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第16話:地に堕ちた英雄

アランの周囲で、国家レベルの壮大な勘違いが進行し、彼のスローライフが新たなステージへと移行しつつあった、その裏側で。

地に堕ちた者たちの物語は、より惨めで、より救いのない局面を迎えていた。


王都の裏路地にある、安宿の一室。かつて「人類の希望」ともてはやされた勇者パーティーの、現在のねぐらである。部屋には、水で薄めた冷たいスープの残骸と、飲み干された安酒の瓶が転がり、澱んだ空気が満ちていた。


「――それで、金策のあてはついたのか、カイル!」


戦士ゴードンが、荒々しい声でリーダーを問い詰める。ワイバーンロード討伐に失敗し、莫大な借金を背負ってから一週間。返済の期限は、明日までだった。


「……黙れ。今、考えている」


カイルは、ベッドに腰掛けたまま、力なく答えることしかできない。彼の顔には、かつての自信に満ちた輝きはなく、焦りと疲労の影が色濃く刻まれていた。


「考えているだけでは、お金は湧いてきませんわ! このままでは、私たち、奴隷商人に売られてしまいますわよ!」


魔法使いのセラが、ヒステリックに叫ぶ。貴族令嬢である彼女にとって、借金取りに追われる日々は、悪夢以外の何物でもなかった。


聖女リナリアは、ただ部屋の隅で、しくしくと泣いているだけ。

パーティーの絆は、借金という名の巨大な楔によって、完全に引き裂かれていた。もはや、彼らを繋ぎとめているのは、勇者パーティーという過去の栄光と、共に落ちぶれたという、惨めな共犯意識だけだった。


「……もう、方法はない」


長い沈黙の末、カイルは、絞り出すような声で言った。

「俺たちの……装備を、売る」


その言葉に、部屋の空気が凍りついた。

冒険者にとって、装備は命であり、魂であり、そして何より、誇りそのものだ。それを手放すことは、冒険者としての死を意味する。


「なっ……! 正気か、カイル! 俺のこの『ロックブレイカー』を、売れってのか!?」

ゴードンが、愛用の巨大な戦斧を抱きしめるようにして叫ぶ。

「わたくしの『フレイムハート』もですの!? 魔術学院から、主席の証として授かった、この名誉の杖を……!」

セラも、血の気の引いた顔で自らの杖を見つめる。


だが、他に道はなかった。

その日の午後、彼らは、まるで葬列にでも参加するかのような重い足取りで、王都で一番大きな武具屋へと向かった。



「へっ、こいつは見事な業物だ。が……いかんせん、傷がひどすぎる。これじゃあ、値はつかねぇな」


武具屋の小太りな店主は、ゴードンの戦斧『ロックブレイカー』を値踏みするように眺め、にやにやと笑いながら言った。彼らの懐事情は、とっくに見抜かれている。完全に、足元を見られていた。


ゴードンは、唇を噛み締め、拳を固く握りしめた。この斧と共に、どれだけの敵を屠ってきたことか。彼の武勇の、全てが詰まっている。それを、こんな男に……。

だが、彼は何も言えなかった。金が必要だった。


「……頼む。いくらでも、いい」


絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く、情けなかった。

結局、彼の魂は、銀貨数枚で買い叩かれた。


セラの杖も、リナリアの聖銀のメイスも、二束三文の値しかつかなかった。

最後に、カイルが、国から下賜された白銀の鎧と、魔法効果が付与されたマントを差し出した。勇者の象徴である聖剣だけは、手放すわけにはいかなかった。


「ふむ……勇者様御用達の鎧、か。縁起物として、高く売れるかもしれねぇな」

店主の下品な笑い声が、カイルのプライドを、容赦なく抉っていく。


全てを売り払い、彼らはなんとか借金を返済するための金を手に入れた。

だが、その代償は、あまりにも大きかった。

彼らの手元に残ったのは、店主が「お情けだ」と言って渡してきた、使い古しの革鎧や、刃こぼれした鉄の剣、そして、どこにでもあるような樫の木の杖だけ。


鏡に映った自分たちの姿は、みすぼらしく、あまりにも惨めだった。

かつて、誰もが憧れの眼差しで見た、輝かしい英雄の姿は、どこにもなかった。そこにいたのは、ただの、落ちぶれた冒険者の成れの果てだった。


物理的な強さと共に、彼らの心も、ぽっきりと折れてしまっていた。



その夜。

ボロボロの装備を身につけ、酒場の最も薄暗い席で、彼らは黙り込んでいた。ヤケ酒を飲む金さえ、もうない。


そんな彼らの耳に、他の冒険者の楽しげな会話が、嫌でも聞こえてきた。

それは、最近、王都の冒険者たちの間で、一番の話題となっている噂話だった。


「おい、また西の聖者様の話、聞いたか?」

「ああ、『辺境の聖者アラン』だろ? 今度は、森の神様と契約して、エルフの美女を眷属にしたって話だぜ!」

「マジかよ! 騎士団を追い払っただけじゃなくて、エルフまで!? どんだけなんだよ!」

「それだけじゃねえ。なんでも、隣国の病弱だった王女様が、そのアラン様を訪ねていって、すっかり元気になったらしい。しかも、その王女様、アラン様に惚れ込んじまって、今も村に滞在してるって話だ」


騎士団、エルフ、王女。

次から次へと出てくる、荒唐無稽な英雄譚。

そして、その中心にいる「アラン」という名前。


ゴードンも、リナリアも、ただの作り話だと、聞き流そうとしていた。

だが、セラの顔だけが、青ざめていた。彼女は、震える声で、呟いた。


「……ねえ。そのアランという方……もしかして……」

彼女の脳裏に、あの、地味で、無口で、いつも書物を読んでいた、公爵家の三男坊の顔が浮かんでいた。

「……まさか、私たちが追放した、あのアランなわけ、ないわよね……?」


その言葉に、カイルは、持っていた水の入ったジョッキを、テーブルに叩きつけた。


「馬鹿を言えッ!!」


彼の怒声に、酒場が一瞬、静まり返る。


「あいつが!? あんな地味で、無能で、時代遅れの魔法しか使えない男が、聖者だと!? 王女やエルフを侍らせているだと!? ふざけるのも大概にしろ! ありえるはずがないだろうが!」


カイルは、全力で、その可能性を否定した。

他のメンバーも、それに同調した。

「そ、そうよ! きっと、同名の別人よ!」「そうだぜ! あんな根暗野郎が、そんなことできるわけねぇ!」


彼らは、必死だった。

もし、万が一、あの「役立たず」が、自分たちが全てを失って落ちぶれている間に、本物の英雄になっていたとしたら。

それは、自分たちの存在そのものを、自分たちの判断の全てを、否定することになる。自分たちが、ただの、見る目のない、愚かな道化だったと、認めることになってしまう。

それだけは、耐えられなかった。


「くだらない作り話だ」「同名の別人だ」

彼らは、そう言い聞かせ、無理やり自分たちを納得させた。

だが、一度、心に芽生えてしまった疑念と嫉妬の種は、毒草のように、彼らの心を蝕んでいく。


カイルは、拳を握りしめ、ギリ、と歯ぎしりをした。

自分たちは、誇りも、装備も、金も、全てを失ったというのに。

どこの馬の骨とも知れない、「アラン」という名の偽物が、名声も、富も、そして美女たちも、全てを手にしている。


(許さない……。絶対に、許さない……)


彼の憎悪は、もはや、追放したアラン本人にではなく、噂の中に存在する、輝かしい「聖者アラン」という偶像へと、捻じ曲がって向けられ始めていた。


「……見てろよ」

カイルは、誰に言うでもなく、低い声で呟いた。

「俺たちは、必ず、ここから這い上がってやる。そして、その聖者様とやらの化けの皮を……いつか必ず、この手で剥がしてやる……!」


その誓いは、あまりにも空しく、惨めだった。

翌日、彼らは、ギルドの掲示板の隅に貼られていた、最低ランクの『スライム討伐』の依頼書を、屈辱に顔を歪ませながら、そっと剥がしたのであった。


英雄の転落は、まだ、その中途に過ぎなかった。

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