第1話 大魔王は社長令嬢です
『年末ジャンボで一等が当たった』。
そんな言葉を聞いて信じる人は、この世にどのくらい居るのだろうか。
いや、おそらく大半の人は信じないだろう。
何せ、二千万分の一の確率でしか手に入らないという天文学的な数字を聞いて、当てに行くようなバカはいない。
だが、そんな当たり前の事が分かっているはずなのに、なぜか皆は揃いも揃ってギャンブルをしてしまう。
人間にはたくさんの欲望というものがある。
生理的欲求。社会的欲求。自己実現欲求。
例を挙げればキリが無いが、とにかく色々な欲があるということだ。
別にここで自分の欲求が何なのかを曝け出すつもりはない。
ただ単に、この世界で生きている人間として、当たり前のことを言っているだけなのだ。
しかしながら。
一等が七億円という夢のある宝くじ。
そんな膨大な金を楽して自分の懐に入れるほど、人生は甘くないということも当然理解している。
なんせ、これは希望と闇に包まれた、悪意のある代物なのだから。
だが――。
「は……? あ、当たった、だと?」
宝くじ店員さんにも驚かれその場は騒然となったが、幸運なことに周囲に人が居なかったこともあって、俺が高額当選したことは広まらずに済んだようだ。
うん。これはどうやら、やってしまったらしい。
たかが二十枚ぐらいしか買っていなかったというのに、こんなことってあるのだろうか。
ま、まあいい。
これで俺は生涯困ることなく人生を謳歌することが出来る。
仕事も辞められるし、あの大魔王から逃れることも出来る訳だからな。
うん。
こんな良いことは未来永劫無いぞ……たぶん。
そう、この時の俺は思っていた。
きっと、誰からも怪しまれること無く無事にスローライフを送れるだろうと。
しかし、勘違いしていた自分がバカだったことに気づくことも無く、月日は過ぎていき――。
年明け早々。
新年会を終え、自宅に帰宅するはずだった俺は会社に呼び出されていた。
オフィス内で冷や汗を流しながら正座をさせられている自分。
あれ。俺の前世って何だったかな。
出来れば草食だけは勘弁願いたいところだ。
野生の肉食獣に食われることだけは何としても阻止しなくてはならないのだから。
そう。きっとこれも何かの試練――。
「これは一体どういうこと? モブ君」
そうして、開口一番にそう言葉を発した女性が満面の笑みを浮かべながらドン! と俺が先ほど出した退職届を社長机の上に叩きつけ、社員の一員である自分に見せてくる。
若干声のトーンがいつもと異なっている時点で既に怖いが、ここで引いて降参となってしまえば俺の負けとなってしまうのでそれだけは絶対に避けなくてはならない。
自分の理念にも反するしな。うん。
「え、えーとぉ……こ、これには色々と事情がありましてですね」
「ふーん? じゃあ、その事情ってヤツを聞かせてもらえる?」
「しゃ、社長令嬢様に飼われるのも飽きてきたなーと思いまして。たまには違う飼い主を見つけて冒険してみるのもアリではないかなと……」
「あら、ここ数年で随分と生意気な態度を取るようになったじゃない。新人の時は私に甘えてばっかりだった癖に」
「いやいや、俺は早くアンタから離れてハッピーな人生を送るのが目標で――ヒィィィッ!?」
「ふふ。何か言ったかしら?」
「い、イエ。何でもゴザイマセン」
「じゃあこれは冗談かつ類稀なる物ってことで良いわね?」
「え、いや。もちろん、それは本物ですよ? 俺はこれからスローライフを送るために自由に生きると決めたので。それに、今日の夜もオタク友達と遊びに行く約束もしていますし――って、ちょ」
そう俺が言い切る前に、現在日本の中で上位を誇る大企業の社長令嬢——叶野美玖に退職届を木端微塵にビリビリに破かれる始末。
そして、近くにあるゴミ箱に捨てられてしまった。
おおう……なんてことだ。
きっと、今のこの光景を動画にして他の社員達に見せたら、きっと皆が絶叫してカオスになるか、あるいは化け猫扱いされて失望されることだろう。
もちろん、可愛い美人さんにいじめられて喜ぶ奴も中にはいると思うが……俺は決してそんなM気質は無いからな。勘違いするんじゃないぞ。
ま、まあいい。
久々にこの大魔王の新しい面も見れたことだし、仕返しとしては十分だろう。
うん、もう俺は満足だ。
じゃないと、多分この前みたいに酷い有様になるだろうからな……。
ってあれ。なんか思ってたのと違うぞ。
な、何なんだこれは。
「なにか他に遺言はあるかしら」
「いやいやちょっと待て、なんでもう俺のこと死人扱い!?」
「はあ? そんなの決まってるでしょ? それとも、教育係時代、直々に貴方に指導して育ててあげたのは誰なのか、もう忘れたのかしら」
「あ、アハハ。そんな時代もありましたねえ……」
「ちょっと。なんでそんな目線が泳いでいるのよ。昔、あんなに可愛がってあげたじゃない」
「いや、あれは可愛がられたというか、ただのスパルタ教育――ぐふッ!?」
思いっきり脇腹をつねられました。ぴえん。
というか、この退職届を提出してみたってやつ…全然ダメじゃん。
誰だよ。この方法で上手く行くとか言った奴は。
く、絶対に許さんぞ、俺は。
「で、でも俺に仕事を辞める権利というのは――」
「無いわね」
「お、俺に自由に生きる権利は――」
「この社長令嬢である私が貴方の管理人なんだから感謝しなさい」
「お、俺の代わりに先輩の猫になってくれる奴は――」
「バカなの? それにもし居たとしても絶対に却下」
そう言ってぷい、と顔をそらす美玖先輩。な、なんつー理不尽な。
ただただ俺はまともでかつ平和にこの世の中で楽な人生を歩んでいきたいというのに。
こんな朝早くから夜遅くまで仕事だなんてもうこりごりだというのに……。
「おおおお神よ……なぜこんなに哀れで可哀そうな俺のことを見捨ててしまったのか」
「普段からの行いが悪いからじゃない? 私の言うことにいつもギャーギャー文句言ってくるし」
「そ、それは社長令嬢様が俺に対していつもねちねち愚痴を言ってくるのが悪いんじゃ……」
「はあ? 別にねちねち言ってないし! それに勝手に話、すり替えないでほしいんですけど?」
く……なぜだ。どうしていつもこうなってしまうんだ。
高校時代はこんなに性格難ありじゃなく、もっと穏やかで優しい感じだったというのに……。
ああ。早く仕事辞めてスローライフを送らせてくれ。
いや、まじで頼むから。本当に。
俺は趣味に没頭する時間が欲しいのだ。
「とりあえず、もう次はないからね? それに、宝くじの件は全額、全て寄付するから」
「う、俺の平和な生活をエンジョイする企画が……!」
「あなた、私がいて何か不満でもあるわけ?」
「大ありだわ! まずお腹空いたからこれ食べたいーとか、夜中に仕事終わってさあ家に帰ろうって時に海に行きたいとかとんでもない無茶ぶり言うしさ!」
「私と一秒でも長く一緒にいることはあなたにとってむしろご褒美なんだから別に良いでしょ?」
「いや、俺にとってはご褒美じゃなくむしろ拷問なんですけど!?」
「でもあの時、貴方も楽しそうにはしゃいでたじゃない。つまり、それだけ私といるのが楽しかったってことでしょ?」
「いや。あれはむしろ苦痛でしかなかったというか……ヒィィッ!? な、何でもありません! め、メチャタノシカッタデスッ!!」
「ふんッ。今後は、私に口答えしないことね」
「う、うすっ。これからもしっかりとお支えしますっ! 美玖先輩!」
「裏切ったらハリセンボンだからね?」
「…………ハイ、ワカリマシタ」
「ちょ、ちょっとッ! 何よその間は!?」
これは、オフィス内で圧倒的な権力を持つ社長令嬢から逃げ続ける物語になるはずだったんだが……なんか想像してたのと違くないか。諸君。




