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第22話:勇者の最後の挑戦

王都が、救国の英雄『賢者アラン』の誕生に沸き立つ、その熱狂の片隅で。

忘れ去られた者たちは、どん底という名の暗闇で、最後の虚勢を張っていた。


「――依頼ランクA+、『呪われた沼地の魔将マーラコル討伐』。これだ。これさえ成功させれば、俺たちは……!」


ギルドの薄暗い片隅で、勇者カイルが、震える指で依頼書を指さした。

その顔は、借金を背負い、装備を売り払ってから、さらに憔悴し、不健康な光を宿した瞳だけが、ぎらぎらと燃えていた。


彼らの日常は、屈辱そのものだった。

勇者の肩書を名乗ることさえ憚られ、日銭を稼ぐために、駆け出しの冒険者が受けるような、スライム退治や害獣駆除の依頼をこなす日々。

そして、どこへ行っても聞こえてくる、あの忌まわしい名前。


「聞いたか? 聖者アラン様が、今度は干ばつの村を救ったらしいぜ」

「ああ、俺の故郷の村だ! 兄貴から手紙が来て、感謝しても仕切れないってよ!」


自分たちが追放した、あの無能な魔術師。

その男が、今や、自分たちが座るはずだった英雄の座に、悠々と座っている。

その事実を認めることができず、しかし、無視することもできない。嫉妬の炎は、彼らの心を内側から焼き尽くし、正常な判断力を奪っていた。


「正気なの、カイル!? あのマーラコルは、魔王軍の幹部の中でも、特に厄介な呪術の使い手よ! 王国騎士団でさえ、手をこまねいている相手ですわ!」


魔法使いのセラが、金切り声を上げる。彼女たちの装備は、なまくら同然。連携は、崩壊している。これでどうやって、魔王軍の幹部に挑むというのか。


「うるさい! 俺を誰だと思っている! 勇者だぞ!」

カイルが、怒鳴り返す。

「このまま、あの偽物アランの噂を聞きながら、ドブネズミのように生きていくくらいなら、俺は、戦って死ぬ方を選ぶ!」


それは、もはや、英雄の決意ではなかった。

破滅へとひた走る、ただの、破れかぶれの叫びだった。

戦士ゴードンは黙って顔を伏せ、聖女リナリアは、ただ静かに涙を流すだけ。

反対しても、無駄だ。今のカイルには、もはや、どんな言葉も届かない。

こうして、彼らは、自ら破滅の舞台へと、その足を踏み出した。



呪われた沼地は、生命の気配が希薄な、死の大地だった。

毒の瘴気が立ち込め、足元からは、亡者の手が伸びてくるかのような、不気味な霧が立ち上る。


彼らは、沼地の奥にある、崩れた古城――魔将マーラコルの本拠地へと、たどり着いた。

「……来たか、忘れられし者どもよ」


玉座に、一体の魔族が、肘をついて座っていた。

蛇のようにしなやかな身体、蝋のように白い肌、そして、全てを見透かすかのような、紅い瞳。魔王軍の参謀にして、魂を蝕む呪いの使い手、マーラコル。


「ふむ……噂に聞く、勇者パーティーか。随分と、みすぼらしい姿になったものだな」

その、嘲るような言葉に、カイルの血管が、ブチリと切れた。


「黙れ、魔族風情が! 俺が、真の英雄だということを、その身に教えてやる!」


雄叫びと共に、カイルが突進する。

だが、その動きは、あまりにも直線的で、あまりにも、読みやすかった。


「遅い」


マーラコルは、玉座に座ったまま、指を軽く弾いただけ。

すると、カイルの足元の沼から、無数の骸骨の腕が突き出し、彼の足に絡みついた。


「なっ……! くそっ!」

「ゴードン、援護を!」

「おう!」


ゴードンが、なまくらの戦斧を振りかざして突撃するが、彼の前に、粘液状の巨大なスライムが出現し、その動きを阻む。

「セラ! 魔法を!」

「ええい! 『ライトニング!』」


セラの放った雷撃が、マーラコルに……届く前に、空間に現れた不可視の魔力障壁に吸い込まれ、霧散した。

「そんな……!?」


彼らの攻撃は、全て、弄ばれているかのように、通用しない。

マーラコルは、心底、楽しそうに、その紅い瞳を細めた。


「哀れだな、勇者よ。貴様らの心は、嫉妬と焦りで、曇りきっている。そんな濁った魂では、私には勝てぬよ」

彼は、追い打ちをかけるように、最も残酷な言葉を、彼らに投げかけた。


「貴様らが、こんな辺境の沼地で、無様に足掻いている間に……世間は、新たな英雄に熱狂しているようではないか。『聖者アラン』、だったかな? 聞けば、貴様らの、元仲間だそうだな?」


「「「!?」」」


その言葉は、鋭い刃となって、彼らの心を、深く、深く、抉った。


「ああ、そうだ。お前たちのような、愚かな偽物を捨て、彼は、本物の英雄となった。民はお前たちを忘れ、彼を称える。歴史に名を残すのは、彼の方だ。お前たちは、ただ、英雄の輝かしい物語の、序章で捨てられた、惨めな道化に過ぎん!」


「う……うわあああああああ!」


侮辱と、目を背け続けてきた真実。

その二つを同時に突きつけられ、カイルの理性が、完全に焼き切れた。


「俺が! 俺こそが! 真の英雄だあああああ!」


彼は、骸骨の腕を力ずくで引きちぎると、聖剣にありったけの光を込め、狂乱のまま、マーラコルへと、最後の突撃を敢行した。



その、怒りと嫉妬だけに突き動かされた一撃。

それは、英雄の一撃には、ほど遠かった。


マーラコルは、玉座からゆっくりと立ち上がると、迫りくる聖剣の光を、まるで鬱陶しい虫でも払うかのように、片手で、いともたやすく、受け止めた。


「――終わりだ、偽物」


マーラコルの、もう片方の手が、黒紫色の、禍々しいオーラに包まれる。

彼は、その手を、がら空きになったカイルの胸に、そっと、触れさせた。


「英雄? 笑わせるな。貴様のような、嫉妬に狂った小僧に、相応しい傷を与えてやろう。決して癒えることのない、魂の傷をな」


「ぐ……あ……ああ……ああああああああああああああああああああああああっ!」


カイルの口から、この世のものとは思えぬ、絶叫が迸った。

彼の胸に、黒い紋様が、まるで呪いの刻印のように、浮かび上がる。それは、単純な物理的な傷ではない。生命力そのものを、根元から腐らせ、永遠に、激痛と絶望を与え続ける、古代の呪い。


聖剣が、カラン、と音を立てて、床に落ちる。

カイルは、白目を剥き、口から泡を吹きながら、その場に崩れ落ちた。


「カイル様!」


リナリアの悲鳴が、虚しく響く。

パーティーは、完全に、壊滅した。

マーラコルは、もはや虫の息となった彼らに、興味を失ったかのように、ふっと、その姿を闇の中へと消した。

「せいぜい、己の無力さを噛み締めながら、生き地獄を味わうがいい」

その、嘲笑だけを残して。



どうやって、あの魔境から逃げ出したのか、彼らは、覚えていなかった。

仲間を庇い、深手を負ったゴードン。魔力が尽き果て、倒れ込んだセラ。そして、リナリアは、ただ、ひたすらに、苦痛に身をよじるカイルの体を抱きしめ、涙を流し続けた。


彼らは、ボロボロの体を引きずり、数日かけて、王都へと帰還した。

そして、最後の望みを託し、王都で最も神聖な場所――大聖堂の門を、叩いた。


大聖堂の、最も清浄な、施療院の一室。

リナリアと、教会で最も位の高い、大司教が、必死の形相で、カイルに治癒魔法をかけ続けていた。


「おお、聖なる光よ! この者の苦しみを、取り除き給え!」


だが、無情にも、彼らが注ぐ聖なる光は、カイルの胸の呪いの紋様に触れた瞬間、まるで水と油のように弾かれ、霧散してしまう。それどころか、聖なる力に反発し、呪いは、さらにその勢いを増し、カイルの体を蝕んでいく。


「ぐ……ぎ……あああああ……!」

意識のないカイルの口から、苦悶の呻きが漏れる。


「だめだ……なんと、おぞましい呪いだ……」


大司教は、汗だくのまま、ついにその場に膝をついた。

「これは、我らの聖魔法が通用するような、生半可な呪いではない。遥か古代の、混沌そのものを編み込んだかのような、根源的な呪いだ……。もはや、我らの手には、負えん……」


その、絶望的な宣告。

リナリアの顔から、さっと、血の気が引いた。


「そ、そんな……! 何か、何か、手はないのですか!? 大司教様!」

彼女は、老聖職者の衣に、必死にすがりついた。

大司教は、苦悩に顔を歪めながら、記憶の糸を、手繰り寄せた。


「……古の伝承に、一つだけ……。このような、神代の呪いを解くことができるのは、それと同等か、それ以上の、神聖な力だけじゃ、と……」

「神聖な、力……?」

「うむ……。例えば、神々が流した涙から生まれたという、奇跡の泉……。あるいは、どんな病も癒し、死者さえも蘇らせるという、伝説の聖者の……」


聖者の。

その言葉が、リナEリアの心臓を、氷の矢のように、貫いた。


彼女の脳裏に、ここ最近、聞きたくなくても、嫌というほど耳にしてきた、あの噂が、鮮明に、蘇る。


――どんな病も癒すという、『奇跡の湯』。

――人々から、『聖者』と呼ばれ、崇められる、一人の魔術師。


その場所の名は、ルナ村。

そして、その聖者の名は――アラン。


リナリアは、愕然とした。

運命の、あまりにも、残酷な皮肉。

自分たちが、嫉妬し、見下し、そして、追放した、あの男。

今、愛する人を、この地獄の苦しみから救える可能性があるのは、世界で、ただ一人、彼しかいない。


「……ああ……」


リナリアの膝から、力が抜けた。

床に、ぽつり、と、一滴の涙が落ちる。

それは、絶望の涙か。

それとも、最後の希望に、すがる涙か。


彼女は、決意しなければならなかった。

自らの、砕け散ったプライドを、全て、捨て去り。

あの男の前に、膝をつき、許しを乞うことを。


勇者の、そして、聖女の、最後の挑戦が、今、始まろうとしていた。

それは、剣も、魔法も、通用しない、あまりにも、過酷な試練だった。

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