第26話 憧れと懐古は過去の彼方
最初こそ、男だから、未成年だからと疎んじていた娼婦達が、まるで弟か犬のようにゲイブンを可愛がり出したのもすぐだった。『ブンちゃん』と言うあだ名まで付いた。
『ゲイブンのブン』だと本人は思っているが、無邪気に尻尾をブンブンと振り回すみたいだからと言う事で、『犬の尻尾のブンブン』が実際の由来である。
無邪気に己がかつて素朴だが平和な農村で暮らしていた事を楽しそうに語るこの少年は、良くも悪くも世間知らずだった。男女の駆け引きも知らなければ、色恋も理解していない。代わりに娼婦だからと蔑む事も無く、姐さん姐さんと誰にでも嬉しそうに笑顔ですり寄る。料理も上手いし鶏を潰すのもためらわなかった。ネズミ退治も見事にこなす。
でも、とゲイブンは申し訳なさそうに言うのだ。
「ちょっとねえ、豚とか牛は……馬もですけど、おいら捌くのは駄目なんですぜ」
「いくら何でも遊郭でそんな大きな家畜を潰すなんて事は無いから、心配は要らないわ」
フェーアが呆れつつも答えると、せっせと掃除しながらゲイブンは愛想良く笑う。
最初は未成年とは言え男のゲイブンを娼婦の部屋に入れるのは誰も嫌がったのだが、掃除も丁寧で、かつ手早いので今では誰もが頼んでいるのだった。
「それなら良かったですぜ!特に牛と馬は、おいらの家族同然だったから……」
「へえ、そうだったの」
「へい!」ゲイブンはニコニコしている。「おいらの住んでた村って、馬で税金を払ってたんですぜ、近くに丁度良い野っ原もあったんで!」
「え、馬で?どうして?」
「ほら、数年前まで戦争だったから、軍馬が必要とされてたじゃないですか」
「そっか、そう言う事ね」
「馬って結構繊細な生き物だから、すーっごく世話が大変でしたんですぜ!でもお利口で可愛いヤツだったなあ……」
「へえー」と鏡に向かって化粧をしながらフェーアは生返事する。
「種付けとお産が特に大変だったんですぜ……気に入らないからって種馬が牝馬に蹴っ飛ばされて大怪我とか、難産とかあったんで」
「え、蹴飛ばされるの?」
初耳だった。フェーアが振り向いた先でゲイブンは顔をしかめていた。
「そうなんですぜ!牝馬の気分を当てるのに失敗したりすると、そりゃあもう……」
「気分を、当てる?」
ゲイブンはしばし考え込んで、
「えーと、えっと……あ!馬をですね、ちゃんと発情させるって事です」
「私の固有魔法……その、ええと。『発情』なんだけれど。生き物ならすぐにその気にさせられるわよ」
えーっ!とゲイブンは感動の声を上げた。
「凄いですぜ!フェーアさんがおいらの住んでた村にいたら女神様確定でしたぜ!」
「……ねえ、ブンちゃん。そんなにこの『発情』って大事だったの?」
「そりゃーもう!いきなり種馬がやる気無くしたり、牝馬と相性が悪かったりってよくあったんですぜ!……そんな時にその魔法があったら、親父もお袋も村のみんなもどんだけ楽だったか……!」
変な子、とフェーアは呆れつつ思った。
ただ、生まれて初めて『発情』と言う自らの固有魔法を社会的に明るく認められた。
その事に対して、彼女は一欠片も不愉快な感情を抱いていなかった。
不思議な、むず痒いような居たたまれないような――思いや言葉になる前の小さな感情が、今のフェーアの上には静かに、粉雪のように降り注いでいた。




