第14話:森の民の誓い
アランが世界の危機を(キノコ狩りのついでに)救った、その瞬間。
賢者の森から遥か東方、人馬の及ばぬ大森林の奥深くに座する、エルフたちの隠れ里『エルフヘイム』は、未曾有の混乱に陥っていた。
「長老! 賢者の森に設置した、古代の封印を監視する『魂の泉』が……!」
「うむ……見ておる。泉の水が、これほどまでに清浄な輝きを放つのは、この泉が作られて以来、数千年の歴史で初めてのことじゃ……」
里の中央にある泉は、賢者の森の封印と魔力的にリンクしており、封印の状態を水の色で示すと言われていた。ここ数十年、封印の弱まりと共に淀み続けていたその水が、今、まるで溶かした月光のように、神々しいまでの輝きを放っているのだ。
「一体、何が起きたのです? 封印から瘴気の反応は完全に消え、代わりに、我らの想像を絶するほど、清らかで強大な魔力が、封印を包み込んでいます!」
「何者かが、我ら一族の悲願であった、封印の修復を成し遂げたというのか……? 神話の時代ならいざ知らず、今の世に、そのような神の如き御業を行える者が、存在するなどと……」
長老たちによる評議は、紛糾を極めた。
この謎を解明せねばならない。その偉業を成し遂げたのが何者であれ、森と共に生きるエルフにとって、それは座視できぬ一大事だった。
白羽の矢が立ったのは、族長の娘にして、里で最も優れた魔力感知能力を持つ、若きエルフの女性だった。
彼女の名は、ルミナ。白金の髪を風になびかせ、湖面の如く静かな翠玉の瞳を持つ、気高い森の守り手。
「ルミナよ、お前に行く。賢者の森へ赴き、我らが神々の御業を代行せし者が何者なのか、その目で確かめてくるのじゃ」
「……御意に」
ルミナは静かに頷くと、ほとんど荷物も持たず、たった一本の精霊の弓を背負っただけで、翌日の夜明けと共に里を旅立った。
◇
エルフの足は、風のように速い。
彼女は木の根を道標とし、風の声を聴き、獣道を駆ける。常人ならば数ヶ月はかかるであろう道のりを、わずか十日ほどで踏破し、目的の賢者の森へと到着した。
「……ああ……」
森に一歩足を踏み入れた瞬間、ルミナは思わず感嘆の息を漏らした。
長老たちから聞かされていた、淀んだ瘴気に満ちた森の姿は、どこにもなかった。森全体が、まるで生まれたての赤子のように、清浄で、力強い生命力に満ち溢れている。木々は天に向かって伸びやかに枝を広げ、苔は輝き、小鳥たちが楽しげにさえずっている。
(これが……封印が修復された森の、真の姿……)
彼女は、森の最深部にあるという封印石を目指した。
そして、その完璧に修復された黒水晶のオベリスクと、そこに今なお残る、途方もなく温かく、そして強大な魔力の残滓を前にして、確信した。
「……間違いない。これは、定命の者の力ではない。森の創造神シルヴァヌスの再来か、あるいは、それに匹敵する存在の御業……」
この偉業を成し遂げた「神」は、一体どこにいるのか。
ルミナは、自らの感覚を研ぎ澄まし、この地に残された魔力の痕跡を辿り始めた。
そして、ごく自然に、その痕跡が流れ着く先――ルナ村の丘の上に立つ、一軒の屋敷へと導かれた。
森の中から、彼女は息を殺して屋敷の様子を窺う。
やがて、屋敷から一人の青年が現れ、庭でハーブの手入れを始めた。
(……あの人か?)
ルミナは、眉をひそめた。あまりにも普通だ。強者が放つ覇気も、賢者が纏う威厳もない。ただの、穏やかな人間の青年にしか見えない。
だが、エルフである彼女の瞳は、人間には見えないものを捉えていた。
青年が土に触れると、土が喜んでいるかのように、ふかふかと柔らかくなる。
青年がハーブに水をやると、ハーブの葉が、愛おしそうに彼の方へと揺れる。
彼が、ただそこにいるだけで、周囲の風が優しく彼を撫で、光が彼の上に集う。
(……違う! この方は、力を隠しているのではない……!)
ルミナは、衝撃に打ち震えた。
(存在そのものが、自然の理と、完全に調和している……! 彼自身が、一つの完結した『世界』なのだ! だからこそ、周囲の自然が、彼を同胞として、あるいは、主として認識し、喜んで従っているのだ……!)
エルフならではの、自然観に基づいた、あまりにも高度で、壮大な勘違いだった。
ルミナが、どうやってこの神聖な存在に接触すべきか、思い悩んでいると、青年――アランは、不意に立ち上がり、口笛でも吹きそうな気軽さで、森の方へと散歩にやってきた。
彼は、すっかり綺麗になった森の空気を、気持ちよさそうに吸い込む。
「うん、やっぱりこうでなくちゃな。静かで、綺麗で、最高だ」
木陰に隠れていたルミナの耳に、その独り言が届いた。
その瞬間、彼女の脳裏に、エルフの一族に、数千年にわたって語り継がれてきた、一つの大いなる伝説が、雷のように閃いた。
『世界が再び混沌の影に覆われし時、森を心から愛し、その平穏を願う者、現れん。その者は、人知を超えし大いなる力にて災厄を鎮め、森との間に、新たな契約を結ぶであろう。その時こそ、我ら森の民が、新たな守護者『契約者』として、その御方に仕える時なり』
(……森の、平穏を願う、者……)
アランの何気ない独り言が、ルミナの中で、伝説の「契約宣言」へと変換された。
(まさか……! まさか、この御方こそが、我らが待ち望んだ……!)
彼女の心臓が、高鳴る。
そして、勘違いを決定づける光景が、彼女の目の前で繰り広げられた。
アランが、ふと、足元に咲く一輪の小さな白い花に気づいたのだ。
「お、こんなところに『星屑の雫』が咲いている。綺麗だな。そうだ、これを摘んでいって、セリアさんたちへのお土産にしよう」
彼は、その花を傷つけないように、そっと、優しく摘み取った。
その花――『星屑の雫』は、エルフの間では、森の精霊が流した涙から生まれるとされる、何よりも神聖な花だった。
(……聖花を、手に取られた……!)
ルミナの中で、全てのピースが、完璧にはまった。
(森の平穏を宣言され、我ら森の民への慈悲の証として、聖花をお示しになった……! 間違いない! この御方こそが、伝説の『古の契約者』様だ!)
もはや、彼女に迷いはなかった。
◇
「……え?」
森の小道をのんびり歩いていたアランは、目の前に突如として現れた、絶世の美女の姿に、思わず間抜けな声を上げた。
白金の髪、翠玉の瞳、そして、人間とは明らかに違う、気高く、そして尖った耳。
美しいエルフの女性が、彼の目の前で、まるで騎士が王に謁見するかのように、深々と膝をついていた。
「お会いしとうございました、『古の契約者』様……!」
ルミナの、鈴を転がすような、しかし、厳粛な声が、静かな森に響いた。
「我ら森の民は、貴方様との新たなる契約の締結を、幾千年もの間、この日を夢見て、待ち望んでおりました!」
「…………は?」
契約者? 契約?
アランの頭の上には、巨大なクエスチョンマークが、いくつも浮かんでいた。
「あ、あの……すみません。たぶん、人違いかと……。俺はアラン。この村に住んでる、ただの魔術師ですが……」
慌ててそう答えるアラン。
だが、その謙虚な(としか思えない)態度は、ルミナの勘違いを、さらに燃え上がらせるだけだった。
「なんと謙虚なお方……! そのお姿、まさに伝説に謳われた通りの御仁! どうか、お戯れはおやめください、偉大なる契約者アラン様!」
「いや、戯れてないんですけど……」
「アラン様は、この森の静けさと美しさを、お望みになられた。そして、そのために、古の封印を修復するという、神々の御業を成された。違いますか?」
「え、まあ、静かな森は好きですけど……キノコも採れますし……」
キノコ。
そのあまりに俗っぽい単語に、ルミナは一瞬言葉を失ったが、すぐに都合よく解釈した。
(『キノコ』……森の恵み、その象徴。つまり、森全体の豊穣と繁栄をお望み、と。なんと、深遠なるお考えだ……!)
「アラン様! どうか、お聞き届けください!」
ルミナは、決意を秘めた瞳で、アランを見上げた。
「このルミナ、森の民エルフヘイムを代表し、古の契約に従い、我が身、我が魂の全てを以て、貴方様に永遠の忠誠を誓います。どうか、我ら森の民を、貴方様の新たな眷属として、お導きください!」
話が、どんどん、とんでもない方向へと進んでいく。
アランは、もはや、何と返していいのかもわからず、ただ「はあ……」と、気の抜けた返事をすることしかできなかった。
その、歴史的な(勘違いの)瞬間を。
アランを探しに森へやってきた、セラフィーナとイザベラが、少し離れた場所から、ばっちりと目撃していた。
「まあ……美しいエルフの方まで……。アラン様の徳の高さは、ついに種族の壁さえも超えられたのですね」
セラフィーナは、うっとりとした表情で、当然のことのように納得している。
イザベラは、もはや驚きもしなかった。天を仰ぎ、静かに呟く。
「森の民エルフ……古代から続く、気高き種族。その彼らが、自ら膝をつき、忠誠を誓うとは……。やはり、この御方は、神話に連なる、我々の理解を超えた存在だったか」
ただ一人、状況が全く理解できないアラン。
彼を新たな主と崇め、キラキラした瞳で見つめるエルフの美女。
そして、その光景を「うちの主君なら当然だ」と、温かく見守る王女と女騎士。
アランの、全く意図しないところで、彼のハーレムに、また一人、強力なメンバーが加わった瞬間だった。
「……どうして、こうなった……?」
その、アランの心の叫びだけが、誰にも届くことなく、清々しい森の空気に、虚しく溶けていった。




