第2話:辺境の村へ
嘆きの渓谷を後にしてから、三週間が経っていた。
俺、アラン・フォン・クライネルトは、王都へ向かう主要街道を早々に外れ、乗り合いの幌馬車をいくつも乗り継ぎながら、ひたすら王国の西の果てを目指していた。
もちろん、実家であるクライネルト公爵家には一切連絡を入れていない。追放されたなどと報告すれば、面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。父は家の名誉のために俺を勘当するか、あるいは勇者パーティーに猛抗議をするかのどちらかだろう。どちらに転んでも、俺が望む静かな生活からは遠ざかる。
勇者カイルたちにしても、公爵家からの報復を恐れて、俺の追放を公にはしないはずだ。おそらく「一身上の都合により離脱した」とでも報告するに違いない。それでいい。俺はもう、彼らとも、公爵家とも、貴族社会のしがらみとも関わるつもりはなかった。
「お客さん、次の街で終点だよ。ここから先は、馬車も日に一本あるかないかの寂しい土地だ」
御者が、埃っぽい道を見ながら言った。
「ええ、構いません。そこで降ります」
馬車を降り、小さな宿で一泊した後、俺は残りの道のりを歩いて進むことにした。目的地は、クライネルト公爵家が領有する土地の中でも、最も辺鄙で、最も価値がないとされる場所。父が五年前に亡くなった俺の祖母の遺産として、半ば押し付けるように相続させた土地だ。
その名も、ルナ村。
王都からは馬車を乗り継いでも一ヶ月近くかかる。周囲に特産品はなく、豊かな森といくつかの丘、そして小さな川が流れるだけの、地図にも小さく記されているだけの村。
税収もほとんど期待できないその土地は、貴族社会では「厄介払い」の代名詞のような場所だった。
だが、俺にとっては、そこが約束の地だった。
数日歩き続け、街道から外れた獣道を進んでいくと、不意に視界が開けた。
眼下に広がるのは、なだらかな丘陵に囲まれた、小さな集落。赤茶色の屋根が十数軒、申し訳程度に固まっている。畑は小さく、行き交う人の姿もまばらだ。大きな建物といえば、村の中央にある小さな教会くらいのものだろう。
「……ここか」
思わず、笑みがこぼれた。
寂れている。活気がない。そして何より、静かだ。
これほどまでに、俺の理想に合致した場所が他にあるだろうか。
俺は丘を下り、村の入り口へと足を踏み入れた。土を固めただけの道を進むと、畑仕事をしていた村人たちが、訝しげな視線を向けてくる。無理もない。高価ではないが、仕立ての良い旅装束に身を包んだ俺のような若者は、この村ではひどく浮いて見えるだろう。
軽く会釈を返しながら、俺は村の奥へと進む。目指すは、村外れの小高い丘の上に立つ一軒の屋根。あれが、俺が相続した屋敷のはずだ。
「あの、旅の方ですか?」
背後から、遠慮がちな声がかけられた。振り返ると、腰の曲がった白髪の老人が、鍬を片手に立っていた。この村の村長だろうか。
「ええ、まあ。今日から、この村に住むことになった者です」
「住む……? この村にかね?」
老人は、信じられないといった様子で目を丸くする。無理もない。ここ数十年、この村から出ていく者はいても、入ってくる者などいなかったのだろう。
「丘の上の屋敷……昔、領主様の奥方が使っておられた別荘ですな。あそこを相続された、新しい領主様、でございますか?」
「いや、領主だなんて、そんな大層なものじゃないですよ」
俺は慌てて首を振った。面倒ごとは、徹底的に避けなければならない。
「俺の名前はアラン、とだけ。ただの隠居した魔術師です。訳あって都会の喧騒を離れ、静かに暮らせる場所を探していたんです。どうか、ただの村人の一人として、扱ってください」
「はあ……魔術師様、でございますか」
老人はまだ半信半疑のようだったが、俺が尊大な態度を取らないことに少し安堵したようだった。
「わしはこの村の村長をしております、ギベオンと申します。何分、何もない村ですが……どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます、ギベオンさん。よろしくお願いします」
穏便に話が済みそうで、心の中でガッツポーズをする。第一関門は突破だ。
村長と別れ、坂道を上っていくと、目的の屋敷が見えてきた。
石造りの、こぢんまりとした二階建ての館。蔦が壁の半分を覆い、庭は雑草が生い茂っている。だが、建物の造り自体はしっかりしており、祖母が使っていた頃の気品がそこはかとなく漂っていた。
「……いいじゃないか」
錆び付いた鍵で扉を開けると、ひんやりとした空気が俺を迎えた。中は埃っぽく、家具には全て白い布がかけられている。だが、窓から差し込む光が、この場所の心地よさを教えてくれた。
一階は、暖炉のある居間と厨房、そしていくつかの小部屋。二階は寝室と……そして、一番奥に、俺が最も期待していた部屋があった。
書斎だ。
三方の壁が、床から天井まで届く本棚で埋め尽くされている。そのほとんどは空だったが、中央の大きな机と、革張りの椅子はそのまま残されていた。窓の外には、静かな森が広がっている。
「最高だ……」
思わず、声が漏れた。
ここが、今日から俺の城になる。俺だけの、聖域だ。
俺は早速、懐から羊皮紙の巻物と羽ペンを取り出し、書斎の机を布で拭いてから広げた。
これから始まる、夢のスローライフ。そのための計画を立てなければならない。
『アランのスローライフ計画書』
俺は、胸を躍らせながら、インク壺にペンを浸した。
一、身分と過去の隠匿
まず、最優先事項だ。クライネルト公爵家の三男であることも、元勇者パーティーの一員であることも、完全に封印する。ここでは、俺はただの「アラン」。静かに暮らしたいだけの、しがない魔術師だ。幸い、村の人たちも俺の素性を詮索するようなタイプではなさそうだ。これは徹底しなければならない。
二、生活環境の整備
この屋敷は宝の山だ。まずは徹底的に掃除をする。次に、荒れ放題の庭。雑草を抜き、土を耕し、家庭菜園を作る。育てるのは、ハーブや薬草、それから簡単な野菜。自給自足の生活は、男のロマンというやつだ。古代魔法の『豊穣』のルーンでも刻んでおけば、すぐに育つだろう。
三、食料と生活必需品の確保
家庭菜園だけでは足りないだろう。屋敷の裏に広がる森は、まさに天然の宝庫のはずだ。食用のキノコや山菜、果実などを探しに行こう。狩りは……少し面倒だが、必要なら罠くらいは仕掛けてもいい。川で魚を釣るのも悪くない。生活必需品は、月に一度くらい、麓の街まで買い出しに行けばいいだろう。
四、村人との関係
孤立するのは得策ではない。かといって、深く関わりすぎるのも面倒だ。付かず離れず、穏やかな関係を築くのが理想だ。挨拶を交わし、たまに森で採れたものを少しお裾分けする。それくらいの距離感がいい。村の行事などがあれば……まあ、それはその時に考えよう。
五、そして、最も重要なこと
俺は計画書の最後に、大きく、はっきりとした文字で書き記した。
『古代魔法の研究に、心ゆくまで没頭すること』
これだ。これこそが、俺が本当に望んでいたこと。
勇者パーティーにいた頃は、戦闘に役立つ魔法ばかりを優先させられ、純粋な知的好奇心を満たすための研究など、夢のまた夢だった。
だが、今は違う。この静かな書斎で、誰にも邪魔されずに、失われた魔法の真理を探求できる。古代文明の謎、マナの根源、世界の理……。考えただけで、胸が熱くなる。
幸い、実家から持ち出してきた数冊の貴重な古文書が、カバンの中に入っている。まずは、これを解読することから始めよう。
「ふふっ……ふふふ……」
思わず、笑いが込み上げてくる。
計画書を眺め、完璧なプランに一人で満足していると、窓の外から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。窓枠に肘をつき、外を眺める。
数人の子供たちが、村の広場で走り回っていた。その中に、茶色い髪を二つに結んだ、快活そうな女の子がいる。洗濯物を取り込んでいた母親に何かを話しかけている。母親は困ったような顔で空を見上げていた。
「……そういえば、ここ数週間、雨が降っていないな」
何気なく、そう思った。井戸の周りでも、女たちが深刻そうな顔で何かを話している。
まあ、俺には関係のないことだ。俺がまずやるべきは、この屋敷の掃除と、飲み水の確保だ。幸い、屋敷の裏手には小さな井戸がある。水質さえ問題なければ、当分は困らないだろう。
俺は計画書を丁寧に畳むと、意気揚々と袖をまくった。
まずは、この埃っぽい聖域を、世界で一番快適な場所に変えることからだ。
「さあ、始めようか」
追放から始まった、俺の新しい人生。
それは、絶望とは無縁の、希望と自由に満ち溢れた理想の生活の幕開けだった。
この時の俺は、自分の些細な行動が、この静かな村を、やがては王国全体を巻き込む壮大な『勘違い』の渦へと誘うことになるなど、知る由もなかった。




