第24話:巡礼の果て
王都を離れて、一ヶ月が過ぎようとしていた。
かつて勇者パーティーと呼ばれた者たちの旅は、巡礼というには、あまりにも惨めなものだった。
彼らの乗る幌馬車は、主要街道を避け、人の往来の少ない裏道を選んで、ひたすら西を目指していた。
民衆の歓声に送られた、かつての栄光の旅路とは、何もかもが違った。
滞在するのは、埃っぽい安宿か、冷たい野営地。食事は、硬くなったパンと、干し肉だけ。人目を避けるように、彼らは、まるで罪人のように、旅を続けていた。
幌馬車の中からは、絶え間なく、勇者カイルの、苦痛に満ちた呻き声が聞こえてくる。
その度に、聖女リナリアは、自分の持てる限りの聖なる力で、彼の痛みを和らげようと試みる。だが、古代の呪いは、彼女の魔力を嘲笑うかのように、その勢いを衰えさせない。リナリア自身の顔にも、疲労と、魔力欠乏による青白い影が、深く刻まれていった。
彼らを襲うのは、カイルの呪いだけではなかった。
道中、彼らは、幾度となく、困難に見舞われた。
山道で、幌馬車の車輪が、ぬかるみにはまって壊れた時。かつてなら、戦士ゴードンが、その怪力で、馬車ごと持ち上げていただろう。だが、満足な食事も取れず、アランの支援魔法も失った彼の筋肉は、悲しいほどに、その力を失っていた。彼は、泥まみれになりながら、半日かけて、ようやく車輪を修理した。
森で、ゴブリンの小集団に襲われた時。かつてなら、魔法使いセラが、詠唱の一つで、焼き払っていたはずの雑魚。だが、彼女の、みすぼらしい樫の木の杖から放たれる魔法は、威力も、速度も、全盛期とは比べ物にならなかった。彼らは、命からがら、ほうほうの体で、その場を逃げ出した。ゴードンの腕には、ゴブリンの錆びた剣による、深い切り傷が、新たに刻まれた。
その度に、彼らは、思い知らされた。
自分たちが、いかに、無力であるか。
そして、自分たちが、いかに、あの男の、地味で、目立たない魔法に、守られていたのかを。
アランがいた頃は、車輪は決して壊れなかった。ゴブリンの奇襲など、起きることさえなかった。
旅とは、こんなにも、過酷なものだったのか。
彼らは、今更ながらに、その事実を、骨身に染みて、理解していた。
◇
西へ、西へ。
旅が進むにつれて、彼らは、奇妙な光景を、何度も、目の当たりにするようになった。
立ち寄った、小さな村。そこは、数ヶ月前まで、深刻な日照りに苦しんでいたはずの場所だった。だが、彼らが訪れた時、村の畑は青々と茂り、村人たちは、収穫の祭りの準備に、笑顔で追われていた。
「一体、どうしたんです?」
リナリアが、パンを分けてもらった老婆に尋ねると、老婆は、しわくちゃの顔を、さらに、くしゃくしゃにして、笑った。
「ありがてえことに、西におわす、聖者様のおかげでさあ!」
「聖者、様……?」
「ああ! 旅の商人から、ルナ村の聖者アラン様の噂を聞いてよぉ。村のみんなで、西の方角に向かって、お祈りしたんだ。そしたら、次の日、本当に、恵みの雨が降ったんだよ!」
その言葉に、幌馬車の中の三人は、顔を見合わせた。
言葉は、なかった。
ただ、気まずい沈黙が、重く、のしかかるだけだった。
さらに、西へ進むと、今度は、東へ向かう、賑やかな一団と、すれ違った。
裕福そうな商人や、旅の巡礼者たち。彼らは皆、一様に、幸福そうな、満ち足りた表情をしていた。
「おや、お前さんたち、西へ向かうのかい?」
商人の一人が、彼らに気さくに話しかけてきた。
「もしかして、ルナ村へ? いやあ、あそこは、本当に、地上の楽園だったぜ! どんな疲れも吹き飛ぶ『癒やしの湯』に、親切な村人たち。そして、何より……」
商人は、声を潜め、畏敬の念に満ちた瞳で、言った。
「……丘の上に住んでおられる、聖者アラン様にな。あのお方は、本物だ。帝国軍を、睨みつけただけで追い返したって噂は、本当だったぜ。そのくせ、少しも、威張ったところがなくて、まるで、ただの気のいい農夫のようなお方なんだ。俺みてぇな、しがない商人にまで、手作りのハーブティーを、振る舞ってくださってな……」
その言葉の一つ一つが、彼らの、もう、ほとんど残骸しか残っていないプライドを、鋭いガラスの破片のように、傷つけていく。
アランが、英雄として、聖者として、民に慕われている。
その、信じがたく、そして、認めたくなかった事実が、旅の終わりが近づくにつれて、動かしようのない現実として、彼らの目の前に、突きつけられていた。
◇
そして、ついに。
長かった、苦難の旅の果てに。
彼らは、目的の地である、ルナ村の入り口へと、たどり着いた。
幌馬車を降りた三人は、目の前に広がる光景に、絶句した。
彼らが、旅の道中で見てきた、荒涼とした、貧しい辺境の村々とは、全く、違う。
そこは、楽園、だった。
村全体が、温かく、清浄な気に、満ちている。畑の作物は、見たこともないほど、瑞々しく、生命力に溢れている。村のあちこちから、子供たちの、楽しげな笑い声が聞こえてくる。村人たちの顔には、何の憂いもなく、ただ、穏やかで、幸福な笑みが浮かんでいた。
村の中央を流れる小川からは、湯気が立ち上り、そのほとりには、簡素ながらも、清潔な湯治場が作られ、多くの人々が、その湯を楽しんでいる。
全てが、調和し、満ち足りている。
彼らは、 理解した。
この、奇跡のような光景の、全てが、たった一人の、あの青年によって、もたらされたものであることを。
みすぼらしい、旅の垢にまみれた、自分たちの姿。
絶望と、罪悪感に、その身を苛む、自分たち。
この、光に満ちた、聖域のような場所に、自分たちは、あまりにも、不釣り合いな存在だった。
「……ここ、なのか……」
ゴードンが、呆然と、呟く。
「……楽園、ですわ……」
セラの瞳から、涙が、一筋、流れ落ちた。それは、嫉妬でも、屈辱でもない。ただ、あまりにも、圧倒的な光景を前にした、純粋な感動の涙だった。
リナリアは、村の、その先を見つめた。
緑豊かな、小高い丘。
その頂上に、一軒の、石造りの屋敷が、静かに、佇んでいる。
あそこに、彼がいる。
自分たちが、裏切り、捨てた、あの人が。
そして、自分たちの、最後の、唯一の希望が。
リナリアの心臓が、恐怖と、羞恥と、そして、ほんの、ひとかけらの希望で、張り裂けそうに、高鳴った。
本当に、彼の前に、顔を出すことができるのか。
どんな、罵倒を、浴びせられるだろうか。
軽蔑の目で見られ、追い返されるだけなのではないか。
足が、鉛のように、重い。
だが、その時。
幌馬車の中から、ひときわ、大きな、カイルの、苦悶の呻き声が、聞こえてきた。
その声に、リナリアは、はっと、顔を上げた。
もう、迷っている、時間はない。
彼女は、自分の、頬を、強く、両手で叩いた。
そして、覚悟を、決めた。
彼女は、幌馬車から、よろよろと降りると、村の入り口に、その一歩を、踏み出した。
それは、聖女の、最後の、そして、最も、困難な巡礼の、最後の一歩だった。
彼女は、丘の上の屋敷を見据え、ただ、ひたすらに、その道を、歩き始めた。
自らが犯した罪を、その身に背負い、ただ、一つの奇跡を、乞うために。
彼女の、小さく、しかし、気高い背中を、ゴードンとセラが、言葉もなく、見守っていた。




