表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

27/30

第27話:気まぐれな慈悲

「……で、えーっと…………君たち、誰だっけ?」


時が、止まった。

アランの悪意のない、あまりにも純粋な問い。

それは彼らの最後の、か細い希望の糸を、容赦なく断ち切った。


忘れられた。

自分たちの存在そのものが、この男の記憶から消し去られている。

一年間、寝食を共にした仲間だった。共に笑い、共に戦った。その全てが、この男にとっては思い出す価値もない、些細な出来事でしかなかったのだ。


これ以上惨めなことが、あるだろうか。

これ以上残酷な、罰があるだろうか。


リナリアの瞳から光が消え、ゴードンの巨躯が、がっくりと力を失う。セラはまるで魂が抜け落ちたかのように、その場にへなへなと座り込んだ。

もう何も言うべき言葉はなかった。土下座も懺悔も懇願も、全てが無意味だった。自分たちはもはや、彼にとって道端の石ころ以下の存在なのだから。


「……話は、済んだようだな」


その絶望的な沈黙を破ったのは、騎士イザベラの氷のように冷たい声だった。

彼女とエルフのルミナが一歩前に進み出る。その動きには明確な、退去を促す圧力が込められていた。


「アラン様の貴重なお時間を、これ以上無駄にするな。答えは出たはずだ。速やかにこの聖域から立ち去るがいい」

「契約者様の記憶は、美しきものと重要なる事柄のためにのみございます。貴方たちのような淀んだ存在を、覚えておいででないのもまた、理の必然」


ルミナの静かだが、刃物のように鋭い言葉が、彼らの心をさらに深く切り裂いていく。


もう終わりだ。全てが終わった。

リナリアは震える足で立ち上がった。カイルを連れて帰らなければ。そしてどこか誰にも知られない場所で、静かに彼の最期を看取るのだ。それが自分たちにできる、唯一で最後の償いだった。


彼女が無言で踵を返そうとした、その時だった。


「――ああ、ちょっと待った」


アランのどこか気の抜けた声が、彼らの背中に投げかけられた。


全員が凍りついた。

アランの側にいたセラフィーナたちでさえ、驚いたように彼の顔を見る。

当の本人たち――リナリア、ゴードン、セラは、恐る恐る、まるで錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく振り返った。


アランはやれやれといった様子で、頭を掻いていた。

彼は床にひれ伏す三人には目もくれず、そのまま屋敷の外へと歩いていく。

そして、彼らが乗ってきたみすぼらしい幌馬車の荷台を覗き込んだ。


そこには、呪いの紋様に体を蝕まれ、浅い呼吸を繰り返すカイルの姿があった。


「へえ。これがその、呪いにかかったっていう勇者か」

アランはまるで珍しい昆虫でも観察するかのように、カイルの胸に浮かぶ黒い紋様を眺めた。

その瞳には同情も憐憫も何もない。ただ純粋な、魔術師としての知的な好奇心の色が浮かんでいるだけだった。


「うん、間違いないな。古代の混沌属性の呪いだ。典型的なやつだね。最近じゃお目にかかれない年代物だ」

そのあまりにも場違いな、骨董品を鑑定するかのような口調に、誰もが言葉を失った。


リナリアがはっと我に返り、彼の元へと駆け寄った。

「ア、アランさん……! 彼を……カイル様を、治せるのですか!?」

その声は、消えかかった蝋燭の炎のようにか細く震えていた。


アランは彼女の問いには答えなかった。

彼はただ幌馬車から村の方角を見渡し、そして自分の完璧に手入れされた家庭菜園を、ちらりと見た。

そして心の底から面倒くさそうに、一つ大きなため息をついた。


彼の思考はこうだ。

(この呪いは、かなり性質が悪いな。不安定だ。もしこいつがこの村で死んだら……呪いがただ消えるとは思えない。暴発して負の魔力が、そこら中に拡散する可能性がある)

(そうなったら……畑の土が汚染される。ハーブの育ちも悪くなるだろう。温泉のお湯も濁るかもしれない。村人たちが病気になるのも、面倒だ)

(そして何より……)

(……俺の静かなスローライフが、台無しになるじゃないか)


アランの行動原理は、常に一つ。

いかに面倒事を避け、快適な生活を維持するか。

目の前の、かつての仲間の命も、彼の天秤の上では、彼の理想の生活を構成する一つの「環境要素」でしかなかった。


「……ここに、こんな厄介な代物を置いていかれるのは、迷惑なんだよな」


アランは独り言のようにそう呟いた。

そしておもむろに、自らの右手を、カイルの胸の呪いの紋様のすぐ上へと、かざした。


「ア、アランさん……?」


彼が何をしようとしているのか、誰にも分からなかった。

壮大な詠唱もなければ、眩い魔法陣もない。


アランはただ静かに、ほんの糸のように細い一筋の清浄な魔力を、その指先から流し込んだだけ。

彼が日常的にハーブを元気に育てるために使っている、それと全く同じ古代魔法の、ほんの応用。

混沌の対極にある、「秩序」の力。


それは戦いではなかった。

浄化でもなかった。

ただの、「相殺」。

負の数値を正の数値でゼロに戻すかのような、あまりにもあっけない作業。


カイルの胸に、おぞましく脈打っていた黒い紋様。

それが光と共に爆発することもなければ、闇と共に消え去ることもない。

ただ、すーっと。

まるで紙の上のインクの染みが、綺麗な水に溶けていくかのように。

音もなく、何のドラマもなく。

跡形もなく、消えていった。


カイルの苦痛に満ちた呻き声が止まる。

その呼吸は、穏やかな寝息へと変わった。

血の気の失せていたその顔に、温かい血色が戻ってくる。


呪いは、ただそこから、なくなった。

まるで最初から、何もなかったかのように。



静寂。

絶対的な静寂。

あまりにもあっけなく、そしてあまりにも常軌を逸した奇跡。

その光景を前に、リナリア、ゴードン、セラは、完全に思考を停止させていた。

自分たちが、あれほど絶望し、苦しんだ不治の呪い。

王国の全ての叡智が匙を投げた、絶対の死。

それが今目の前で、まるで服の染み抜きでもするかのように、簡単に消し去られた。


ああ。

ああ。

やはり、この人は。

この方は。

自分たちとは住む世界の違う、神の領域の存在なのだ。

三人は再び、その場に膝から崩れ落ちた。

今度は絶望からではない。

人知を超えた絶対的な「何か」を目の当たりにした、純粋な畏怖からだった。


アランはそんな彼らの様子には全く関心を示さなかった。

彼はカイルの胸から手を離すと、まるで汚いものにでも触れたかのように、ぱんぱんとその手を払った。


「はい、終わり」


そして彼は、三人の、かつての仲間たちの前に仁王立ちになった。

その瞳に宿っていたのは、もはや困惑の色ではなかった。

明確な、そして絶対的な拒絶の色だった。


「これで貸し借りはなしだ」


アランの冷たい声が響いた。


「君たちがこれからどうなろうと、俺の知ったことじゃない。だが、一つだけ言っておく」

「……」

「君たちは、面倒くさい。だから二度と、俺の屋敷とこの村に近づくな」

「……!」

「俺の静かな生活を、邪魔しないでくれ」


「……用は済んだだろ。さっさと消えてくれ」


それは慈悲ではなかった。

許しでもなかった。

ただの厄介払いのための、後始末。

温かみの欠片もない救済。

そして決して覆ることのない、永遠の決別宣言。


アランは彼らに背を向けると、一瞥もくれることなく屋敷の中へと戻っていった。

「あ、セリアさん、さっきの紅茶、まだ残ってる?」

そんな、日常の言葉だけを残して。


後に残されたのは、救われた勇者と。

そして、救われたことで、より深い絶望の淵へと突き落とされた、三人の元仲間たち。

彼らは奇跡を手に入れた。

そしてその代償として、自分たちが何を失ったのかを、永遠に思い知らされ続けるという罰を受けたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ