第10話:聖域の侵犯者
セラフィーナの病が癒えてから、ルナ村には穏やかで、陽だまりのような時間が流れていた。
彼女はもはや「病弱な貴族の令嬢セリア」ではなく、ただの快活な村娘のように、毎日を生き生きと過ごしていた。
「アラン様、見てください! こんなに大きなカブが採れましたわ!」
「おお、見事だね、セリアさん。君は野菜を育てるのが上手いなあ」
アランの屋敷の家庭菜園は、いつしかセラフィーナのお気に入りの場所になっていた。彼女はアランに教わりながら、土に触れ、作物の成長を見守る喜びに目覚めていた。王宮での、息の詰まるような生活では決して得られなかった、素朴で温かい日常。その全てが、彼女にとっては宝物だった。
そんな主君の姿を、護衛騎士であるイザベラは、少し離れた場所から複雑な思いで見守っていた。
セラフィーナの笑顔は、イザベラにとっても何よりの喜びだ。そして、その奇跡をもたらしたアランという青年に対しては、感謝と、そして人知を超えた存在への畏敬の念を抱いている。
(しかし、この男は、一体何なのだ……)
イザベラは、ここ数週間、アランの行動を注意深く観察し続けていた。
彼が斧を振るって薪を割る。その軌道には一切の無駄がなく、最小限の動きで最大の効率を生み出している。達人の剣閃に通じるものがあった。
彼が書斎で古文書を読む。その集中力は常軌を逸しており、丸一日、身じろぎ一つしないこともある。高位の魔術師が行う精神統一のそれに近い。
彼が、ただ庭で昼寝をする。その姿は完全に無防備でありながら、周囲の自然と一体化し、どこにも隙が見当たらない。
イザベラは結論づけていた。この男の日常の全てが、常人には計り知れないレベルの「修練」なのだ、と。
もちろん、アランはただ「効率的に薪を割りたい」「読書に集中したい」「気持ちよく昼寝がしたい」だけなのだが、イザベラの深読みフィルターを通すと、全ての行動が達人の所作に見えてしまうのだった。
そんな、どこまでも平和で、どこまでも勘違いに満ちた穏やかな日々。
だが、その平穏は、ある日、外部からの暴力によって、唐突に引き裂かれることになる。
◇
その男の名は、バルザック子爵。
クライネルト公爵家から、この西部の辺境一帯の統治を任されている代官である。しかし、その実態は、領民から重税を搾り取り、私腹を肥やすことしか頭にない、強欲で傲慢な小悪党に過ぎなかった。
彼の耳に、最近、奇妙な噂が届いていた。
「統治領域の果てにある、あの価値のないルナ村に、奇跡の温泉が湧いたらしい」
「その湯を求めて、近隣の街から湯治客が集まり始めている」
「村は、以前とは比べ物にならないほど、活気づいている」
利権の匂いを嗅ぎつけたバルザックが、行動を起こすのは早かった。
彼は、このルナ村が、本家の厄介者である三男坊、アラン・フォン・クライネルトに与えられた土地であることを知っていた。
「フン、中央から見捨てられた若造が、偶然、宝くじでも当てたか。だが、子供に財産を管理する能力などない。俺様が、有効に活用してやるとしよう」
バルザックは、自らが雇っている私兵団――という名の、金で雇った傭兵やならず者の集団――三十名を率いて、意気揚々とルナ村へと駒を進めた。彼の頭の中では、温泉の利権を独占し、さらに莫大な富を築き上げる、甘い計画が完成していた。
◇
土煙を上げ、威圧的に村へと乗り込んできた武装集団に、村人たちは怯え、道を開けた。
馬上でふんぞり返ったバルザックは、見下すような目で村人たちを眺め回し、唾棄するように言った。
「貴様らか、俺の土地で勝手に商売をしているという、愚かな連中というのは。この村と、そこにある温泉は、今日からこのバルザック子爵様が直々に管理することになった! ありがたく思え!」
そのあまりに理不尽な宣言に、村長のギベオンが、震える足で前に進み出た。
「お、お待ちください、代官様! この村は、クライネルト公爵家より、アラン様が正式に相続された土地のはず……!」
「黙れ、老いぼれが!」
バルザックの隣にいた騎士団長が、ギベオンを容赦なく突き飛ばす。悲鳴を上げる村人たち。兵士たちは、高笑いをしながら、剣の柄で人々を威嚇し始めた。
その騒ぎは、丘の上のアランの屋敷にまで届いていた。
「……何事でしょう?」
セラフィーナが、不安げに眉をひそめる。
イザベラは、即座に臨戦態勢を取った。
「セリア様、ご安心を。私が追い払ってまいります」
「待って、イザベル。相手は武装しているわ。それに、私たちの身分を明かすわけには……」
その時、屋敷の扉が開き、アランが「どうしたんだ、騒がしいな」と、眠そうな顔で顔を出した。どうやら、最高の昼寝の時間を邪魔されたらしい。
村の広場で起きている惨状を認め、アランの眉間に、深い皺が刻まれた。
(……ああ、面倒くさい。見てるだけで、面倒くさい)
バルザックは、丘の上から現れたアランに気づくと、嘲笑を浮かべた。
「ほう、貴様がアラン・フォン・クライネルトか。噂通りの、ひ弱そうな若造だな。話は早い。この土地の権利を、私に譲渡するという書類だ。さっさと、ここにサインしろ」
部下が差し出した羊皮紙を、アランは一瞥もせずに、ただ、心底うんざりした、という顔でため息をついた。
彼の関心は、土地の権利書にも、代官の横暴にもなかった。
彼のスローライフが、今、まさに脅かされている。その事実だけが、彼の心を重くしていた。
バルザックは、アランの無反応な態度に苛立ったのか、顎で部下たちに指図した。
「おい、貴様ら! あの生意気な若造を、ここまで引きずってこい!」
「「「ヘイ!」」」
下品な笑い声を上げながら、数人の兵士がアランの屋敷へと向かって歩き出す。
そして、彼らは、何の気なしに、屋敷の前に広がる、アランが丹精込めて育ててきた家庭菜園へと、土足で踏み入った。
ザクッ、ザクッ。
軍靴が、柔らかい土を踏みしめる。芽吹いたばかりのレタスの苗が踏み潰され、大きく育ったカブの葉が、無残に引きちぎられた。
その瞬間だった。
アランの穏やかだった表情から、すっと、全ての感情が消え去った。
彼の瞳は、ただ静かに、踏み荒らされていく自分の畑を見つめていた。
それは、彼の聖域だった。
彼が、追放されて初めて手に入れた、ささやかで、かけがえのない、平和の象徴。
彼の理想のスローライフそのものが、今、汚れた軍靴で、踏みにじられていた。
「…………俺の、カブが…………」
誰にも聞こえないほどの、小さな呟き。
だが、それは、この場にいる全員の運命を決定づける、引き金だった。
◇
「やれやれ……」
アランは、もう一度、今度は天を仰ぐように、深いため息をついた。
「……静かに、眠りなさい」
その言葉は、誰に向けられたものだったのか。
彼は、ただ静かに、右手を軽く持ち上げた。詠唱はない。魔法陣も浮かばない。
ただ、彼の足元から、目には見えない魔力の波紋が、水面に広がる波のように、穏やかに、しかし、抗いようのない速度で、村の広場全体を包み込んでいった。
古代魔法『広域沈黙 (क्षेत्रीय शांति)』。
指定した範囲内の、敵意を持つ者の精神に直接干渉し、その意識を強制的に刈り取り、深い眠りへと誘う、広域精神干渉魔法。
最初に、アランの畑を踏み荒らした兵士が、歩みの途中で、ふっと、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
次に、村人を威嚇していた兵士たちが、高笑いしたままの表情で、次々と地面に倒れ伏していく。
馬上でふんぞり返っていたバルザックも、何かを叫ぼうとした口を開けたまま、ゆっくりと鞍からずり落ち、馬の横で大きないびきをかき始めた。
嘶こうとした馬さえも、その途中で動きを止め、立ったまま眠りに落ちる。
三十人いたはずの武装集団が、わずか数秒のうちに、誰一人として起きている者はいなくなった。
武器を振り上げたままの者、下品な笑みを浮かべたままの者。それぞれが、それぞれの姿勢で、まるで時が止められたかのように、深い、深い眠りについていた。
広場を支配していた暴力と喧騒は、嘘のように消え去り、後に残ったのは、穏やかな昼下がりの静寂と、眠る男たちの平和ないびきだけだった。
この、あまりにも現実離れした光景を、村人たち、そしてセラフィーナとイザベラは、ただ呆然と見つめていた。
「おお……おおお……!」
村長ギベオンが、その場に膝から崩れ落ちた。
「アラン様が……悪人どもに、神罰を下された……! しかも、血の一滴も流さず、ただ眠らせるだけとは……なんという、お慈悲……!」
村人たちは、恐怖から一転、歓喜と、アランへのさらなる神格化に、その身を打ち震わせていた。
セラフィーナは、ただ、息を呑む。
(民を傷つけず、悪しき者だけを無力化する……。これこそ、真の王が持つべき力。無益な殺生を嫌う、気高き魂の現れだわ……!)
彼女のアランへの尊敬の念は、いつしか、淡い恋心に近いものへと変わり始めていた。
そして、この場で最も衝撃を受けていたのは、イザベラだった。
(馬鹿な……!? これほどの規模と精度の精神干渉魔法を、詠唱も予備動作も一切なしに発動させたというのか……!?)
彼女の背筋を、冷たい汗が伝う。
(しかも、私やセリア様、村人たちには、一切の影響がない。完璧な対象識別能力……。これは、もはや一個人が行使していいレベルの力ではない。軍隊一つ……いや、この男は、本気になれば、国一つを、一夜にして眠らせることさえできるのではないか……!?)
彼女は、アランという存在の底知れなさに、改めて戦慄した。
当の本人であるアランは、眠りこける侵略者たちには一瞥もくれず、一目散に自分の畑へと駆け寄っていた。
そして、踏み潰されたカブの苗を、まるで我が子をいたわるかのように、そっと、優しく拾い上げた。
「……ひどいことをする」
その悲しげな横顔を見て、セラフィーナとイザベラは、再び盛大な勘違いをする。
(民の畑が荒らされたことを、ご自分のことのように、心を痛めておられるのだわ……!)
アランは、眠るバルザックたちの武具を、面倒だったので古代魔法『収集』で一箇所にまとめると、代官の胸元に「二度と俺の畑に近づくな」とだけ書いたメモを差し込んだ。そして、眠ったままの彼らを馬に乗せ、馬にだけ「まっすぐ代官屋敷に帰れ」と簡単な命令を与えて、村から送り出した。
こうして、ルナ村の危機は、血の一滴も流れることなく、一人の青年の「家庭菜園を守りたい」という、あまりにも個人的な理由によって、解決された。
そして、「聖者アラン、怒れる神の如く現れ、たった一人で騎士団を無血にて制圧す」。
この新たな伝説が、行商人たちの口を通して、やがて王都の耳にまで届くことになるのを、アランは知る由もなかった。
彼はただ、荒らされた畑を前に、どうやって美味しいカブのスープを作るか、そればかりを考えていた。




