第28話:絶望の帰路
アランの家の扉が、静かに、そして完全に閉じられた。
その何の変哲もない木の扉が、今のリナリアたちにとっては、楽園と地獄を隔てる、決して越えることのできない絶望の門のように見えた。
後に残されたのは、絶対的な沈黙と、気まずそうに顔を見合わせる元勇者パーティーの三人。
そして、幌馬車の中から聞こえてくる、か細い、意識を取り戻したばかりの声だった。
「……リナリア……? ここは……どこだ……?」
「……カイル様……!」
勇者カイルが、ゆっくりとその目を開けていた。
呪いの激痛に歪んでいたその顔は今は穏やかで、ただ長い悪夢から覚めたかのような、深い混乱の色を浮かべている。
「身体の……痛みが……消えている……。一体、何が……」
彼が最後に覚えているのは、魔将マーラコルの嘲笑うかのような紅い瞳と、魂を焼き尽くすかのようなおぞましい激痛。
だが今、その痛みは嘘のように消え去っていた。
「俺たちは……勝ったのか……?」
その、あまりにも無邪気な問い。
それがまるで合図だったかのように、セラの瞳から、こらえていた涙がぼろぼろと溢れ出した。ゴードンは天を仰ぎ、奥歯をギリと噛み締める。
リナリアは、言葉に詰まった。
救われた愛する人の、その顔をまっすぐに見ることができない。
何と説明すればいいのか。
自分たちが、いかに無様に敗れ、そして、いかに惨めな方法で救われたのかを。
◇
ルナ村を去る、帰り道。
幌馬車の中の空気は、来た時よりもさらに重く、冷え切っていた。
リナリアは意を決し、全てをカイルに話した。
自分たちがマーラコルに、赤子のようにあしらわれたこと。
彼が古代の呪いを受け、王都の誰もが匙を投げたこと。
そして最後の望みを託し、このルナ村を訪れ……あの男、アランに土下座をして命乞いをしたことを。
彼女は、何も隠さなかった。
アランがいかにあっけなく、まるで埃でも払うかのようにカイルの呪いを癒したのか。
そしてその後、いかに冷たく、絶対的な言葉で自分たちを拒絶したのかを。
『君たちは面倒くさい。だから二度と、俺の前に現れるな』
と。
カイルは黙って、全てを聞いていた。
その表情は能面のように、何の感情も浮かんでいなかった。
全てを聞き終えた後も、彼は何も言わなかった。
怒りもなければ、悲しみもない。
ただ静かに、幌馬車の小さな窓から遠ざかっていく、ルナ村の楽園のような風景を見つめているだけだった。
やがて彼は、ふっと息を漏らした。
それは笑い声のようでもあり、ため息のようでもあった。
「……そうか」
ぽつり、と彼が呟いた。
「……俺は、あいつに……助けられたのか……」
その声には、もはや嫉妬も憎悪も欠片も残っていなかった。
ただ、あまりにも深く、そして暗い虚無だけが広がっていた。
勇者としての彼のプライドは、呪いによる肉体の苦痛よりも、この精神的な完全な敗北によって、跡形もなく砕け散ってしまっていたのだ。
◇
旅の途中。
彼らは一度だけ、野盗の襲撃を受けた。
以前の彼らなら鼻で笑って一蹴していたであろう、三流のごろつき集団。
だが、今の彼らは違った。
「くそっ! 剣が安物すぎて、すぐに刃こぼれしやがる!」
「ゴードンさん、後ろ!」
ゴードンのなまくらの剣は野盗の斧を受け止めきれず、セラは杖が粗悪なために魔法の制御に手間取った。
リナリアの回復魔法だけが、唯一の頼りだった。
彼らは泥臭く、無様に傷だらけになりながら、ようやくそのチンピラ同然の敵を追い払うことができた。
その夜の野営地。
焚き火を囲む四人の間には、重い沈黙が流れていた。
その沈黙を破ったのは、ゴードンだった。
「……なあ」
彼は夜空を見上げながら、ぽつりと言った。
「……俺たち、これからどうすりゃいいんだろうな」
その誰にともなく向けられた問いに、答える者はいなかった。
セラが膝を抱えながら、か細い声で呟く。
「……どう、できるというのです……? 私たちにはもう何もありませんわ。装備も、お金も、ギルドからの信用も……そして、勇者としての誇りも……」
そうだ。
彼らはもはや、勇者パーティーではなかった。
ただの、借金こそないが、無力で落ちぶれた元冒険者の集まり。
「……私たちが、間違っていた」
静寂の中、カイルが初めてはっきりと口を開いた。
彼は燃え盛る焚き火の炎を、じっと見つめていた。
「……俺たちが弱かった。そして、愚かだった。あいつの本当の力に気づけなかった。いや……気づこうとさえしなかった。自分のちっぽけなプライドを守るために」
「カイル様……」
「俺は勇者失格だ。いや……そもそも、勇者の器じゃなかったんだ」
彼は自嘲するように笑った。
そして仲間たちの顔を一人一人見回すと、静かに告げた。
「……勇者パーティーは、今日、この時をもって解散する」
そのあまりにも静かな、しかし決定的な宣言。
ゴードンもセラもリナリアも、何も言えなかった。
誰もが心のどこかで、わかっていたことだったからだ。
彼らの栄光に満ちていたはずの冒険は、今この薄暗い森の野営地で、静かにその幕を下ろした。
「……お前たちはどうする?」
「俺は……どうすっかな。まあ、日雇いの傭兵でもやって糊口をしのぐさ」
ゴードンが無理に明るく言った。
「わたくしは……実家に帰りますわ。勘当されても文句は言えませんけれど……」
セラが力なく笑った。
「私は……カイル様のお側に。お体が万全になるまで、お世話をさせてください」
リナリアがそう言うと、カイルは静かに首を横に振った。
「……いや。俺も実家に帰る。田舎の小さな男爵家だ。そこで静かに剣を振るうさ。もう一度、一からやり直す。英雄としてではなく……ただ一人の剣士として」
それぞれの未来。
それはあまりにもささやかで、そして不確かなものだった。
彼らが追い求めた栄光は、今や幻のようにその手から消え去っていた。
◇
幌馬車は、やがて王都の城門へとたどり着いた。
夕日が、彼らの疲弊しきった姿を赤く染め上げていく。
それはまるで、彼らの時代の終わりを告げるかのようだった。
カイルは幌馬車の窓から、活気に満ちた王都の景色を眺めていた。
もうここも、自分たちの居場所ではない。
彼の心にあったのは、もはやアランへの嫉妬ではなかった。
ただ、あまりにも遠い、理解だけがあった。
(……あいつは、俺を救ったんじゃないんだな)
彼はそう思った。
(あいつはただ、自分の平和な日常を脅かすゴミを、掃除しただけなんだ。俺はあいつにとって、その程度の存在だった……)
それこそが、何よりも身に染みる真実だった。
その同じ夕暮れの空の下。
辺境のルナ村。
アランの屋敷の食卓には、温かいシチューの湯気が立ち上っていた。
「まあ、アラン様! お口にソースがついておりますわ」
「え、本当? どこどこ?」
「ふふっ。子供のようですわね」
セラフィーナの楽しげな声。
ルミナの穏やかな微笑み。
イザベラの呆れたような、しかし優しい眼差し。
リリアが持ってきた焼きたてのパンの、香ばしい匂い。
厄介払いを終えた賢者の食卓は、
どこまでも平和で、温かく、そして幸せな光に満ち溢れていた。




