第18話:王女の願い
王都の喧騒から遠く離れた、辺境のルナ村。
そこには、今やクライネルト王国の最高機密事項となった男、アランを巡る、奇妙で穏やかな共同体が形成されていた。
「アラン様、見てください! 森の奥に、こんなに綺麗な水晶が!」
「おお、それは蛍石だね、リリアさん。光を蓄える性質があるから、夜にはぼんやり光るんだよ」
「まあ、素敵! アラン様は何でもご存知なのですね!」
村娘のリリアは、すっかりアランに懐いていた。彼と一緒に森を散策し、彼の語る植物や鉱物の知識を聞くのが、彼女にとって何よりの楽しみだった。
「契約者様。森の木々が、貴方様の御髪に触れたがり、ざわめいております」
「え? ああ、風が強いだけじゃないかな、ルミナさん」
エルフのルミナは、アランの一挙手一投足に、森羅万象との交信を見出し、その度に深い感銘を受けていた。
そんな彼らの様子を、王女セラフィーナと騎士イザベラは、屋敷のテラスから、微笑ましく、そして感慨深く眺めていた。
「イザベル。ここに来て、本当によかったと思いますわ」
「……はい、セリア様。貴方様のそのお元気な姿を見られるだけで、私も……感無量です」
セラフィーナの言葉に、イザベラは静かに頷いた。主君の命を救い、心からの笑顔を取り戻してくれたこの場所と、その中心にいる青年アラン。彼に対する感謝の念は、いくら言葉を尽くしても足りなかった。
このまま、時が止まればいい。
誰もが、そう願っていた。
だが、彼らのささやかな平穏を脅かす、戦争の足音は、確実に、すぐそこまで迫っていた。
◇
その日の午後、一羽の光の鳥が、ルナ村の上空を舞い、セラフィーナの腕にそっと舞い降りた。エリュシア王家が使う、緊急用の魔法通信。その鳥が運んできた報せは、彼女たちの穏やかな日常に、冷水を浴びせるものだった。
『――ゲルマニア帝国、クライネルト王国東部国境に大軍を集結。侵攻は、もはや時間の問題。我が国としても、クライネルトの崩壊は看過できぬ。かの地の賢者アラン殿の意向と、その御力について、セラフィーナ、汝の見解を至急求む』
父であるエリュシア国王からの、簡潔だが、極めて重い内容の親書だった。
「……やはり、最悪の事態になりましたか」
報告を読み終えたイザベラが、厳しい表情で呟く。
「ゲルマニア帝国が本気になれば、クライネルト王国が持ちこたえるのは、難しいでしょう。そして、クライネルトが落ちれば、次に帝国の牙が向くのは、我がエリュシア……」
だが、セラフィーナの心にあったのは、国家間のパワーバランスという、冷徹な計算だけではなかった。
彼女の脳裏に浮かんだのは、このルナ村の、穏やかな風景だった。リリアの屈託のない笑顔、ギベオン村長の優しい眼差し、そして、畑の作物を愛おしそうに眺める、アランの横顔。
戦争が始まれば、この全てが、蹂躙される。
彼女に生きる喜びを教えてくれた、この温かい場所が、炎と悲鳴に包まれる。
そして何より、自らの平穏を、誰よりも大切にしているあの人が、そのスローライフを、根こそぎ奪われることになる。
(それだけは……! それだけは、絶対にあってはならない……!)
「イザベル」
セラフィーナは、決意を秘めた瞳で、忠実な騎士の名を呼んだ。
「わたくしは、決めました。アラン様に、お願いするのです。この国を、救ってほしい、と」
その言葉に、イザベラは、はっと息を呑んだ。
「セリア様……しかし、それは……。アラン殿は、面倒事を、何よりも嫌っておられる。彼に、世界の趨勢を左右するような大役を背負わせるのは、あまりにも酷では……」
イザベラの言う通りだった。
アランの力は、絶対だ。彼がその気になれば、帝国の十万の軍勢など、一夜にして塵芥と化すだろう。
だが、その力を行使させることは、彼の望む生き方――ただ静かに、穏やかに過ごしたいという、ささやかな願いを、根本から否定することに繋がる。
「わかっていますわ」
セラフィーナの声は、震えていた。
「わたくしは、恩人であるあの方に、最も残酷な願い事をしようとしている。この上なく、利己的で、身勝手な行いであることも、理解しています」
それでも、彼女は、引くわけにはいかなかった。
「ですが、イザベル。わたくしは、見たくないのです。あの方の、あの優しい人が、その聖域であるこの村を焼かれ、悲しみにくれる姿を。それを見るくらいなら、わたくしは、彼に嫌われることを覚悟の上で、お願いする道を選びます」
それは、一人の王女としての、そして、アランに救われた一人の女性としての、悲痛な決意表明だった。
イザベラは、もはや何も言えなかった。ただ、静かに頭を下げ、主君の覚悟に寄り添うことしかできなかった。
◇
その時、アランは、自作の書斎で、新たな発明に没頭していた。
ルミナが森から持ってきた光る苔を、ガラス瓶に詰め、少量の魔力を与えることで、半永久的に明かりを灯し続ける、エコなランプ。
「うーん、光の明滅が、まだ少し不安定だな。魔力の定着率を上げるには、触媒として、別の鉱石を混ぜるべきか……」
彼が、世界の危機など露知らず、極めて平和で、文化的な悩みに没頭していると、書斎の扉が、遠慮がちにノックされた。
「アラン様。今、少しだけ、よろしいでしょうか」
入ってきたのは、いつになく、神妙な面持ちのセラフィーナだった。その後ろには、イザベラも、硬い表情で控えている。
「やあ、セリアさん。どうしたんだい、そんなに真剣な顔をして」
アランは、いつもの調子で、にこやかに彼女を迎えた。
だが、セラフィーナは、微笑み返すことができなかった。彼女は、ゆっくりとアランの前に進み出ると、まるで祈りを捧げるかのように、彼の前に深く、深く、頭を下げた。
「アラン様。本日は、貴方様に、決して許されぬであろう、身勝手な願いがあって、参りました」
その、ただならぬ雰囲気に、アランも、さすがに首を傾げた。
「……願い? 俺にできることなら、何でも言ってくれて構わないけど」
「ありがとうございます。……では、単刀直入に、申し上げます」
セラフィーナは、顔を上げ、アランの瞳を、まっすぐに見つめた。
「今、このクライネルト王国は、隣国ゲルマニア帝国による侵略の危機に瀕しております。おそらく、数日のうちに、国境で大規模な戦争が始まるでしょう。そうなれば、多くの民が傷つき、そして、このルナ村の平穏も、いずれは失われてしまいます」
アランは、黙って聞いていた。
(戦争……。うわあ、最大級に、面倒くさいやつだ……)
彼の頭の中を、スローライフとは対極にある、あらゆる厄介事が駆け巡った。
物資の不足。難民の流入。徴兵。そして何より、騒音。彼の静かな研究と、穏やかな昼寝の時間を、根こそぎ奪い去る、最悪の災厄。
セラフィーナは、アランの表情が、わずかに曇ったのを見逃さなかった。
だが、彼女は、それを、彼の慈悲深さゆえだと、勘違いした。
(ああ……アラン様は、まだ見ぬ民の苦しみに、その優しい心を、痛めておられるのだわ……!)
彼女は、意を決して、最後の願いを口にした。
その声は、震えていたが、決して、揺らいではいなかった。
「わたくしの、身勝手な願い……それは……」
「……アラン様。どうか、貴方様の、その計り知れない御力で、この国を、救っていただけないでしょうか」
静寂が、書斎を支配する。
それは、禁断の願いだった。彼の平穏を、自らの手で終わらせる、裏切りの言葉。セラフィーナは、アランからのどんな罵倒も、軽蔑も、受け入れる覚悟だった。
彼女の後ろで、イザベラも、そして、いつの間にか書斎の入り口に立っていたルミナも、固唾を飲んでアランの答えを待っていた。
アランは、腕を組み、うーん、と唸った。
彼の頭の中では、天秤が、激しく揺れ動いていた。
【選択肢A:介入する】
メリット:戦争が早期に終結し、比較的早く、静かな日常に戻れるかもしれない。
デメリット:めちゃくちゃ面倒くさい。目立つ。さらに厄介事を引き寄せる可能性、大。
【選択肢B:介入しない】
メリット:何もしなくていいので、楽。
デメリット:戦争が長引き、いずれ、この村にも戦火が及ぶ。そうなれば、畑は荒らされ、家は焼かれ、スローライフは、完全に、未来永劫、失われる。
……結論は、明らかだった。
アランは、深いため息を、一つ、吐き出した。
それは、彼のスローライフの、一時的な中断を惜しむ、諦念のため息。
「はああぁぁ……。戦争は、嫌いなんだがな……」
彼は、ぼりぼりと頭を掻きながら、言った。
「畑が荒らされるのは、もっと嫌だ。……仕方ない。面倒だが、ちょっと、片付けてくるか」
その、あまりにも軽い、まるで、庭の草むしりにでも行くかのような口調。
だが、その言葉を聞いた三人の少女たちの目には、みるみるうちに、涙が溢れ出した。
「「「……アラン様……!!」」」
彼女たちの耳には、彼の言葉が、こう聞こえていた。
『我が身の平穏を犠牲にしてでも、民の苦しみを見過ごすことはできない。この身、この力を、世界のために使おう』
と。
一人の青年の、どこまでも個人的で、怠惰な理由から下された決断が、今、救国の英雄の、 決断として、歴史に刻まれようとしていた。
クライネルト王国の、そして、世界の運命が、大きく動き出した瞬間だった。




