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第1話:時代遅れの魔法使い

土煙が舞い、鋼のぶつかる音が絶え間なく響く。魔物の断末魔と、人間の怒号が入り混じり、血と魔力の匂いが鼻をつく。ここは人類の存亡を賭けた戦いの最前線、魔王領へと続く「嘆きの渓谷」。その中央で、人類の希望たる勇者パーティーは、一体の強大な敵と対峙していた。


「くそっ、なんて硬さだ!」


巨大な戦斧を振り回す大男、戦士ゴードンが悪態をつく。彼の渾身の一撃は、敵の巨躯を覆う黒曜石の如き外皮に、白い傷をわずかに残しただけだった。


パーティーの前に立ちはだかるのは、魔王軍幹部『黒曜のガルヴァス』。身の丈は三メートルを超え、その名の通り、全身が魔法を弾く漆黒の甲殻で覆われている。四本の腕がそれぞれ異形の武器を握り、薙ぎ払うような一撃は大地を容易く引き裂いた。


「ゴードン、下がりなさい! 私の聖なる光で!」


パーティーの紅一点、聖女リナリアが祈りを捧げると、柔らかな光がゴードンの体を包み、傷を癒していく。彼女の隣では、金髪をなびかせた青年、勇者カイルが聖剣を握り締め、鋭い眼光で敵の隙を窺っていた。


「セラ! 大魔法で動きを止めろ!」

「わかっていますわ!」


カイルの指示に、もう一人の女性メンバー、魔法使いのセラが応じる。彼女は詠唱を極限まで簡略化した現代魔法の使い手だ。杖をガルヴァスに向けると、瞬く間に巨大な火球が形成される。


「喰らいなさい! 『フレア・バースト』!」


轟音と共に放たれた火球がガルヴァスに着弾し、爆炎が渓谷を照らす。しかし、煙が晴れた時、そこに立っていたのは、甲殻からわずかに白煙を上げるだけの、ほぼ無傷の魔王軍幹部だった。


「グオオオオオ!」


嘲笑うかのような咆哮を上げ、ガルヴァスは四本の腕で反撃を開始する。その凄まじい猛攻を前に、前衛の二人は防戦一方に追い込まれた。


そんな激戦の、さらに後方。パーティーの最後尾に、まるで戦場の喧騒から切り離されたかのように、静かに佇む一人の青年がいた。


彼の名はアラン・フォン・クライネルト。王国にその名を轟かせるクライネルト公爵家の三男にして、この勇者パーティーの支援魔術師。


だが、彼の存在を気にかける者は、このパーティーには誰もいなかった。


「……《古き風よ、彼の者の刃を鈍らせよ。揺らがぬ大地よ、我が友の足元を固めよ》」


アランは、現代ではほとんど使われることのない古語で、静かに、しかし淀みなく呪文を紡いでいく。彼の魔法は、セラのそれのように派手な光も音も発しない。ただ、彼の足元に淡い文様が浮かび、世界に溶けるように消えていくだけだ。


直後、ゴードンの体を掠めようとしたガルヴァスの大剣の軌道が、まるで空気の壁に阻まれたかのように、わずかに逸れた。崩れかけた足場で体勢を崩しかけたカイルの足元が、一瞬、岩のように硬化し、彼を支えた。


それは、戦況を維持するための、あまりに繊細で、あまりに高度な支援魔法。だが、その恩恵を受けているはずの仲間たちから、感謝の言葉が飛んでくることはない。


「おい、アラン! てめぇ、後ろでボソボソと何やってやがる! もっと役に立つ攻撃魔法を使えねぇのか!」


ゴードンが、責任転嫁のように怒鳴る。


「そうですわ、アラン。あなたのその古臭い魔法、詠唱が長すぎますのよ。わたくしのように、もっと効率の良い魔法を使ったらどうです?」


セラが侮蔑の視線を向ける。彼女は王立魔術学院を首席で卒業したエリートであり、古語に頼るアランの魔法を「時代の遺物」と公言して憚らなかった。


アランは何も答えず、ただ淡々と次の魔法の準備を続ける。彼が使うのは『古代魔法』。世界の理そのものに干渉する、失われし魔法体系だ。詠唱は長く、効果は地味。しかし、その本質は、現代魔法の比ではない。


だが、その真価を、派手さと即効性ばかりを重視する彼らが理解することはなかった。


「チッ……使えない奴め!」


勇者カイルが吐き捨てる。彼の目にも、アランはただ後方で立ち尽くしているだけの、臆病な貴族の坊ちゃんにしか映っていない。聖女リナリアに至っては、アランが存在しないかのように、その視界にすら入れていなかった。


(これでいい……)


アランは内心で呟く。彼らが自分をどう評価しようと、どうでもよかった。彼がこのパーティーにいるのは、高名な公爵家の三男として、魔王討伐という「義務」を果たすため。それ以上でも、それ以下でもない。


早くこの戦いを終わらせて、静かな場所で本を読んでいたい。それが彼の唯一の望みだった。


「カイル様、わたくしの魔力がもう……!」

「俺の聖剣の光も、長くはもたない!」


セラの悲鳴と、カイルの焦りの声が響く。ガルヴァスの猛攻は苛烈さを増し、パーティーはじりじりと追い詰められていた。このままでは全滅も時間の問題だろう。


「……仕方ないか」


アランは小さくため息をつくと、これまでとは違う、一段と長く複雑な詠唱を開始した。


「《万物の礎たるマナよ、彼の者の内に渦巻く奔流を、今、我が声に応え、淀みへと還せ。秩序は乱れ、力は霧散し、彼の者はただの抜け殻とならん》」


アランが"紡く"言葉は、まるで歌のように渓谷に響く。それは、敵の体内に流れる魔力そのものを強制的に不活性化させる、古代魔法『魔力霧散』。強力な魔法であるほど、その効果は絶大となる。


ガルヴァスの動きが、明らかに鈍った。その黒曜石の甲殻を維持していた膨大な魔力が、霧のように体から抜け始めたのだ。甲殻の輝きが失われ、あちこちに細かい亀裂が走る。


「……今だ! カイル!」


アランが叫ぶ。千載一遇の好機。


「黙ってろ! 俺のタイミングでやる!」


しかし、カイルはアランの助言を怒声で一蹴した。彼は、アランに指示されること自体が我慢ならなかったのだ。そして、自分の力で好機をこじ開けようと、聖剣にありったけの力を込める。


「喰らええええ! 『ホーリー・セイバー』!」


聖なる光の奔流が、ガルヴァスに直撃する。だが、遅かった。アランの魔法の効果が切れ始め、ガルヴァスが魔力を再循環させた直後だったのだ。致命傷には至らず、ガルヴァスは怒りの咆哮を上げた。


「ぐっ……! なぜだ!」


膝をつくカイル。最大の一撃を防がれ、彼の心は焦りと屈辱に支配された。そして、その矛先は、当然のように、パーティーで最も弱い立場にある者に向けられた。


「……アランッ!」


カイルは、憎悪に満ちた目でアランを睨みつけた。


「てめぇのせいだ! てめぇの魔法が中途半端だから、俺の聖剣の威力が殺されたんだ!」

「……いや、今のは好機だったはずだ」

「言い訳か! いつもお前はそうだ! 長ったらしい詠唱ばかりで、肝心な時には役に立たない! お前のその時代遅れの魔法は、俺たちの足を引っ張っているだけなんだよ!」


理不尽な罵倒。だが、アランは表情一つ変えずにそれを受け止める。その冷静な態度が、さらにカイルの怒りを煽った。


「もう我慢ならん!」


カイルは聖剣の切っ先を、震える手でアランに向けた。


「アラン・フォン・クライネルト! 今この時をもって、お前を勇者パーティーから追放する! 二度と俺たちの前に姿を現すな、この役立たずが!」


追放宣言。それは、パーティーの絶対的リーダーである勇者カイルが持つ、絶対的な権限だった。


渓谷に、一瞬の静寂が落ちる。


戦士ゴードンは、ニヤリと口の端を歪めた。

「ハッ! やっと足手まといがいなくなるな! 清々するぜ!」


魔法使いセラは、扇で口元を隠し、冷ややかに言い放つ。

「当然の判断ですわ、カイル様。これで、わたくしの現代魔法の真価を、存分にお見せできますもの」


そして、聖女リナリアは、慈愛に満ちた瞳をカイルに向け、アランには氷のように冷たい視線を向けたまま、静かに頷いた。

「カイル様の決断ですもの。それが、きっと最善なのでしょう」


誰も、アランを庇う者はいない。誰も、彼のこれまでの貢献を認めようとはしない。これが、アラン・フォン・クライネルトが一年間身を捧げた、勇者パーティーの答えだった。


アランは、ゆっくりと仲間たち(……いや、元仲間たちか)を見回した。そして、静かに、しかし凛とした動作で、公爵令息としての完璧な礼をした。


「……承知した。これまで世話になった。君たちの武運を祈っている」


彼の声には、怒りも、悲しみも、悔しさも含まれていなかった。ただ、あまりにも平坦な、事実の受容だけがあった。


アランは背を向けると、まだ戦闘が続く戦場を、悠然とした足取りで去っていく。その背中に、罵声がいくつか投げかけられたが、彼は一度も振り返らなかった。


去り際に、アランは指を小さく弾く。パーティーを囲むように展開していた、不可視の防御結界。ガルヴァスの魔法攻撃を幾度となく防いできたその結界の、ほころびかけていた部分が、静かに修復された。それが、彼からの最後の餞別だった。


もちろん、その事実に気づく者は、誰一人としていなかった。


……


……


どれくらい歩いただろうか。

もはや背後で繰り広げられている死闘の音も、遠く聞こえなくなった。

嘆きの渓谷を抜け、夕日に染まる荒野に一人立ったアランは、大きく、深く、心の底からの息を吐き出した。


「――はぁ……ああ、疲れた」


その表情は、先程までの無表情が嘘のように、穏やかで、安堵に満ちていた。

肩の荷が下りた、とはまさにこのことだろう。義務、責任、貴族の務め。彼を縛り付けていた全ての鎖が、今、断ち切られたのだ。


「追放、か。願ったり叶ったりだな」


彼は小さく笑った。

勇者パーティーでの日々は、苦痛でしかなかった。価値観の合わない仲間、理解されない魔法、そして何より、自分の時間を奪われることへの苛立ち。


もう、誰かのために無理をする必要はない。

もう、好きでもない戦いに身を投じる必要もない。


「公爵家には……戻るだけ面倒だな。確か、辺境に小さな村付きの土地を相続していたはずだ」


アランは空を見上げる。茜色の空には、一番星が瞬き始めていた。


「よし、決めた。あそこへ行こう」


都会の喧騒からも、実家のしがらみからも、そして何より、面倒な人間関係からも遠い場所へ。


静かな書斎で、古文書を読み解きながら、古代魔法の研究に没頭する。

疲れたら、庭で薬草を育て、ハーブティーでも淹れて飲む。

たまに、誰も知らないような魔法で、自分の生活を少しだけ便利にする。


そんな、穏やかで、静かで、誰にも邪魔されない生活。


「ああ、これでようやく、念願のスローライフが送れる」


追放された元・英雄パーティーの支援魔術師は、絶望するどころか、希望に満ちた足取りで、新たな人生へと踏み出した。


彼の真の力と、彼を追放した者たちの未来を、まだ誰も知らない。

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