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第21話:伝説の誕生

アランたちが、魔法の丸太に乗ってルナ村へと帰還した時、空は美しい茜色に染まっていた。

「うん、約束通り、夕食には間に合ったな」


アランは満足げに頷くと、さっさと屋敷に入り、今日の夕食の献立について考え始めた。彼の頭の中では、帝国軍との一件は、既に「終わった面倒ごと」として、綺麗に処理されていた。


だが、彼と共に、歴史の転換点を目撃してしまった三人の少女たちは、違った。

彼女たちは、屋敷に戻ってきても、まるで夢の中にいるかのように、呆然としていた。言葉少なく、ただ、時折、アランの横顔を、畏れと、そして熱に浮かされたような瞳で見つめるだけだった。


(……見たか、イザベル。あれが、アラン様の、本当の御力……)

(ええ、セリア様。いえ……あれでも、まだ、ほんの戯れに過ぎないのかもしれません……)

(契約者様は、ただ、少しだけ、その存在を示されただけ。それだけで、世界は、かくも容易く動くのですわ……)


彼女たちの脳裏には、あの光景が、焼き付いて離れなかった。

ただ、そこにいるだけで、敵を屈服させる、絶対的な存在感。

ただ、いくつかの言葉を告げるだけで、十万の軍勢を潰走させる、神の如き威光。


アラン・フォン・クライネルト。

この、普段はハーブティーを淹れたり、畑仕事に精を出したりしている穏やかな青年が、ひとたびその気になれば、世界の法則さえも捻じ曲げる、超越者であるという事実。

その、あまりにも巨大なギャップに、彼女たちは、改めて、身震いするほどの畏敬の念を抱いていた。


「あれ? みんな、どうしたんだい? 疲れたなら、先にお風呂に入っておいでよ。今日は、森で採ってきた薬草を入れた、特製のお風呂だから」


アランの、どこまでも呑気な声。

その声を聞いて、三人は、はっと我に返った。

そして、顔を見合わせ、小さく、しかし、幸せそうに、微笑んだ。


この、とてつもない御方が、今、自分たちのためにお風呂の心配をしてくれている。

その、ありえないほどの奇跡。

彼女たちは、この御方の側にいられるという幸運を、改めて、心の底から噛みしめるのだった。



その頃、クライネルト王国軍、東部国境前線基地は、混乱の極みにあった。

数時間前まで、彼らは、死を覚悟していた。眼前に広がる、帝国の圧倒的な大軍勢。明日にも総攻撃が開始されれば、自分たちは、ここで玉砕するだろうと、誰もが思っていた。


だが、突如として、信じられない報告が、斥候から舞い込んだのだ。


「て、敵軍、撤退していきます!」

「馬鹿な! 何かの罠ではないのか!」

「いえ、それが……罠などという、統率の取れたものでは……。まるで、何かに怯えるように、我先に、と……潰走と言っていい状態です!」


司令官である老将軍は、すぐにはその報告を信じられなかった。だが、次々と入ってくる続報と、実際に遠眼鏡で確認した光景は、それが紛れもない事実であることを、彼に認めさせた。

帝国軍は、鎧も、攻城兵器も、食料さえも、その多くを放棄して、パニック状態で自国へと逃げ帰っていく。


一体、何が起きたのか。

天変地異か? 帝国で、クーデターでも起きたのか?

司令部が、情報の錯綜で大混乱に陥っている中、一人の、若い騎士が、震える声で報告を持ってきた。


「し、司令! 帝国軍の脱走兵を、数名、捕縛しました! 彼らが、奇妙なことを……!」


捕虜となった帝国兵たちは、誰もが、まるで悪霊でも見たかのように、怯えきっていた。彼らの証言は、支離滅裂で、ひどく断片的だった。


「……一人の、男が……」

「あれは、人ではない……神か、悪魔か……」

「将軍閣下が……あの『黒獅子』閣下が、その御方の前に、膝をつかれたのだ……!」

「その御方の、瞳を見ただけで……魂が、凍り付いた……」


これらの、恐怖に満ちた断片的な証言を、老将軍は、パズルのピースを組み合わせるように、繋ぎ合わせていった。

そして、一つの、にわかには信じがたい、しかし、それ以外には考えられない結論に、たどり着いた。


「……たった、一人の人間が……我が国の、この危機を、救ったというのか……?」


その、あまりにも途方もない報告は、一羽の軍鳩によって、すぐさま王都へと届けられた。



王都、王城。

宰相ダリウスと国王ウィルフレッドは、アランの元へ送る使節の人選について、最終的な協議を行っていた。

その、張り詰めた会議室の扉が、凄まじい勢いで開かれた。


「き、緊急報告! 東部国境より、緊急報告にございます!」


息を切らして駆け込んできた伝令兵から報告書を受け取ったダリウスは、その内容に、ゆっくりと目を通していく。そして、その老獪な宰相の、常にポーカーフェイスだった顔が、みるみるうちに、驚愕と、畏怖の色に染まっていった。


「……どうした、ダリウス」

「……陛下」


ダリウスは、震える手で、報告書を国王に差し出した。

「……どうやら、我らが使者を送る必要は、なくなったようでございます」

「なに?」

「帝国軍は……撤退いたしました。いえ……潰走、した、と」

「……原因は」

「……それが……」


ダリウスは、ごくり、と喉を鳴らした。

「……原因は、不明。ですが、前線の状況から、ただ一人の、神の如き力を持つ存在の、介入があったものと、推測される、と……」


その言葉に、会議室にいた全員が、息を呑んだ。

彼らの脳裏に、たった一人の、公爵家の三男坊の顔が、浮かんでいた。


ギルドからの報告。

諜報機関からの報告。

そして、今回の、前線からの報告。

全てが、繋がった。

彼らが、見捨て、忘れ去っていた青年は、彼らが議論している間に、たった一人で、この国の危機を、救ってしまっていたのだ。


「……我々は、とんでもない思い違いを、していたのかもしれんな……」


国王は、天を仰ぎ、そう呟くのが、精一杯だった。

彼らのアランに対する認識は、この瞬間、「都合のいい駒」から、「人知を超えた守護神」へと、完全に書き換えられた。



その頃、ゲルマニア帝国、帝都。

皇帝ウラジミールの執務室には、雷鳴の如き怒号が響き渡っていた。

彼の前には、遠征から逃げ帰ってきた、ガルヴァス将軍が、地に頭をこすりつけている。


「……言い訳は、それだけか、ガルヴァス」

「は……ははっ……! 申し訳、ございませぬ……! ですが、陛下! あれは、戦などという、次元では……! あれは、神罰そのものにございました!」


ウラジミールは、玉座から立ち上がると、震える将軍の前に立った。

だが、その瞳に宿っていたのは、怒りだけではなかった。冷徹なまでの、現実主義者としての、分析の色があった。


「……その男、アランとやら。詳しく、話せ。お前が見た、全てを」


ガルヴァスは、必死に、あの時の恐怖を語った。

ウラジミールは、黙って、それを聞いていた。そして、全てを聞き終えると、静かに、しかし、絶対的な命令を下した。


「……この度の遠征は、中止とする。全軍、国境より引き上げよ」

「へ、陛下!」

「そして、全諜報機関に伝えよ。クライネルト王国の辺境に住まう、『賢者アラン』。この男に関する、全ての情報を収集せよ。ただし、絶対に、いかなる手段をもってしても、彼を、刺激するな。これは、帝国における、最優先、最高機密事項とする」


鉄血帝と呼ばれ、恐れられた男が、初めて見せた、「恐怖」。

アランの名は、この日を境に、ゲルマニア帝国において、決して触れてはならない、禁忌の存在となった。


そして。

クライネルト王国では、この、信じがたい奇跡が、瞬く間に、民衆の間に広まっていた。

恐怖に震える帝国兵の、断片的な証言。

それらが、人々の口から口へと伝わるうちに、尾ひれがつき、脚色され、やがて、一つの、誰もが分かりやすい、力強い「伝説」へと、昇華されていった。


「――なあ、聞いたか? 帝国軍が、逃げ帰ったらしいぜ!」

「ああ! なんでも、たった一人の英雄が、敵の将軍の前に現れてよぉ……」

「その英雄が、ギロリ、と睨みつけただけで、十万の兵士が、恐れおののいて、武器を捨てて逃げ出したって話だ!」


『英雄アラン、帝国軍の前に単身現れ、睨むだけで、その十万の軍勢を退ける』


この、シンプルで、あまりにも途方もない伝説が、王都の酒場から、辺境の農村まで、燎原の火の如く、駆け巡っていった。

クライネルト王国は、救国の英雄の誕生に、沸き立っていた。


そして、その伝説の中心人物は。

「へええ。アラン? 俺と同じ名前だなあ」

村にやってきた行商人から、その噂話を聞かされ、のんきに相槌を打っていた。

「睨んだだけで、軍が退くなんて、すごいな。よっぽど、人相の悪い奴だったんだろうなあ」


彼は、その英雄が、自分自身のことであるとは、全く、これっぽっちも、気づいていなかった。

世界が、自分を中心に回っていることなど、露知らず。

彼の頭の中は、先ほど完成した「光る苔ランプ」の、より効率的な量産方法のことで、いっぱいだった。

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