第275話 彼の宿願、彼の原因①
リャンター・フヴェルティーノは14になった年に家族も縁者も全て失った。
何の事は無い。『乱詛帝』に目を付けられて処刑された大貴族の生き残りなんて、当時は珍しくも何とも無かったのだ。
彼がたまたま生き残れたのは、母親が大貴族の妾だったからと、父と正妻が殺される間際に、彼だけはと神殿に放り込んでくれたからである。
妾の子と言っても、彼の場合は特殊な事情があった。病気で子が望めなくなった正妻からの要望で、彼女の親族から妾となる者が選ばれた事もあって――リャンターは正妻の事も尊敬していたし、正妻は複雑な心境ながらもリャンターを蔑ろにはしなかった。
せめて粛正された家族の魂の安寧を祈ろうと、ただそれだけを無垢に願っていたのに、神殿に入ったリャンターを待っていた末路は腐敗しきったハイエルフ達の慰み者になる事だけであった。
それこそハルハと言うハイエルフが密かに逃がしてくれなかったら――リャンター本人にも、己がどうなっていたか分からない。
命からがら神殿から逃げたものの、リャンターには頼れる家族も親族も友達もいなかった。彼があてども無く通りを彷徨っていると、突如大きな悲鳴が幾つも上がった。
「たっ、助けてーっ!!!誰か、誰か助けてーっ!!!」
暴走した馬車が通りを走ってくる。馬車の御者台には貴族の少年とおぼしき貴公子が乗っていたが、今にも振り落とされようとしていた。
何かを考える前にリャンターは馬車に飛び乗り、興奮している馬達を落ち着かせていた。
すぐさま貴公子の従者らしき者が幾人も追いついて、貴公子を馬車から引きずり下ろして怪我が無いか確かめている。
「そこの……彼のお陰で……ぶ、無事だ……」
リャンターは貴公子が漏らしていた事は見なかった振りをした。
「助かった。……これを受け取れ」
金貨三枚を従者の一人から手渡されて、リャンターはそれを手に立ち去ろうとした時だった。これで数日は寝る場所に困らないだろう事に、少しだけ安堵していた。
「待ってくれ!」
馬車の中で着替えたのだろう、新しい衣服を着た貴公子が彼を呼び止めた。
「きちんと礼をしたい、付いてきてくれ!」
「その……私は逃げ足以外の武術の腕前が全く無くってね……。あまりにも駄目すぎて、馬に乗る事さえ両親から禁じられたのだよ……。しかし、その……何だ、見合いの相手から『馬にも乗れない男なんてあり得ない』と3度も断られてしまってね……」
「はあ……」
「余りにも悔しいやら不甲斐ないやらで……。その、せめて馬車くらい行けるだろうと……思ってしまったのが……全く良くなかった……。私が怪我をするだけならまだ良かったのだが、巻き添えを出してしまう所だったから……」
従者達からもこれでもかと叱られ、まるで青菜に塩と言った顔の貴公子は、走る馬車の中でリャンターに事情を打ち明けたのだった。
「それがお分かりなら、私から申し上げる事は特にございません」
向かい合って腰掛けているリャンターは、次の瞬間背筋が冷える。
「――君は、貴族だね?」
言葉の抑揚か。彼の出自を見抜かれた!
「とある事情で辞めた者です」
「……これは私の独り言だ。ついこの前、フヴェルティーノ家も帝の気に障って粛正されたね……」
「……」
黙りながら、リャンターはどうやってここから逃げだそうか、そればかりを考えていた。
もしも神殿に連れ戻されたら、またあんな目に遭ったら……彼はもはや生きてはいられないだろう。
ただ、走っている馬車から飛び降りるのはあまりにも無謀と言えた。
しかし貴公子は声を潜めて、
「安心してくれ。私はネロキーア公家の者だ。コルスと言う。……君一人を匿うくらい、造作も無い」
「!」
ネロキーア公家。誰もが知る名門貴族である。
特にそこの跡取り息子である、このコルスは――強力無双にして優秀な皇太子ケンドリックとことさら懇意にしており、妹アマディナに至っては未来の皇太子妃、皇后になるだろうとまで噂されている。
ケンドリックの方がアマディナに惚れ倒している事は、貴族の間では有名だった。その上で、ネロキーア公家は一刻も早く(皇后もしくは皇太子妃の)実家となった方が良いとまで密かに言われている。
『乱詛帝』の悪政に相当な憤懣を抱いている皇太子がいずれ決起する――その時の後ろ盾としても遜色の無い家門だったから。
勿論、清廉潔白なだけの家では無い。しかし過剰な傲慢さも嗜虐趣味も無い。ひたすら質素倹約と人の間での信用を尊ぶ、貴族の中では驚く程に『まとも』で『真面目』な一族である。
「とにかくこのまま、我が家においで。悪いようにはしないから」
「エルフが……」
リャンターから事情を聞いたコルスは顔をしかめた。
「本来ならば帝や皇太子殿下に奏上して、聖地に正式に抗議すべきなのに……!」
それが現状では出来ないのだ。
「……帝は正気ではあらせられませんし、皇太子殿下は帝の代わりに政務を行われるので手一杯だと伺っております」
「……殿下はいずれ立たれる。このままでは帝国は、保たぬ故に……」
それを聞いてもリャンターは当然だろうなとしか思わなかった。
乱詛帝はあまりにも皇族や貴族を殺して、まるで世の中に対する恨みをそれで八つ当たりしているようだ。けれど政治に恨みを持ち込めば、それはいつだって――。
「なあ」
コルスは顔を改めて言う。
「リャンター、君もどうだ?」
「それは帝に……皇帝に対するクーデターの仲間に加われと言う事でしょうか?」
ネロキーア公家の跡取り息子がこれだけの情報を打ち明けておきながら、リャンターをそのまま放り出す事は決して無いだろうと分かっていたから、彼は冷静に訊ねる。
しかしコルスは首を横に振って、
「そんな程度で終わってたまるか。私はご覧の通りに武術も駄目だ、学問も大して得意では無い。けれどね私にはただ一つ、取り柄があるんだ。人相見については――これだけは私は誰にも負けないつもりなんだ」
「人相見……?」
「何を隠そう私の固有魔法が『人相見』でね。
幾ら富貴を極めている貴族でもどうにも私には苦手な顔がある。逆に貧民街の者でも面白いと思った者で外れた事は無いんだ。顔立ちが美形だとか醜形だとかでは無くてね。
それで、君の顔はとても面白い顔をしている。非常に珍しいのだけれど……『裏切るけれども裏切らない』、そう書いてあるんだ。どう言う意味かは私にもちっとも分からないが、裏切らないのなら是非仲間になっておくれ」
『裏切るけれども裏切らない』……どう言う意味だ?
この時のリャンターにも全く意味が分からなかった。彼がその真意を理解するのはそれから数十年後である。
「私で良ければ」
「君で無ければ駄目なんだ。有り難う!」
コルスはギュッと両手でリャンターの両手を握り、派手に喜んだが、
「それにしても、公然とリャンター・フヴェルティーノと名乗る訳にもいかない。何か名乗りたい名前はあるかい?」
ああ、この人は大好きだった正妻と同じ人なのだ、とリャンターは理解した。
出会って間もない彼の事さえ、きちんと気遣ってくれる、決して此の世から亡くしてはならない人――。
「でしたら……タルヤンと名乗っても宜しいでしょうか」
「RYANTARを書き換えて、TARRYANか。勿論だとも!」
貧民街でコルスが見つけてきた才能ある少年。
それが彼、タルヤンの新たな立ち位置となった。




