表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/30

第18話:王女の願い

王都の喧騒から遠く離れた、辺境のルナ村。

そこには、今やクライネルト王国の最高機密事項となった男、アランを巡る、奇妙で穏やかな共同体が形成されていた。


「アラン様、見てください! 森の奥に、こんなに綺麗な水晶が!」

「おお、それは蛍石だね、リリアさん。光を蓄える性質があるから、夜にはぼんやり光るんだよ」

「まあ、素敵! アラン様は何でもご存知なのですね!」


村娘のリリアは、すっかりアランに懐いていた。彼と一緒に森を散策し、彼の語る植物や鉱物の知識を聞くのが、彼女にとって何よりの楽しみだった。


「契約者様。森の木々が、貴方様の御髪に触れたがり、ざわめいております」

「え? ああ、風が強いだけじゃないかな、ルミナさん」


エルフのルミナは、アランの一挙手一投足に、森羅万象との交信を見出し、その度に深い感銘を受けていた。


そんな彼らの様子を、王女セラフィーナと騎士イザベラは、屋敷のテラスから、微笑ましく、そして感慨深く眺めていた。


「イザベル。ここに来て、本当によかったと思いますわ」

「……はい、セリア様。貴方様のそのお元気な姿を見られるだけで、私も……感無量です」


セラフィーナの言葉に、イザベラは静かに頷いた。主君の命を救い、心からの笑顔を取り戻してくれたこの場所と、その中心にいる青年アラン。彼に対する感謝の念は、いくら言葉を尽くしても足りなかった。


このまま、時が止まればいい。

誰もが、そう願っていた。

だが、彼らのささやかな平穏を脅かす、戦争の足音は、確実に、すぐそこまで迫っていた。



その日の午後、一羽の光の鳥が、ルナ村の上空を舞い、セラフィーナの腕にそっと舞い降りた。エリュシア王家が使う、緊急用の魔法通信。その鳥が運んできた報せは、彼女たちの穏やかな日常に、冷水を浴びせるものだった。


『――ゲルマニア帝国、クライネルト王国東部国境に大軍を集結。侵攻は、もはや時間の問題。我が国としても、クライネルトの崩壊は看過できぬ。かの地の賢者アラン殿の意向と、その御力について、セラフィーナ、汝の見解を至急求む』


父であるエリュシア国王からの、簡潔だが、極めて重い内容の親書だった。


「……やはり、最悪の事態になりましたか」


報告を読み終えたイザベラが、厳しい表情で呟く。

「ゲルマニア帝国が本気になれば、クライネルト王国が持ちこたえるのは、難しいでしょう。そして、クライネルトが落ちれば、次に帝国の牙が向くのは、我がエリュシア……」


だが、セラフィーナの心にあったのは、国家間のパワーバランスという、冷徹な計算だけではなかった。

彼女の脳裏に浮かんだのは、このルナ村の、穏やかな風景だった。リリアの屈託のない笑顔、ギベオン村長の優しい眼差し、そして、畑の作物を愛おしそうに眺める、アランの横顔。


戦争が始まれば、この全てが、蹂躙される。

彼女に生きる喜びを教えてくれた、この温かい場所が、炎と悲鳴に包まれる。

そして何より、自らの平穏を、誰よりも大切にしているあの人が、そのスローライフを、根こそぎ奪われることになる。


(それだけは……! それだけは、絶対にあってはならない……!)


「イザベル」

セラフィーナは、決意を秘めた瞳で、忠実な騎士の名を呼んだ。

「わたくしは、決めました。アラン様に、お願いするのです。この国を、救ってほしい、と」


その言葉に、イザベラは、はっと息を呑んだ。

「セリア様……しかし、それは……。アラン殿は、面倒事を、何よりも嫌っておられる。彼に、世界の趨勢を左右するような大役を背負わせるのは、あまりにも酷では……」


イザベラの言う通りだった。

アランの力は、絶対だ。彼がその気になれば、帝国の十万の軍勢など、一夜にして塵芥と化すだろう。

だが、その力を行使させることは、彼の望む生き方――ただ静かに、穏やかに過ごしたいという、ささやかな願いを、根本から否定することに繋がる。


「わかっていますわ」

セラフィーナの声は、震えていた。

「わたくしは、恩人であるあの方に、最も残酷な願い事をしようとしている。この上なく、利己的で、身勝手な行いであることも、理解しています」


それでも、彼女は、引くわけにはいかなかった。


「ですが、イザベル。わたくしは、見たくないのです。あの方の、あの優しい人が、その聖域であるこの村を焼かれ、悲しみにくれる姿を。それを見るくらいなら、わたくしは、彼に嫌われることを覚悟の上で、お願いする道を選びます」


それは、一人の王女としての、そして、アランに救われた一人の女性としての、悲痛な決意表明だった。

イザベラは、もはや何も言えなかった。ただ、静かに頭を下げ、主君の覚悟に寄り添うことしかできなかった。



その時、アランは、自作の書斎で、新たな発明に没頭していた。

ルミナが森から持ってきた光る苔を、ガラス瓶に詰め、少量の魔力を与えることで、半永久的に明かりを灯し続ける、エコなランプ。


「うーん、光の明滅が、まだ少し不安定だな。魔力の定着率を上げるには、触媒として、別の鉱石を混ぜるべきか……」


彼が、世界の危機など露知らず、極めて平和で、文化的な悩みに没頭していると、書斎の扉が、遠慮がちにノックされた。


「アラン様。今、少しだけ、よろしいでしょうか」


入ってきたのは、いつになく、神妙な面持ちのセラフィーナだった。その後ろには、イザベラも、硬い表情で控えている。


「やあ、セリアさん。どうしたんだい、そんなに真剣な顔をして」


アランは、いつもの調子で、にこやかに彼女を迎えた。

だが、セラフィーナは、微笑み返すことができなかった。彼女は、ゆっくりとアランの前に進み出ると、まるで祈りを捧げるかのように、彼の前に深く、深く、頭を下げた。


「アラン様。本日は、貴方様に、決して許されぬであろう、身勝手な願いがあって、参りました」


その、ただならぬ雰囲気に、アランも、さすがに首を傾げた。

「……願い? 俺にできることなら、何でも言ってくれて構わないけど」

「ありがとうございます。……では、単刀直入に、申し上げます」


セラフィーナは、顔を上げ、アランの瞳を、まっすぐに見つめた。

「今、このクライネルト王国は、隣国ゲルマニア帝国による侵略の危機に瀕しております。おそらく、数日のうちに、国境で大規模な戦争が始まるでしょう。そうなれば、多くの民が傷つき、そして、このルナ村の平穏も、いずれは失われてしまいます」


アランは、黙って聞いていた。

(戦争……。うわあ、最大級に、面倒くさいやつだ……)

彼の頭の中を、スローライフとは対極にある、あらゆる厄介事が駆け巡った。

物資の不足。難民の流入。徴兵。そして何より、騒音。彼の静かな研究と、穏やかな昼寝の時間を、根こそぎ奪い去る、最悪の災厄。


セラフィーナは、アランの表情が、わずかに曇ったのを見逃さなかった。

だが、彼女は、それを、彼の慈悲深さゆえだと、勘違いした。


(ああ……アラン様は、まだ見ぬ民の苦しみに、その優しい心を、痛めておられるのだわ……!)


彼女は、意を決して、最後の願いを口にした。

その声は、震えていたが、決して、揺らいではいなかった。


「わたくしの、身勝手な願い……それは……」

「……アラン様。どうか、貴方様の、その計り知れない御力で、この国を、救っていただけないでしょうか」


静寂が、書斎を支配する。

それは、禁断の願いだった。彼の平穏を、自らの手で終わらせる、裏切りの言葉。セラフィーナは、アランからのどんな罵倒も、軽蔑も、受け入れる覚悟だった。


彼女の後ろで、イザベラも、そして、いつの間にか書斎の入り口に立っていたルミナも、固唾を飲んでアランの答えを待っていた。


アランは、腕を組み、うーん、と唸った。

彼の頭の中では、天秤が、激しく揺れ動いていた。


【選択肢A:介入する】

メリット:戦争が早期に終結し、比較的早く、静かな日常に戻れるかもしれない。

デメリット:めちゃくちゃ面倒くさい。目立つ。さらに厄介事を引き寄せる可能性、大。


【選択肢B:介入しない】

メリット:何もしなくていいので、楽。

デメリット:戦争が長引き、いずれ、この村にも戦火が及ぶ。そうなれば、畑は荒らされ、家は焼かれ、スローライフは、完全に、未来永劫、失われる。


……結論は、明らかだった。


アランは、深いため息を、一つ、吐き出した。

それは、彼のスローライフの、一時的な中断を惜しむ、諦念のため息。


「はああぁぁ……。戦争は、嫌いなんだがな……」

彼は、ぼりぼりと頭を掻きながら、言った。

「畑が荒らされるのは、もっと嫌だ。……仕方ない。面倒だが、ちょっと、片付けてくるか」


その、あまりにも軽い、まるで、庭の草むしりにでも行くかのような口調。

だが、その言葉を聞いた三人の少女たちの目には、みるみるうちに、涙が溢れ出した。


「「「……アラン様……!!」」」


彼女たちの耳には、彼の言葉が、こう聞こえていた。

『我が身の平穏を犠牲にしてでも、民の苦しみを見過ごすことはできない。この身、この力を、世界のために使おう』

と。


一人の青年の、どこまでも個人的で、怠惰な理由から下された決断が、今、救国の英雄の、 決断として、歴史に刻まれようとしていた。


クライネルト王国の、そして、世界の運命が、大きく動き出した瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ