第13話:賢者の森の異変
勇者パーティーが借金と不和の泥沼でもがいている頃、アランの住まうルナ村は、かつてないほどの平穏と豊かさに満ちていた。
悪徳代官という脅威が去り、村の名物となった『癒やしの湯』は、近隣の村や街から訪れる湯治客で賑わいを見せ始めていた。
「アラン様、本日のスープはこちらの厨房でお作りしますので、書斎でゆっくりお待ちくださいね」
「ああ、ありがとう、セリアさん。いつもすまないね」
王女セラフィーナは、すっかりアランの屋敷の厨房の主のようになっていた。彼女が、アランの畑で採れた新鮮な野菜を使って作る料理は、素朴ながらも愛情に満ちており、アランのささやかな楽しみの一つとなっていた。
「アラン殿、薪割りが終わりました。次は、屋根の修繕でも行いましょうか」
「いやいや、イザベルさん。君は王女様の護衛だろう。そんな雑用までしなくていいんだが……」
「貴公の身の回りをお世話することも、セリア様をお守りすることに繋がります。それに、貴公の日常の動きには、我が剣技の参考になる点が多い」
騎士イザベラは、もはや護衛というより、アランの屋敷の執事兼警備主任といった役回りを自ら買って出ていた。彼女は、アランが薪を割る動作の中にさえ、究極の武術の型を見出し、一人で勝手に感銘を受けているのだった。
村娘のリリアも、毎日のように焼きたてのパンや保存食を届けに来る。
村は潤い、人々は笑い、アランのスローライフは完璧な軌道に乗っているかのように思われた。
だが、その完璧な日常に、じわり、と影が差し始めていることに、最初に気づいたのは村の猟師たちだった。
「……おかしい。ここ数日、森で獣の姿を全く見ねぇ」
「鳥の声も、聞こえなくなった気がするだ」
賢者の森。村人たちにとっては、食料や薪を得るための、生活に欠かせない恵みの森。その森の様子が、明らかにおかしくなっていた。森の入り口付近の木々は、まるで病気にかかったかのように葉を落とし、その幹はどす黒く変色し始めている。そして、村にまで、淀んだ、気分の悪くなるような空気が漂ってくるようになった。
村人たちは「森の神様がお怒りになっている」「祟りだ」と恐れ、森に近づくことをやめた。
もちろん、アランもその異変には気づいていた。
だが、彼の関心は「祟り」などという、非科学的なものではない。もっと、ずっと現実的な問題だった。
「……困ったな」
その日、アランは書斎で腕を組み、深刻な顔でため息をついた。
「森のキノコが、全く採れなくなってしまった」
彼のスローライフにおける重要な食材源が、断たれてしまったのだ。秋の味覚である香ばしいキノコを使ったスープが、今年はもう味わえないかもしれない。それは、彼にとって由々しき事態だった。
「それに、この淀んだ魔力のせいか、庭のハーブの育ちも心なしか悪い。何より……」
アランは窓の外に広がる、生気を失った森を見つめた。
「……静かな散歩コースが、台無しだ」
読書の合間に、静かな森を散策し、思索にふける。それが、彼にとって最高のリフレッシュだった。そのお気に入りの場所が、不気味で気分の悪い場所に変わってしまった。
彼の完璧なスローライフに、明確な瑕疵が生じたのだ。
「アラン様、まさか、森へお一人で?」
アランが腰を上げるのを見て、セラフィーナが心配そうな顔で尋ねた。
「危険です、アラン殿。あの森から漏れ出している瘴気は、尋常なものではありません」
イザベラも、鋭い視線で警告する。
だが、アランはいつもの調子で、にこりと笑った。
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと、原因が何か見てくるだけだから。このままじゃ、美味しいキノコが食べられなくて困る」
「キノコ」という、あまりにも平和な単語。
その言葉と、これから向かう森の危険度のギャップに、セラフィーナとイザベラは眩暈さえ覚えたが、彼を一人で行かせるわけにはいかなかった。
「わたくしたちも、お供します!」
こうして、アランを先頭に、セラフィーナ、イザベラ、そしてこっそり後をつけてきたリリアを加えた一行は、不気味な静寂に包まれた賢者の森の、最深部へと足を踏み入れていった。
◇
森の奥へ進むにつれて、淀んだ魔力はますます濃密になっていく。木々は奇怪な形にねじ曲がり、地面には紫色の苔が不気味に光っている。
「……ひどい汚染だ。これほどの負の魔力、並の魔王軍幹部が放つそれを、遥かに凌駕している……!」
イザベラは剣の柄を握りしめ、警戒を最大レベルに引き上げる。セラフィーナも、聖なる魔力で障壁を張り、リリアを庇いながら、恐る恐る後をついていく。
だが、先頭を歩くアランは、まるで近所の公園を散歩でもするかのように、平然としていた。
「お、珍しい毒キノコだ。標本にしようかな」
「この苔は、魔術インクの材料になるな」
などと、呑気なことを呟いている。その異常なまでの落ち着き払った姿が、逆に三人の少女たちの不安を和らげていた。
やがて、一行は、これまで誰も足を踏み入れたことのない、森の最奥にある開けた場所にたどり着いた。
そこは、古代の遺跡を思わせる、苔むした石舞台のような場所だった。そして、その中央に、全ての元凶はあった。
天を突くようにそびえ立つ、巨大な黒水晶のオベリスク。
高さは十メートルほどあろうか。その黒水晶には、無数の亀裂が走り、そこから脈打つように、おぞましい紫黒色の瘴気が漏れ出していた。森全体を汚染する、負の魔力の発生源。
「……あれは……」
アランは、古文書で読んだ知識を思い出し、眉をひそめた。
「古代の封印石か。確か、遥か昔、世界に混沌を振りまいたとされる『災厄の欠片』を、大地深くに封じ込めるための楔だと……。長い年月の果てに、封印の力が弱まってしまったんだな」
アランの淡々とした解説に、イザベラは戦慄した。
(災厄の欠片……! 神話の時代に、神々がようやく封じたという、あの!? まさか、そんなものが、こんな場所に……!)
彼女は、事の重大さを瞬時に理解した。
(万が一、この封印が完全に破られたら……この村や国どころの話ではない。大陸全土が、混沌に飲み込まれ、世界は滅びる……!)
世界の危機。
イザベラと、彼女の説明を聞いたセラフィーナ、リリアの顔から、さっと血の気が引いた。
だが、世界の危機を前にしても、アランの関心は、やはり別のところにあった。
(うわあ……。これ、直すの、すごく面倒くさそうだなぁ……)
彼は、心底うんざりしていた。
(でも、これをこのまま放置したら、森はずっとこのままだ。つまり、俺の美味しいキノコと、静かな散歩コースは、永遠に失われる……)
天秤が、彼の頭の中で動く。
【世界の危機を放置する】 vs 【キノコと散歩コースを失う】
後者は、彼にとって、耐え難い苦痛だった。
「……仕方ない。やるか」
アランは、まるで壊れた水道管を修理する水道屋のような気軽さで、覚悟を決めた。
彼が、ゆっくりと封印石へと歩みを進める。
「アラン様、危険です!」
「アラン殿、無謀だ!」
セラフィーナとイザベラの制止の声も、彼の耳には届いていない。
彼はひび割れた黒水晶の前に立つと、その構造を、まるで医師が患者を診察するかのように、冷静に分析し始めた。
「なるほど。魔力の循環回路が劣化して、封印の圧力が低下しているのか。なら、回路を再構築し、外部から清浄なマナを注ぎ込んで、圧力を正常値に戻せばいいだけだな」
言うは易し。だが、それは、大陸最高峰の大魔術師が束になっても不可能な、神の領域の御業だった。
アランは、静かに目を閉じた。
そして、古の、世界の理を紡ぐ言葉を、静かに、しかし、力強く詠唱し始めた。
「《形なきものに形を与え、混沌に秩序をもたらせ。失われし光よ、今一度この地に集い、古き契約を果たさん。来たれ、原初の創造――बनाना (バナーナー)》」
詠唱に応え、世界のあり方が変わった。
森羅万象に満ちるマナが、光の粒子となってアランの元へと殺到する。彼の体は、まるで後光が差したかのように、眩い光に包まれた。その姿は、後方で見守る少女たちにとって、まさに、神話に語られる光の神、そのものだった。
アランは、光り輝く手を、ひび割れた黒水晶にかざした。
すると、信じられない光景が広がった。
亀裂から漏れ出ていたおぞましい瘴気が、まるで映像を逆再生するかのように、封印石の中へと吸い込まれていく。そして、アランの手から放たれる清浄な光の魔力が、亀裂を優しく塞ぎ、黒水晶は本来の、一点の曇りもない漆黒の輝きを取り戻していった。
森を満たしていた淀んだ瘴気は、まるで夜明けの霧が晴れるように、跡形もなく消え去っていく。代わりに、木々の間を、温かく、清らかな風が吹き抜けていった。
「……ふぅ。こんなものかな。よし、これでよし、と」
全ての作業を終えたアランは、額の汗を拭うと、何事もなかったかのように、にこりと笑った。
その、あまりにも軽い態度と、成し遂げた偉業の、天と地ほどのギャップ。
セラフィーナ、イザベラ、リリアの三人は、言葉を失い、ただ、その場に立ち尽くしていた。
(アラン様は……ただ、私たちの村を守ってくださっていただけではなかったのですね……。この、世界そのものを、誰にも知られず、たったお一人で……)
セラフィーナの瞳から、尊敬と、そして深い愛情に満ちた涙が、静かに流れ落ちた。
(世界の危機を……まるで、庭の草むしりでもするかのように、あっさりと……。もはや、彼の力を測ろうとすること自体が、愚かで、おこがましい行いだった。彼は、我々が認識する『生物』のカテゴリーを超えている。彼は、この世界の『理』そのものに近い存在なのだ……)
イザベラの心の中で、アランへの畏敬の念は、絶対的な信仰へと、完全に昇華されていた。
「さて、と。じゃあ、帰りにでも、早速キノコを探していこうかな!」
世界の危機を救った英雄は、今、頭の中が、夕食のキノコスープのことで、いっぱいだった。
そして、その瞬間。
この賢者の森から、遥か遠く、大陸の東に広がる大森林『エルフヘイム』で。
古の封印を、代々見守り続けてきたエルフの一族が、その異変を同時に感知していた。
「……長老! 古代の封印石から、瘴気の反応が……消えました!」
「なにっ!? ばかな、あそこまで弱まっていた封印が、自然に回復するなど……!」
「いえ、自然ではありません! 信じられないほど、清浄で、強大な魔力によって、封印が、完全に修復されています……! いったい、何者が……?」
彼らはまだ知らない。
自分たち一族の、数千年にわたる使命を、たった一人で、しかも「キノコ狩りのついでに」終わらせてしまった、規格外の存在がいることを。
新たなる勘違いの物語が、今、始まろうとしていた。




