第27話:気まぐれな慈悲
「……で、えーっと…………君たち、誰だっけ?」
時が、止まった。
アランの悪意のない、あまりにも純粋な問い。
それは彼らの最後の、か細い希望の糸を、容赦なく断ち切った。
忘れられた。
自分たちの存在そのものが、この男の記憶から消し去られている。
一年間、寝食を共にした仲間だった。共に笑い、共に戦った。その全てが、この男にとっては思い出す価値もない、些細な出来事でしかなかったのだ。
これ以上惨めなことが、あるだろうか。
これ以上残酷な、罰があるだろうか。
リナリアの瞳から光が消え、ゴードンの巨躯が、がっくりと力を失う。セラはまるで魂が抜け落ちたかのように、その場にへなへなと座り込んだ。
もう何も言うべき言葉はなかった。土下座も懺悔も懇願も、全てが無意味だった。自分たちはもはや、彼にとって道端の石ころ以下の存在なのだから。
「……話は、済んだようだな」
その絶望的な沈黙を破ったのは、騎士イザベラの氷のように冷たい声だった。
彼女とエルフのルミナが一歩前に進み出る。その動きには明確な、退去を促す圧力が込められていた。
「アラン様の貴重なお時間を、これ以上無駄にするな。答えは出たはずだ。速やかにこの聖域から立ち去るがいい」
「契約者様の記憶は、美しきものと重要なる事柄のためにのみございます。貴方たちのような淀んだ存在を、覚えておいででないのもまた、理の必然」
ルミナの静かだが、刃物のように鋭い言葉が、彼らの心をさらに深く切り裂いていく。
もう終わりだ。全てが終わった。
リナリアは震える足で立ち上がった。カイルを連れて帰らなければ。そしてどこか誰にも知られない場所で、静かに彼の最期を看取るのだ。それが自分たちにできる、唯一で最後の償いだった。
彼女が無言で踵を返そうとした、その時だった。
「――ああ、ちょっと待った」
アランのどこか気の抜けた声が、彼らの背中に投げかけられた。
全員が凍りついた。
アランの側にいたセラフィーナたちでさえ、驚いたように彼の顔を見る。
当の本人たち――リナリア、ゴードン、セラは、恐る恐る、まるで錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく振り返った。
アランはやれやれといった様子で、頭を掻いていた。
彼は床にひれ伏す三人には目もくれず、そのまま屋敷の外へと歩いていく。
そして、彼らが乗ってきたみすぼらしい幌馬車の荷台を覗き込んだ。
そこには、呪いの紋様に体を蝕まれ、浅い呼吸を繰り返すカイルの姿があった。
「へえ。これがその、呪いにかかったっていう勇者か」
アランはまるで珍しい昆虫でも観察するかのように、カイルの胸に浮かぶ黒い紋様を眺めた。
その瞳には同情も憐憫も何もない。ただ純粋な、魔術師としての知的な好奇心の色が浮かんでいるだけだった。
「うん、間違いないな。古代の混沌属性の呪いだ。典型的なやつだね。最近じゃお目にかかれない年代物だ」
そのあまりにも場違いな、骨董品を鑑定するかのような口調に、誰もが言葉を失った。
リナリアがはっと我に返り、彼の元へと駆け寄った。
「ア、アランさん……! 彼を……カイル様を、治せるのですか!?」
その声は、消えかかった蝋燭の炎のようにか細く震えていた。
アランは彼女の問いには答えなかった。
彼はただ幌馬車から村の方角を見渡し、そして自分の完璧に手入れされた家庭菜園を、ちらりと見た。
そして心の底から面倒くさそうに、一つ大きなため息をついた。
彼の思考はこうだ。
(この呪いは、かなり性質が悪いな。不安定だ。もしこいつがこの村で死んだら……呪いがただ消えるとは思えない。暴発して負の魔力が、そこら中に拡散する可能性がある)
(そうなったら……畑の土が汚染される。ハーブの育ちも悪くなるだろう。温泉のお湯も濁るかもしれない。村人たちが病気になるのも、面倒だ)
(そして何より……)
(……俺の静かなスローライフが、台無しになるじゃないか)
アランの行動原理は、常に一つ。
いかに面倒事を避け、快適な生活を維持するか。
目の前の、かつての仲間の命も、彼の天秤の上では、彼の理想の生活を構成する一つの「環境要素」でしかなかった。
「……ここに、こんな厄介な代物を置いていかれるのは、迷惑なんだよな」
アランは独り言のようにそう呟いた。
そしておもむろに、自らの右手を、カイルの胸の呪いの紋様のすぐ上へと、かざした。
「ア、アランさん……?」
彼が何をしようとしているのか、誰にも分からなかった。
壮大な詠唱もなければ、眩い魔法陣もない。
アランはただ静かに、ほんの糸のように細い一筋の清浄な魔力を、その指先から流し込んだだけ。
彼が日常的にハーブを元気に育てるために使っている、それと全く同じ古代魔法の、ほんの応用。
混沌の対極にある、「秩序」の力。
それは戦いではなかった。
浄化でもなかった。
ただの、「相殺」。
負の数値を正の数値でゼロに戻すかのような、あまりにもあっけない作業。
カイルの胸に、おぞましく脈打っていた黒い紋様。
それが光と共に爆発することもなければ、闇と共に消え去ることもない。
ただ、すーっと。
まるで紙の上のインクの染みが、綺麗な水に溶けていくかのように。
音もなく、何のドラマもなく。
跡形もなく、消えていった。
カイルの苦痛に満ちた呻き声が止まる。
その呼吸は、穏やかな寝息へと変わった。
血の気の失せていたその顔に、温かい血色が戻ってくる。
呪いは、ただそこから、なくなった。
まるで最初から、何もなかったかのように。
◇
静寂。
絶対的な静寂。
あまりにもあっけなく、そしてあまりにも常軌を逸した奇跡。
その光景を前に、リナリア、ゴードン、セラは、完全に思考を停止させていた。
自分たちが、あれほど絶望し、苦しんだ不治の呪い。
王国の全ての叡智が匙を投げた、絶対の死。
それが今目の前で、まるで服の染み抜きでもするかのように、簡単に消し去られた。
ああ。
ああ。
やはり、この人は。
この方は。
自分たちとは住む世界の違う、神の領域の存在なのだ。
三人は再び、その場に膝から崩れ落ちた。
今度は絶望からではない。
人知を超えた絶対的な「何か」を目の当たりにした、純粋な畏怖からだった。
アランはそんな彼らの様子には全く関心を示さなかった。
彼はカイルの胸から手を離すと、まるで汚いものにでも触れたかのように、ぱんぱんとその手を払った。
「はい、終わり」
そして彼は、三人の、かつての仲間たちの前に仁王立ちになった。
その瞳に宿っていたのは、もはや困惑の色ではなかった。
明確な、そして絶対的な拒絶の色だった。
「これで貸し借りはなしだ」
アランの冷たい声が響いた。
「君たちがこれからどうなろうと、俺の知ったことじゃない。だが、一つだけ言っておく」
「……」
「君たちは、面倒くさい。だから二度と、俺の屋敷とこの村に近づくな」
「……!」
「俺の静かな生活を、邪魔しないでくれ」
「……用は済んだだろ。さっさと消えてくれ」
それは慈悲ではなかった。
許しでもなかった。
ただの厄介払いのための、後始末。
温かみの欠片もない救済。
そして決して覆ることのない、永遠の決別宣言。
アランは彼らに背を向けると、一瞥もくれることなく屋敷の中へと戻っていった。
「あ、セリアさん、さっきの紅茶、まだ残ってる?」
そんな、日常の言葉だけを残して。
後に残されたのは、救われた勇者と。
そして、救われたことで、より深い絶望の淵へと突き落とされた、三人の元仲間たち。
彼らは奇跡を手に入れた。
そしてその代償として、自分たちが何を失ったのかを、永遠に思い知らされ続けるという罰を受けたのだった。




