大きな謎を残さないでくれ
緑の物体は『コケネコ』というらしい。
脅威レベルは低く、放っておいても害はないそうだ。アメリアが教えてくれた。
カビでなくてよかった。本当によかった。
プランターから出てきたコケネコは、ふよふよと私の周りを漂っている。
一頭身のまんまるな身体に、三角の耳と尻尾らしきものが生えている。
……よく見れば、ヒゲや手足っぽいものも生えている。
手のひらサイズの冗談みたいな形状だが、ちゃんと生きているんだな……。
「こいつ、何を食うんだ?」
「飼うの!?」
アメリアが驚いている。
私が生み出してしまったんだ。私が責任を持って飼育しよう。
「コケの飼育か……。コケは食えんからな、範疇外だ」
「ええっ、……水と日光?」
「天才か、アメリア!」
「えええ、ありがとう……?」
困惑しているアメリアは、グラスに聖水を注いで、色々と眺めている。
首を捻る彼に、心からの疑問を投げかけた。
「なあ。それ、本当に純正品の聖水か?」
「うーん……、ぼくには普通の水に見えるけれど……」
「もやもやしているだろう?」
「少なくとも、ぼくの知ってる聖水は、白いもやなんて出ないよ」
ううん、唸るアメリアが、コケネコにグラスを近づける。
ふよふよ、漂うコケネコに、嫌がる素振りはなかった。……おい、忌避剤じゃなかったのか?
「アメリア……」
「わからない! けど、飲むのはよくない!! お義母さんのことを説得するよ!」
「ああ……」
さり気なく『お義母さん』と呼ぶな。私ときみの婚約は、偽装のものなんだぞ?
アメリアと母上の元へ行こうとしたが、応接間で待つよう彼に言われた。
先に父上と話をするらしい。参加させてもらえないことを不満に思ったが、待っている間にイオリとエレナが相手をしてくれた。
しばらく待った。コケネコは疲れたのか、空のティーカップに入って寝ていた。
きっと私はひどい顔をしていたのだろう。ずっとエレナが隣に座ってくれた。
つながれた手があたたかい。彼女に凭れて、アメリアが戻ってくるのを待った。
「エレナ、……母上は、聞き入れてくれるだろうか?」
「大丈夫ですよ、ユカ様」
「……ショックを受けなければいいんだが……」
「ユカ様のお優しいお気持ちは、必ず奥様へ届きます」
エレナの柔らかな声に、ガシャーンッ!! 硝子が叩き割られるかのような音が被さる。
イオリが即座に反応し、エレナが私を抱えて立ち上がった。
母上、父上、アメリア! 何かあったのか!?
「ッ! なりません、ユカ様!!」
エレナの腕を抜け出し、母上が静養する部屋へ飛び込む。
開いた扉の向こうは、むっとするような甘ったるいにおいに包まれていた。
「母上! 大事ないか!?」
「ユカ、来ちゃだめだ!!」
むわりと絡みつく白いもやが、視界を遮る。においがきつくて噎せた。口許を手で塞ぐ。
ゆらゆら動いている人影を目指して歩くと、室内用の靴がじゃりりと何かを踏んだ。
見下ろして瞬く。足許に、砕けた青色の硝子が散らばっていた。
……これは、聖水の小瓶か?
不意に人の気配を感じて、顔を上げた。
目の前に立つ、青白い肌に薄藤色の髪の女性。――ああ、母上だ。
「ははうえ、」
よかった、今日は立てるほど状態がいいのか。これからあの水をやめれば、もっとよくなるからな。
縋りつこうとした私の首に、母上の手が食い込んだ。
細い指だ。ひんやりとしていて、いつもきれいに爪が整えられている。
あ、と思った頃には私の身体は持ち上がり、絞まる首の苦しさに、声もなくあがいていた。
母上の細腕で、こうも軽々と私を締め上げることなど、できるのだろうか?
……現に私の爪先は床から離れ、空をかいているのだが。
ははうえ?
酸欠に歪んだ視界で、母上を見下ろす。……見たことのない顔をしていた。
幽鬼のようだ。つり上がった唇からは涎が零れ、虚ろな目はこちらを見ていない。
美しく理知的な彼女の顔が、見る影もない。……涙が込み上げてきた。
私のせいだ。不安を感じた段階で、母上に申告していればよかった。
母上の敬愛を踏みにじると、指摘に対して後ろめたさを感じていた。けれども、それで彼女を失っては元も子もない。
衝突を恐れた。母上を悲しませたくなかった。……ここまで深刻な問題だと、思わなかった。
馬鹿なことをした。遠回しな言葉など、どこにも届かない。
私の口は、何のためについているのだろうな?
唐突に身体を突き飛ばされ、床を転がる。盛大に噎せる背を、誰かに撫でられた。
涙で歪んだ視界に、エレナが映る。その向こうにイオリがいた。
母上が、父上とアメリアによって組み伏せられる。これまで聞こえなかった呻き声や大声が、鼓膜を震わせた。身体が竦む。
「誰か! 浄化班を!!」
必死さのこもるアメリアの声に、即座にイオリが動く。
……浄化? クリス。クリスは!?
「エレナ! クリスは!? 彼も浄化が……!」
「ユカ様、落ち着きください!」
「落ち着いていられるか!! 母上が!」
私自身、気が動転していた。正気ではなかったと思う。
部屋を飛び出し、大神殿へ向かう。ろくに走ったことのない私の身体は、簡単に息が上がって苦しい。
あっという間に感覚のなくなった脚が、何度もよろめき、転んでしまう。
それでも立ち止まることも出来ず、必死に走った。
大神殿へ辿り着いた私に、係の者が驚いたような顔をしていた。
大声を上げたかったのに、情けないことに声がかすれて出てこない。日頃の運動不足が祟ったな。
ひうひう鳴る喉を懸命に動かし、何度も噎せながら、クリスの名前を呼んだ。
現れた彼はとても驚いていて、しかしそれすらももどかしくて、彼の腕を引っ張った。
後ろから追ってきたエレナが事情を説明し、私を抱えて馬車に乗る。――ああ、そうか、馬車。エレナはさすがだな。
結果として、母上は助かった。
突然連れ出されたクリスが、わけもわからないまま浄化を施してくれたおかげだと、騎士団の浄化班の人が言ってくれた。
後遺症も出ないだろうと、よくがんばったなと、頭を撫でられた。
……褒められることなど、なにもしていない。呵責に苛まされるから、やめてほしい。
母上は瘴気にふれてしまったらしい。
微量ずつ蓄積したそれが、ちょっとした引き金で爆発してしまったそうだ。
今は気を失っており、父上を付き添いに休んでいる。
盛大に転んだ私は傷の手当てを受け、後日アメリアとクリスに礼をすると約束した。
クリスを大神殿へ送ったあと、司教殿と話した。
彼は私の両親に聖水を渡していないと、頑なに否定した。
どうやら聖水は番号で管理されているらしく、私の手許に残った番号を告げるも、そのような番号は存在しないと言われた。
司教殿の話は、本当なのだろうか?
ならば、母上と父上に聖水を売りつけた人物は、一体誰なのだろう?




