第26話:贖罪
「……で、えーっと…………君たち、誰だっけ?」
アランのどこまでも穏やかで、そして心底困惑した声。
その言葉は、どんな怒声や罵倒よりも深く、鋭く、三人の心を貫いた。
怒りか、憎しみか、あるいは自分たちを嘲笑う優越感か。彼らの前に立てば、そんな感情をぶつけられると覚悟していた。だが、目の前の青年の瞳に、そのどれもが浮かんでいない。
ただ純粋な、不可解なものを見るかのような戸惑いだけ。
まるで道端で見知らぬ他人が、奇妙な格好で倒れているのを見るように。
その無関心こそが、彼らがアランにとって、どれほどどうでもいい存在になり果てたのかを、何よりも雄弁に物語っていた。
「アラン様、この方たちは、貴方様のお知り合いですの?」
アランの隣に立つ王女セラフィーナが、小首を傾げた。その慈愛に満ちた瞳には、ボロボロの姿の三人に向けられた、純粋な同情の色が浮かんでいる。
「ええ、まあ……昔、ちょっとだけ……」
アランが歯切れ悪く答える。
するとセラフィーナは、すっと三人の前に進み出た。
「皆様、お立ちください。何か、大変な事情がおありのようですね。さあ、中へどうぞ。温かいお茶でも飲みながら、お話をお聞かせくださいな」
そのあまりにも自然な、女主人のような振る舞い。そしてアランが、それに何の違和感も持たずに頷いているという事実に、リナリアたちは改めて思い知らされた。
自分たちがこの丘の上の穏やかな世界にとって、完全な「異物」であることを。
◇
屋敷の居間に通された。
質素だが温かい暖炉の火が揺れる、居心地のいい部屋だ。
エルフのルミナが無言で、しかし完璧な所作で、三人の前にお茶を置く。その甘く優しい香りが、むしろ彼らの罪悪感を苛んだ。
重い、重い沈黙。
誰も、口を開けない。
何から話せばいいのか。どう、許しを乞えばいいのか。
その沈黙を破ったのは、やはりリナリアだった。
彼女はカップに一口も口をつけず、静かに立ち上がった。
そしてソファに座り、困った顔でこちらを見ているアランの前に進み出ると、再びその場に両膝をつき、額を硬い床にこすりつけた。
「……アランさん」
絞り出した声は、涙で震えていた。
彼女は言い訳も弁解も何もしない。
ただ、自分たちが追放の後、いかに愚かで惨めな道を歩んできたのかを、途切れ途切れに、しかし正直に語り始めた。
連携がいかに崩壊したか。
簡単な依頼すらこなせなくなったこと。
プライドだけを支えに無謀な挑戦を繰り返し、莫大な借金を背負ったこと。
そして自分たちの魂であった装備を、全て売り払ったこと。
最後に。
嫉妬と焦りに心を蝕まれたカイルが魔将マーラコルに挑み、そして決して癒えることのない、古代の呪いを受けたことを。
リナリアは顔を上げないまま、ひたすら懺悔の言葉を続けた。
彼女の背後で、ゴードンもセラも、同じようにソファから降りて床に膝をついていた。
彼らは生まれて初めて、自分たちの完全な敗北を認めたのだ。
「……私たちは……愚かでした……!」
リナリアの嗚咽が、部屋に響く。
「あなたの本当の価値に、気づけなかった。あなたの優しさに、甘えていたんです。私たちは、あなたという最大の宝物を、自分たちのくだらないプライドのために、投げ捨てたのです……!」
「……」
「今更、許してほしいなどと、言える資格はありません。ですが……! ですが、どうか……! カイル様だけは……! 彼だけは、お救いください……!」
彼女はついに、その願いを口にした。
「私たちは、どうなっても構いません……! この場で斬り捨てられても、奴隷として一生をここで過ごすことになっても、構いません……! ですから、どうか……! お願いします……!」
その、魂からの叫び。
アランはただ黙って、紅茶を一口すすった。
その表情は相変わらず、何を考えているのか全く読めなかった。
リナリアの懺悔を聞き、最初に動いたのはゴードンだった。
彼はリナリアの隣に這うように進み出ると、同じように額を床につけた。
「……アラン……いや、アラン様」
彼が初めて、敬称を使った。
「俺たちが悪かった……。全部、俺たちが間違ってたんだ。だから……もしカイルを救ってくれるなら……」
彼は顔を上げた。その目には、必死の色が浮かんでいた。
「……もう一度、俺たちのパーティーに、戻ってきてはくれないか……? 今度こそ、お前をリーダーとして……!」
「そうですわ!」
セラもその言葉に、すがるように続けた。
「あなたのその素晴らしいお力があれば、魔王だって倒せます! 失った私たちの名誉も取り戻せる……! お願いです、アランさん! もう一度、私たちと……!」
それは彼らなりに考え出した、最大限の償いと取引のつもりだった。
自分たちが最も価値があると考えていた、「勇者パーティーの席」と「リーダーの座」。
それを差し出すことで、彼の許しを乞おうとしたのだ。
だが。
その言葉こそが、彼らが今この瞬間に至っても、まだアランという人間を、全く理解していないことの何よりの証明だった。
◇
「――黙りなさい、愚か者ども」
凍てつくように静かな、しかし絶対的な拒絶の意思を込めた声が、部屋に響いた。
声の主はアランではない。
彼の後ろに影のように控えていた、騎士イザベラだった。
彼女はゆっくりと一歩前に出た。その手は、腰の剣の柄にかけられている。
「……貴様らは、まだ理解しておらんのか」
その翠色の瞳は、絶対零度の光を宿していた。
「貴様らが今、誰の御前にいるのかを。そして、どれほど愚かで不敬な願いを口にしているのかを」
「なっ……」
「アラン様を、貴様らのその泥にまみれた失敗の巣窟へと、引きずり戻そうなどと……。それは天に輝く太陽に、自分の薄汚れたランプ小屋の灯りになれと、言っているのと同じことだ」
イザベラの一言一言が、氷の刃のように三人の心を切り刻んでいく。
「契約者様は」
今度はエルフのルミナが、静かに言葉を続けた。
「この世界の理を守る御方です。貴方たちのちっぽけな名誉欲のために、その尊いお時間を遣わせることなど、断じて許されません」
そして最後に。
王女セラフィーナが、悲しそうな、しかし決して揺るがない瞳で彼らに告げた。
「アラン様の居場所は、ここです。この穏やかで、平和な場所なのです。あの方のその大きすぎるお力を、自分たちの小さな欲望のために利用しようとお考えになるのは……もう、おやめくださいな」
三人の、アランを心から敬愛する女性たち。
彼女たちの言葉の壁。
それはゴードンたちが決して乗り越えることのできない、絶対的な断絶を示していた。
アランはもはや、自分たちの手の届く存在ではない。
彼は自分たちが全く知らない、遥か高みの世界で生きる人になってしまったのだ。
その残酷な事実を、彼らはようやく思い知らされた。
◇
「……まあまあ、みんな。そのくらいにしてあげなよ」
その重苦しい空気を破ったのは、やはりアランののんびりとした声だった。
彼は紅茶のカップを置くと、やれやれと肩をすくめた。
そして床にひれ伏したまま、完全に打ちのめされているかつての仲間たちを、見下ろした。
その瞳に宿っていたのは、
同情でも、軽蔑でも、怒りでも、喜びでもなかった。
ただ純粋な、面倒くさそうな、そしてほんの少しの呆れたような色だった。
彼は大きな、大きなため息を一つついて、
こう言い放った。
「……パーティーに戻るなんて、冗談じゃないよ。俺はもう、隠居したんだから」
その、あまりにもあっさりとした拒絶の言葉。
三人の肩が、びくりと震える。
アランは続けた。
その声はどこまでも、平坦だった。
「それにしても、君たちも大変だったんだな。まあ、自業自得みたいだけど」
そして彼は、少し首を傾げると。
まるで初めて会った他人を、思い出すかのように。
こう言った。
「……で、えーっと…………君たち、誰だっけ?」
「「「…………え?」」」
時が、止まった。
ゴードンの口が、半開きになる。
セラの瞳から、光が消える。
リナリアの嗚咽が、ぴたりと止まる。
忘れた?
自分たちのことを?
あれほど濃密な一年間を、共に過ごした自分たちのことを?
それは、どんな罵詈雑言よりも。
どんな復讐よりも。
残酷で、そして決定的な一撃だった。
彼らはこの男にとって、最早思い出す価値さえない、過去の些事でしかなかったのだ。
三人の、完全に心が折れる音が。
静かな居間に、響き渡った気がした。




