第11話:広がる波紋
悪徳代官バルザックとその私兵団が、眠ったまま村から去っていったあの日から、ルナ村には絶対的とさえ言える平穏が訪れていた。もはや、この静かな村を脅かそうなどと考える愚か者は、どこにもいなかった。
村人たちのアランに対する信仰は、もはや揺るぎようのないものとなっていた。彼の屋敷がある丘は村の聖地と見なされ、畑仕事に向かう村人たちは、必ず丘に向かって一礼してから一日を始めるのが習慣になった。子供たちの間では、「悪いことをすると、アラン様が見ていて、眠りの魔法をかけられちゃうぞ」というのが、何より効果的な躾の言葉になっていた。
もちろん、聖人君子に祭り上げられたアラン本人は、そんな村の変化に全く気づいていない。
「最近、村の人たちがやけに丁寧だな。都会と違って、辺境の人は礼儀正しいんだなあ」
彼は、今日も今日とて、致命的なまでにポジティブな勘違いをしながら、丹精込めて修復した畑の世話を焼いていた。
そんなアランの側には、すっかり村の風景に溶け込んだ二人の来訪者の姿があった。
「アラン様、お水をどうぞ。今日は日差しが強いですから」
「ああ、ありがとう、セリアさん。気が利くね」
病が全快し、健康的な輝きを取り戻した王女セラフィーナは、今やアランの一番の助手(と本人は思っている)として、甲斐甲斐しく彼の世話を焼いていた。彼女にとって、アランの側にいる時間こそが、何よりの心の安らぎだった。
そして、その二人を少し離れた木陰から見守る、白銀の騎士イザベラ。
彼女はもはや、アランを単なる監視対象とは見ていなかった。主君の命を救い、村を悪の手から守った、人知を超えた守護者。その一挙手一投足に、彼女は深い意味を見出そうと目を凝らしていた。
(……畑の土を耕す、あの鍬の動き。大地を傷つけず、生命力を最大限に引き出す、完璧な軌道。あれは、もはや武術の「型」の域だ)
(……ただ水を飲むだけの所作に、あれほどの気品と静寂が宿るとは。心の内に、一片の淀みもない証拠)
イザベラの脳内で、アランの超人化は留まるところを知らなかった。
彼女たちは、このルナ村での滞在を、無期限で延長することを決めていた。セラフィーナはアランの側を離れたがらず、イザベラは「これほどの戦略級の重要人物を、一人で辺境に放置しておくことなど、国家安全保障上、断じてできない」という、護衛騎士としての使命感に燃えていたからだ。
だが、セラフィーナはただアランに付き従うだけの少女ではなかった。一国の王女として、彼女は今回の事件が持つ重大さを、誰よりも理解していた。
その夜、彼女は自室で、エリュシア王国の王家のみが使える魔法の通信具――『王家の伝書鳥』を呼び出した。光で編まれた小さな鳥に、彼女は極秘の報告書を託す。それは、この辺境の地で起きている奇跡と、アランという存在の重要性を、母国に伝えるためのものだった。
◇
エリュシア王国、王宮。
国王と側近たちが待つ謁見の間に、光の鳥が舞い降り、一通の羊皮紙へと姿を変えた。セラフィーナからの、待望の報告書だった。
『親愛なる父上、そして王国の皆様へ。
まず、ご報告いたします。わたくしの病は、賢者アラン様のお力により、完全に癒えました。彼が淹れてくださった一杯のハーブティーが、王国の全ての叡智が束になっても敵わなかった闇を、まるで朝日のように払ってくださったのです』
報告書の冒頭を読み上げた宰相は、信じられないといった様子で言葉を失った。玉座の間の誰もが、息を呑む。
『アラン様は、我々が想像する魔術師や賢者といった言葉では、到底言い表すことのできないお方です。先日、この地を治める悪徳代官が騎士団を率いて村を襲撃するという事件がありました。アラン様は、ただ一言、静かに告げただけでした。すると、三十名を超す武装した兵士たちは、武器を振り上げたままの姿勢で、誰一人として傷つくことなく、その場に崩れ落ち、深い眠りについたのです。血の一滴も流さず、悪意だけを鎮める。それは、まさに神の御業でした』
謁見の間が、どよめきに包まれる。
一人の人間が、軍隊を無力化する。それは、もはや戦略兵器に等しい。
『結論として、申し上げます。アラン様は、我らエリュシア王国が、最大限の敬意を払い、友好関係を築くべき、最重要人物です。彼の力は、使い方を誤れば国をも滅ぼすでしょう。しかし、そのお心は、春の陽光よりも温かく、慈愛に満ちています。彼を敵に回すことは、世界の破滅を意味し、彼を味方とすることは、我らに永遠の繁栄を約束するでしょう。早急に、正式な国交を結ぶための使者を、ただし、彼の平穏を乱さぬよう、最大限の配慮をもって、派遣していただきたく存じます』
報告書が読み上げられると、長い沈黙が玉座の間を支配した。
やがて、国王が重々しく口を開いた。
「……直ちに、極秘裏に使節団を編成せよ。目的は、賢者アラン様との友好条約の締結。これは、我がエリュシア王国の最優先国事とする」
アランという一個人の存在が、初めて、一国の国是を動かした瞬間だった。
◇
その頃、アランの新たな伝説は、別のルートからも世界へと広がり始めていた。
「いやあ、聞いたかい! ルナ村のアラン様の話!」
辺境都市ロイドの酒場で、行商人のマルコが、興奮した様子でテーブルを叩いた。彼は、ルナ村を定期的に訪れる数少ない商人であり、村の変化を目の当たりにしてきた生き証人だった。
「この間、村に行ったら、代官のバルザック様が騎士団を連れて乗り込んできたんだ! 村の温泉の利権を奪うつもりだったらしい!」
「おお、そいつは大変だ! で、どうなったんだ?」
周囲の冒険者たちが、興味津々で身を乗り出す。
マルコは、村人たちから聞いた話を、これでもかと尾ひれを付けて語り始めた。
「そしたらよぉ、丘の上から、聖者のアラン様がすーっと降りてこられたんだ。代官が『ひざまずけ!』と怒鳴ったら、アラン様はただ、悲しそうな顔で一瞥しただけ。するとどうだ! 代官も騎士団も、まるで雷に打たれたみたいに馬から転げ落ちて、地面にひれ伏して『お許しください!』って泣き始めたって話だ!」
実際は、全員眠っていただけなのだが、噂というのは、伝わる過程でより劇的に、より英雄的に変化していくものだ。
「すげぇ! 睨んだだけで騎士団をひれ伏させたってのか!」
「ああ! アラン様は『汝らの罪、今は許そう。だが、二度と民を苦しめるでない』とだけ告げて、彼らを追い返されたそうだ! なんて慈悲深いお方なんだ!」
マルコの語る英雄譚に、酒場は大いに盛り上がった。
この話は、あっという間にロイドの街中に広まり、「辺境の聖者、アラン」の名は、冒険者たちの間で畏敬の対象となっていった。
そして、その噂は、当然、冒険者ギルドのマスターと、エリーゼの耳にも届いていた。
「……というわけだ。君の報告書にあった通り、とんでもない傑物らしいな、あのアラン・フォン・クライネルトという男は」
ギルドマスターが、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえる。
エリーゼは、静かに頷いた。
「はい。無血で騎士団を制圧……彼の実力をもってすれば、造作もないことでしょう。むしろ、相手を殺害せず、眠らせるだけで済ませたという点に、彼の本質が現れています。彼は、強大すぎるがゆえに、誰よりも力の使い方を心得ているのです」
彼女の勘違いは、もはや確信へと変わっていた。アランは、ただ強いだけではない。深い知性と、慈愛の心をも併せ持った、完璧な超人なのだ、と。
「……マスター。この件、もはや当ギルドだけで抱え込める問題ではありません。クライネルト公爵家、いえ、王宮に直接報告すべきです」
「わかっている。だが、公爵家の三男坊というのが、事をややこしくする……」
ギルドマスターが頭を悩ませている間にも、事態は動いていた。
エリュシア王国からの使節団が、極秘裏にクライネルト王国へと入国した。
辺境ギルドからの緊急報告書が、王都の中央ギルドへと送られた。
アランという名の、静かな水面に投げ込まれた一つの石。
その波紋は、今や二つの国を巻き込む大きなうねりとなり、歴史を動かそうとしていた。
当の本人は、そんなこととは露知らず。
「うーん、このカブの葉っぱ、また魔甲虫に食われてるなあ……」
と、セラフィーナが淹れてくれたハーブティーをすすりながら、目の前の、世界で最も重要で、かつ平和な問題について、真剣に頭を悩ませていた。




