第20話:神々の対話
「うわああぁぁ……なんつーか……すっごい、面倒くさそう……。これ、絶対、昼寝の時間、潰れるやつじゃん……」
眼下に広がる、絶望的なまでの帝国軍の大軍勢。
世界の命運を左右するであろう、その光景を前にして、人類の最後の希望たる男が放ったのは、英雄の決意とは似ても似つかぬ、どこまでも個人的で、切実な嘆きだった。
セラフィーナ、イザベラ、ルミナの三人は、そのあまりにも場違いな呟きに、一瞬、思考が停止した。
だが、彼女たちの優秀すぎる勘違い回路は、即座にその言葉を、神の深遠なる御心として再解釈した。
(『昼寝の時間』……! それは、アラン様がこの世界と調和し、その平穏を維持するための、神聖な儀式……! 帝国軍の存在は、その世界の理そのものを乱す、許されざる不協和音なのだわ……!)
セラフィーナは、アランの言葉の裏に隠された、宇宙規模の憂慮を(勝手に)感じ取っていた。
「さて、と。じゃあ、ちょっと行って、お話してくるか」
アランは、まるで近所の家に醤油を借りに行くかのような気軽さで、そう言うと、一人で山を降り始めた。
「「「!?」」」
その、あまりにも無防備な行動に、三人の少女は我に返った。
「お、お待ちください、アラン様! 単独で乗り込むなど、あまりにも危険です!」
セラフィーナが、悲鳴に近い声を上げる。
「アラン殿! 我々が露払いを! せめて、敵陣までの道筋だけでも、この剣で!」
イザベラが、慌てて後を追う。
「契約者様! 森の精霊たちが、貴方様の御身を案じております! どうか、我らにもお供する栄誉を!」
ルミナも、風のように彼の後を追った。
だが、アランは、鬱陶しそうに、ひらひらと手を振っただけだった。
「いや、大丈夫だから。人が多い方が、かえって面倒くさいし」
その言葉は、彼女たちの耳には届かない。アラン様が、我々の身を案じて、危険な場所に近づけまいとしてくださっているのだ。なんというお心遣い。だが、我々も、アラン様をお守りする盾となるのだ。三人の心は、完全に一つになっていた。
結局、アランを先頭に、三人が数メートル後ろを固めるという、奇妙な布陣で、彼らは帝国軍の陣地へと向かうことになった。
◇
ゲルマニア帝国軍の陣地は、鉄と魔力で固められた、難攻不落の要塞だった。
数十メートルおきに、高度な魔法障壁が張り巡らされ、訓練された魔狼が唸り声を上げ、隠された見張り台からは、エルフにも劣らぬ目を持つ斥候が、常に周囲を監視している。
だが、その鉄壁の防衛網は、アランという規格外の存在の前では、まるで存在しないも同然だった。
アランが、魔法障壁のすぐそばを通りかかる。
すると、複雑なルーン文字で構成された障壁が、バチバチ、と青白い火花を散らしたかと思うと、まるでショートしたかのように、ぷすん、と音を立てて消滅した。
アランの身体から無意識に放出される、あまりにも濃密で、純粋なマナの奔流が、脆弱な現代魔法の術式を、根元から無力化してしまったのだ。
(ん? 何か、今光ったか? まあいいか)
アランは、全く気づいていない。
次に、魔狼の群れが、侵入者の匂いを嗅ぎつけ、牙を剥いた。
だが、アランの姿を視界に捉えた瞬間、魔狼たちは「キャン!」と、子犬のような悲鳴を上げると、尻尾を股の間に挟み、我先にと犬小屋の奥へと逃げ込んでしまった。
生物としての本能が、目の前の存在が、決して敵対してはならない、食物連鎖の頂点――いや、その理の外側にいる「何か」であることを、瞬時に理解したのだ。
見張り台の斥候たちは、もっと悲惨だった。
アランの姿を捉え、警報の角笛を口に当てた瞬間、まるで巨大な山が、自分たちに向かって倒れかかってくるかのような、圧倒的なプレッシャーに襲われた。呼吸が止まり、意識が遠のく。彼らは、角笛を吹くことも、声を上げることさえできずに、その場にへたり込んでしまった。
アランは、ただ、歩いているだけ。
だが、その後方で、その一部始終を目撃していた三人の少女たちは、戦慄していた。
(……信じられない。アラン様は、何もしていない。ただ、そこに存在するだけで、帝国の誇る防衛網が、まるで砂の城のように崩れていく……!)
イザベラの背筋を、冷たい汗が伝う。
(これこそが、真の覇者の行軍……! 威圧でも、魔力でもない。存在そのものが、世界の法則を書き換えているのだ……!)
◇
アランは、まるで無人の野を行くかのように、悠々と陣地の中心部へと進んでいった。
彼の周囲だけ、奇妙な静寂が生まれている。兵士たちは、彼の姿を見ているはずなのに、誰一人として、声をかけようとしない。ただ、本能的な恐怖に、その場に凍りついているだけだった。
やがて、アランは、一際大きく、豪奢な装飾が施された、指揮官のものと思われる天幕の前にたどり着いた。
彼は、何の躊躇もなく、その入り口の垂れ幕を、ひょい、と捲った。
「あのー、すみません。ここが一番偉い人のいるとこで、あってます?」
天幕の中には、厳つい顔つきの将軍と、その側近たちが、巨大な作戦地図を囲んでいた。
帝国の誇る猛将、『黒獅子』の異名を持つ、ガルヴァス将軍。その人だった。
「な、何者だ、貴様は! 衛兵! 衛兵は何をしておるか!」
ガルヴァスが、驚きと怒りに満ちた声で叫ぶ。
その声に応え、天幕の中に控えていた、将軍直属の親衛隊が、一斉に剣を抜いた。彼らは、帝国の中でも選び抜かれた、一騎当千の猛者たちだ。
だが。
彼らは、剣を抜いた、その姿勢のまま、ぴくり、とも動けなくなった。
まるで、全身が鉛の塊になったかのように、体が重い。呼吸が苦しい。目の前の、何の変哲もない青年の姿が、なぜか、天を突く巨人に見える。
アランは、自分に向けられた剣先と殺気に、少しだけ、眉をひそめた。
(うわあ、いきなり物騒だなあ。話を聞く気、ないのかな、この人たち)
その、ほんのわずかな苛立ちが、彼から漏れ出す魔力の圧力を、ほんの少しだけ、増大させた。
バキッ!
親衛隊の一人が持っていた魔法剣が、その圧力に耐えきれず、甲高い音を立てて砕け散った。
「ひっ……!」
その、ありえない現象を目の当たりにして、猛者たちの顔から、完全に血の気が引いた。
アランは、そんな彼らの様子にため息をつくと、本題に入った。
これが、彼が言うところの『お話』だった。
「単刀直入に言いますけど」
彼は、ガルヴァス将軍をまっすぐに見つめた。
「あなたたち、ちょっと、うるさいんですよ。平和な村の、すぐ近くで、騒がれるのは、迷惑です」
「なっ……」
「あと、その、テントとか、いっぱい立ててるでしょ。あれ、景観を損なうんで、やめてほしいんですよね」
「……」
「というわけで、悪いんですけど、今日のところは、お片付けして、お家に帰ってもらえませんか? 俺、そろそろ、昼寝がしたいんで」
淡々とした、あまりにも、場違いな要求。
だが、その言葉の一つ一つが、ガルヴァス将軍の耳には、神の最終通告のように響いていた。
『貴様らの存在そのものが、この世界の平穏を乱す、不協和音だ』
『貴様らの穢れた軍勢は、この聖なる地の景観を汚している』
『我が眠りを妨げるという罪の重さを知れ。今すぐ、この地から消え失せろ。これが、最後の慈悲だ』
ガルヴァスの、歴戦の猛者としての本能が、絶叫していた。
勝てない。
戦うことすら、許されない。
目の前にいるのは、人間ではない。天変地異そのものだ。これは、戦争ではない。ただの、一方的な、裁きなのだ、と。
「……ぐ……ぬ……」
ガルヴァスは、最後のプライドで、ベルトに下げていた、皇帝陛下から賜ったという、最高位の防御魔道具を起動させようとした。
だが、彼が魔道具に魔力を込めた瞬間。
パリンッ!
宝石は、まるで安物のガラス玉のように、粉々に砕け散った。
「あ、危ないなあ。安物は、すぐ壊れるから、気を付けた方がいいですよ」
アランが、親切心から、そう言った。
その、悪意のない、あまりにも無邪気な言葉。それが、ガルヴァスの心を、完全に折った。
(……ああ。そうだ。我々が、どれだけ武を磨き、どれだけ魔導を極めようと、この御方の前では、全てが、安物の玩具に過ぎないのだ……)
ガクン、と。
『黒獅子』と呼ばれた猛将の膝が、力なく、折れた。
彼は、その場に両膝をつき、床に額をこすりつけた。
「……お、お許しください……! 我々の、愚かな行いを、どうか……! た、ただちに! ただちに、全軍、撤退させます! ですから、どうか、この命だけは……!」
その、あまりにも情けない姿を見て、側近たちも、親衛隊も、我先にと、その場にひれ伏した。
アランは、その光景を、ぽかん、と見つめていた。
(あれ? 話、通じた? 意外と、物分かりのいい人たちだったな)
「そうですか。なら、よかった。じゃあ、そういうことで、よろしく」
彼は、用は済んだとばかりに、あっさりと背を向けると、入ってきた時と同じように、ひょい、と天幕から出て行った。
彼が去った後、天幕の中には、死の淵から生還した男たちの、荒い呼吸だけが残されていた。
◇
「……終わった、みたいだね」
「ああ、お疲れ様。じゃあ、帰ろうか」
アランは、まるで村の寄り合いにでも参加してきたかのような気軽さで、彼を待っていた三人の元へと戻ってきた。
三人の少女たちは、言葉もなかった。
遠目から、しかし、その異常な光景の全てを、彼女たちは目撃していたのだ。
ただ、歩くだけで、鉄壁の防衛網を無力化し。
ただ、そこにいるだけで、帝国の猛者たちを凍りつかせ。
そして、ただ、いくつかの言葉を告げただけで、あの傲岸不遜な『黒獅子』ガルヴァスを、地に膝をつかせた。
(……あれが、『対話』。言葉を、武器よりも鋭く、魔法よりも強く行使する、神々の対話……)
セラフィーナは、アランの背中に、かつて、建国神話に描かれていた、初代国王の姿を重ねていた。
「すごい……! さすがです、アラン殿……!」
イザベラは、もはや、賞賛の言葉さえ、陳腐に聞こえた。
「契約者様の御前では、帝国の覇道など、赤子の戯れに等しいのです」
ルミナは、当然のこととして、静かに頷いた。
その直後。
帝国軍の陣地から、けたたましい撤退の角笛の音が、鳴り響いた。
それは、統率の取れた戦略的撤退などではなかった。誰もが、我先に、と、あの恐ろしい場所から逃げ出そうとする、恐慌状態の潰走だった。
「よし、これで、静かになるな」
アランは、その光景を満足げに眺めると、一つ、大きなあくびをした。
「さて、と。約束通り、夕食までには帰れそうだ。今日の晩御飯、何かなあ」
一人の青年の、どこまでも個人的な平穏への渇望が、今、十万の軍勢を退け、一つの国を滅亡の危機から救った。
そして、「賢者アラン、帝国軍の前に単身現れ、睨むだけで、その十万の軍勢を退ける」。
この、新たな、そして、あまりにも途方もない伝説が、世界を駆け巡ることになるのを、当の本人は、まだ、知る由もなかった。
彼の頭の中は、今夜の夕食のことで、いっぱいだった。




