるよ。うるさいし、地面は揺れるし、空は変な色だし」


彼はまるで、近所の家の工事の騒音に文句を言うかのような口調で言った。


「……これじゃあ、静かに本も読めないじゃないか。昼寝もできないし。最悪だ」


彼の関心は、ただそこにしかなかった。

世界の終わり、ではない。

自分のスローライフの、終わり。

彼にとって、その二つは全く同じ意味を持っていたのだ。


アランはやれやれと首を掻くと、面倒くさそうに立ち上がった。

「……仕方ない。ちょっと黙らせてくるか」

「ア、アラン様!?」

「一晩かかるかな。ああ、徹夜は嫌いなんだがな……」


そのあまりにも軽い言葉。

だがその場にいた誰もが、息を呑んだ。

世界の終焉という絶対的な絶望を前に、この男はそれを「徹夜仕事」という、ただの面倒ごととして片付けようとしている。


アランはセラフィーナたちに「ここで待ってて」とだけ言うと、一人で屋敷の裏手にある賢者の森へと向かった。

彼が向かった先は、先日彼自身が修復したばかりの、あの黒水晶の封印石だった。


「……さて、と」


アランは封印石の前に立つと、その滑らかな表面にそっと手を触れた。

「君の力を少し借りるよ。大陸中に、俺の声を届かせるためにね」


彼はこの古代の封印石を、ただの巨大な「アンテナ」として利用しようとしていたのだ。

彼は、詠唱を始めた。

それはこれまで彼女たちが聞いた、どんな古の言葉よりもさらに古く。

そして複雑で、神聖な響きを持っていた。

まるで世界が生まれた時に、最初に響いた音色のような歌。


封印石が眩い光を放ち始める。

アランの身体が地面からふわりと浮かび上がった。

夜空の全ての星々が、彼に呼応するかのようにその輝きを増していく。


そして彼は、ただ一言。

大陸全土の、生きとし生けるものの魂に直接響き渡るように。

静かに、しかし絶対的な意思を込めて、命じた。


「――《眠れ》」


それはあまりにもシンプルな一言。

だが、それは世界の理そのものに下された、神の勅命だった。


その瞬間。

大陸の中央、古の魔王城の玉座の間で、復活の咆哮を上げようとしていた終焉の魔王ザイロスの巨大な影が。

ぴたり、と動きを止めた。

その混沌の化身たる瞳に、初めて困惑の色が浮かぶ。

抗えない。

この穏やかで、しかし絶対的な命令に逆らうことができない。

まるで母親に寝かしつけられる赤子のように。

その意識が、温かく心地よい静寂の海の底へと、沈んでいく。


魔王だけではない。

彼の復活に呼応して凶暴化していた、大陸中の全ての魔物たちが。

その場でばたりと倒れ伏し、穏やかな寝息を立て始めた。


王都を覆っていた不吉な紫色の闇が晴れていく。

大地を揺るがしていた不気味な振動が止まる。

そして世界に、完全な静寂が訪れた。



「……ふああぁ……。終わった、終わった。疲れた……」


全ての元凶を再び永い眠りにつかせたアランは、大きなあくびを一つすると、まるで電池が切れたかのように、その場にふらりと倒れ込んだ。

駆け寄ってきたセラフィーナたちに支えられながら、彼はただ一言。

「……もう、寝る……」

と呟くと、そのまま本当に、深い深い眠りに落ちてしまった。


翌朝。

世界は生まれ変わったかのように、穏やかな朝の光に包まれていた。

王都では人々が、何が起きたのかも分からぬまま、奇跡的な救済に涙し、神に感謝の祈りを捧げていた。

だが、宰相ダリウスと国王だけは知っていた。

この世界の夜明けをもたらしたのが、誰なのかを。

彼らの賢者アランに対する評価は、もはや畏敬を通り越し、畏怖の領域へと達していた。


そして、ルナ村の屋敷のベッドの上で。

一人の青年が、全ての面倒ごとを片付け、満足げな寝息を立てていた。

彼は、世界を救った。

ただ、静かに、そしてぐっすりと眠りたかった、その一心で。

彼の理想のスローライフは、今度こそ誰にも邪魔されることのない、完璧なものとなったのだった。

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