第12話:砕けたプライド
アランの名が、本人の知らぬところで二つの国を動かす静かな波紋の中心となりつつあった頃。
かつて彼が所属していた勇者パーティーは、焦燥という名の熱に浮かされ、無謀な賭けに打って出ようとしていた。
「――依頼ランクA、『灼熱峡谷のワイバーンロード討伐』。報酬は白金貨五十枚。これを受ける」
王都の冒険者ギルド。勇者カイルがカウンターに依頼書を叩きつけると、周囲の冒険者たちから、どよめきと嘲笑の入り混じった声が上がった。
「おいおい、正気かよ」
「最近、ゴブリンにも苦戦してたって話の連中が、ワイバーンロードだぁ?」
「どうせ、また失敗して尻尾巻いて逃げ帰ってくるのがオチだろ」
ここ一ヶ月、彼らの評判は地に落ちていた。簡単な依頼すらまともにこなせず、支援者であった貴族たちも次々と離れていった。活動資金は日に日に目減りし、パーティー内には常に刺々しい空気が流れている。
この状況を打破するには、もはや一発逆転の大手柄を立てるしかなかった。カイルがこの高難易度クエストを選んだのは、失った名声と金を取り戻すための、起死回生の一手だったのだ。
「……カイル様、本気ですの? いくらなんでも、今の私たちでは……」
魔法使いのセラが、不安げに口を挟む。彼女の言葉には、かつてのような自信は微塵も感じられなかった。
「黙れ、セラ! 俺たちを誰だと思っている。勇者パーティーだぞ。ワイバーンの一匹や二匹、俺の聖剣があれば造作もない!」
カイルは、自分に言い聞かせるように叫んだ。
「そうだぜ! アランみてぇな足手まといがいなくなった今の方が、思いっきり戦えるってもんだ!」
戦士のゴードンも、虚勢を張って同調する。聖女リナリアは、ただ黙って俯いているだけだった。
彼らの脳裏には、同じ光景が浮かんでいた。
一年前、まだアランがいた頃に、同ランクのクエストで火山地帯のサラマンダーを討伐した時のことだ。あの時、戦いは驚くほどスムーズに進んだ。まるで、敵が自分たちの攻撃を待っていてくれるかのように、面白いように隙を晒した。
彼らは、それを自分たちの実力だと信じて疑わなかった。だから、今回も同じようにいくだろうと、心のどこかで高を括っていたのだ。
◇
灼熱峡谷は、その名の通り、焼けた岩と硫黄の匂いが立ち込める不毛の地だった。
彼らは、ワイバーンロードの巣があるという、渓谷の最深部へと足を進める。
「……おかしい」
最初に異変を口にしたのは、リナリアだった。
「皆さんの体力の消耗が、いつもよりずっと早いようです。この暑さのせいでしょうか……」
以前、火山地帯に赴いた時、彼らはこれほどの消耗を感じなかった。
それもそのはず。あの時、アランはパーティー全員に、極めて高度な『体温調整』と『疲労軽減』の古代魔法を、彼らが気づかないうちにかけていたのだ。だが、今、彼らを守ってくれる魔法はない。灼熱の太陽と地面からの放射熱が、容赦なく彼らの体力を奪っていく。
「グオオオオオオッ!」
突如、上空から巨大な影が彼らに襲いかかった。翼を広げれば十メートルはあろうかという、深紅の鱗に覆われたワイバーンロード。その口からは、岩をも溶かす灼熱のブレスが吐き出される。
「散開しろ!」
カイルの号令で、散り散りになるパーティー。だが、その動きは明らかに精彩を欠いていた。
「うおおおっ!」
ゴードンが雄叫びを上げて突進し、大斧を振り上げる。だが、ワイバーンの素早い動きに翻弄され、攻撃はことごとく空を切る。それどころか、薙ぎ払われた巨大な尻尾の一撃を避けきれず、盾ごと吹き飛ばされた。
「ゴードンさん!」
リナリアが悲鳴を上げて回復魔法を飛ばすが、その隙をワイバーンは見逃さない。標的をリナリアへと定め、滑空しながら鋭い爪を振り下ろす。
「させませんわ! 『アイスウォール』!」
セラの魔法で、巨大な氷の壁が出現し、かろうじて直撃を防ぐ。だが、ワイバーンの勢いは止まらない。氷壁は、まるでガラスのように粉々に砕け散った。
「なっ……!」
「セラ、援護を! カイル様が攻撃する隙を作るのよ!」
「わかってますわよ!」
だが、連携が取れない。セラが次の魔法を詠唱しようとすれば、ワイバーンが巻き起こす風圧に体勢を崩される。リナリアが回復に集中しようとすれば、上空から降り注ぐ火の粉に妨害される。
全てが、後手後手に回っていた。
アランがいた頃は、敵の妨害は常に「不発」に終わっていた。彼が、敵の魔力循環や身体能力に、ごく微細な、しかし決定的な干渉を行っていたからだ。風は逸れ、炎は勢いを失い、敵は必ず、絶好のタイミングで体勢を崩した。
だが、その絶対的な守護者は、もういない。
「くそっ! 俺が行く!」
痺れを切らしたカイルが、聖剣を構えて突撃する。
「喰らえええええ! 『ホーリー・セイバー』!」
渾身の一撃。聖なる光の刃が、ワイバーンの胴体を直撃する。
――ガギィンッ!
しかし、甲高い金属音と共に、聖剣は硬い鱗に弾かれた。致命傷には、ほど遠い。
「な……なぜだ!?」
カイルは愕然とした。アランがいた頃、彼の聖剣は常に、敵の最も柔らかい急所を的確に捉えていた。鱗の継ぎ目、逆立った鱗の下の柔らかい皮膚。まるで、敵がそこを斬ってくださいと言わんばかりに、無防備を晒していたのだ。
もちろん、それもアランの『歪曲』や『束縛』の魔法による、精密なアシストの賜物だった。
「グオオオッ!」
手傷を負って逆上したワイバーンが、カイルに向かって灼熱のブレスを吐き出す。
「カイル様!」
仲間たちの悲鳴が響く。
カイルは咄嗟に聖剣で防御したが、その圧倒的な熱量の前に、なすすべもなく吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。
「ぐっ……は……!」
「撤退! 撤退だ!」
もはや、戦える状態ではなかった。彼らは仲間をかばい合いながら、命からがら、灼熱峡谷から逃げ出すしかなかった。
◇
依頼の失敗。
その代償は、あまりにも大きかった。
ギルドに戻った彼らに突きつけられたのは、クエスト失敗による違約金。そして、今回のクエストのために、ギルドから前借りしていた高価なポーションや魔法具の代金。さらに、カイルの聖剣がブレスで受けた損傷を修復するための、莫大な費用。
彼らのなけなしの活動資金は一瞬で底をつき、後には、白金貨百枚――平民が一生かかっても稼げないほどの、莫大な借金だけが残った。
「……どうしてくれるのよ、これ」
その夜、安宿の一室で、セラの冷たい声が響いた。
「そもそも、あんな無謀なクエストを受けた、あなたの判断ミスですわ、カイル!」
貴族令嬢として、金銭に不自由したことのない彼女にとって、借金を負うという事実は、耐え難い屈辱だった。
「んだと、てめぇ! リーダーの決断にケチつけんのか!」
ゴードンが、テーブルを叩いて怒鳴る。
「俺の愛用の斧も、盾も、もうボロボロだ! この修理代は、一体誰が払ってくれるんだよ!」
「み、皆さん、喧Cいはいけません……! きっと、何か方法が……」
リナリアが、涙ながらに仲裁に入ろうとするが、その声は二人の怒声にかき消される。
「黙れ!」
カイルが、獣のような声で叫んだ。彼の顔は、屈辱と怒りで歪んでいた。リーダーとしての威厳は、もはや欠片も残っていない。
「俺が……俺が、何とかする! だから、全員黙ってろ!」
そう叫ぶのが、精一杯だった。具体的な解決策など、何一つない。プライドだけが、彼を支える最後の砦だった。
勇者パーティーという、かつては栄光に満ちていたはずの名前は、今や、仲間同士でいがみ合う、借金まみれの落ちこぼれたちの代名詞となっていた。
◇
ボロボロになった心と体を引きずり、彼らは酒場へと向かった。ヤケ酒でも呷らなければ、やっていられなかった。
だが、そんな彼らの耳に、周囲の冒険者たちの、楽しげな会話が聞こえてきた。
「おい、聞いたか? 最近、西の果てで噂になってる『辺境の聖者』様の話」
「ああ、ルナ村のアラン様だろ? なんでも、代官の騎士団を、睨みつけただけで追い払ったって話じゃねえか!」
「俺の知り合いの商人が、その村の温泉に入ったらしいんだが、長年患ってた腰痛が、一発で治ったって大喜びしてたぜ!」
「アラン」という、聞き覚えのある名前。
しかし、彼らは、その「聖者アラン」が、自分たちが追放した、あの地味で無口な魔術師だとは、到底結びつけられなかった。同名の別人だろう。そうに違いない。そうでなければ、自分たちの行いが、あまりにも愚かになってしまう。
カイルは、赤ら顔でジョッキを握りしめた。
自分たちは、こんなにも惨めな思いをしているというのに。世間は、どこかの誰かを「聖者」だの「英雄」だのと、勝手にもてはやしている。
理不尽な嫉妬が、彼の心を黒く染め上げていく。
「……聖者だと? ふざけるな……」
カイルは、誰に言うでもなく、憎悪に満ちた声で呟いた。
「この世界で、真の英雄は、魔王を倒すこの俺だけだ……! どこの馬の骨とも知れない偽物なんかに、その名を名乗らせてたまるか……!」
砕け散ったプライドは、醜い嫉妬と逆恨みへと姿を変えた。
彼はまだ知らない。自分たちが今、最も見下し、最も憎んでいるその「偽物」こそが、自分たちが最も必要とし、そして、最も愚かにも手放してしまった、本物の奇跡であったということを。
彼らの転落は、まだ始まったばかりだった。




