第263話 過去は消せなくても②
ロクブは気付いたら独りぼっちだった。親も兄弟も親類縁者もいなかった。地獄横町に捨てられた子供の行き着く先の一つとして『スーサイド・レッド』にそのまま入って、言われるがままに人を殺してきた。
孤独が此の世で何よりも人の心を蝕むものの一つだとしたら、ロクブは孤独に心の髄までを食い荒らされていた。
彼にとって『スーサイド・レッド』はたった一つの家族だった。人を殺す事より家族に見捨てられる事の方が怖い。その一心で何人も手にかけた。
罪悪感?
法律?
道徳はって?
それは孤独を埋めてくれるものなのか?
そのロクブの運命どころか性根が転換したのは、当時、一大権勢を振るっていたネロキーア公家の姫君アマディナの暗殺依頼が舞い込んで、それに大失敗した時であった。家族だと信じていた仲間の一人に裏切られたのだ。その仲間は直ちに粛正されたが、情報は既にネロキーア公家側に漏れていた。ロクブが仕事に赴いた時にはもう手遅れだったのだ。潜入には成功したものの、姫の寝台に寝ていたのは囮の女武官だったのだから。
ロクブは囚われて、すぐさま自殺も出来ないように処理された。もっとも、幾ら拷問を受けた所でロクブは依頼元を知らされてはいないので無意味だったが。
魔法封じの入れ墨を刻み込まれ、一通りの拷問を受けて衰弱した彼の元へ、運命を変えた糸が垂らされるのである。
「どうだい、そろそろ吐いたかい?」
ひょっこりと顔を出したのは、見るからに育ちの良い貴公子であった。
「これはコルス坊ちゃま!」ネロキーア公家に使える従者達が、疲れて座り込んでいたのだが、一斉に立ち上がった。「いや、それが……。とにかく坊ちゃまがこんな場所にいてはなりません。必ず結果をお届けします故、お戻りを――」
「おや……」
ところが、その貴公子はロクブに興味を持って近付いてきた。
これは好機だとロクブは思った。どうにかして、この貴公子を人質に取れば良いのだ!
「ご覧!まだ目に力がある。……ふむ……ふむ、良いね、これは良い!」
それからロクブは信じられぬ言葉を聞くのだ。
「気に入った!この少年は私が貰おう!」
「私には、自慢では無いが人を見る目があるのはご存じでしょう。面白いと見込んだ相手で外れた者はこれまで一人もいない。あの暗殺者は見込みがあります、どうか私に身柄を下さい」
「しかし……」
皇太子ケンドリックは明らかに嫌そうな顔をした。彼が溺愛し、しかも間もなく皇太子妃となるアマディナ姫に危害を加えようとした男を、何の咎も無く解放しろ等と――幾ら竹馬の友であり無二の親友コルスの頼みとは言え、簡単に『良し分かった』と頷けるはずも無い。
だがコルスは『はい分かりました』と従うどころか、
「そこをどうにか、皇太子殿下!」
「いや、ならぬ!」
『だめ!だめだめ!』と精霊獣タイラントが姿を見せて賛同する。
「では仕方ありませんね」コルスはそこでちらりと手紙を見せて、「妹から『ケン様』への恋文を預かって来たのですが……」
「何だと、寄越せ!」
ケンドリックは手を伸ばしたが、コルスは途端にすたこらさっさと逃げ出す。
「嫌でございまする。陛下が『良かろう』と仰せになるまでは!」
『ちょうだい!ちょうだい!アマディナの!ちょうだい!』
一緒にタイラントも追いかけ回したのだが――コルスは上手に逃げ回って、とうとう『良かろう』と言わせたのだった。
豪華な夕餉が出てきた上に体を拭いて貰ったので、ロクブはいよいよ明日処刑されるのだと覚悟していたのだが、翌日に連れて行かされた先は大きな屋敷の中にある学問所だった。明らかに貧民街の住民と思しき粗末な服の少年から、貴族の子弟らしき青年までもが机を並べて勉学に勤しんでいた。
講師達はその机の間を行ったり来たりして、彼らが質問のために手を上げると立ち止まって答えてやるのだった。
「ああ、来た来た」
その中には貴公子コルスもいて、彼は講師の一人として幼い少年相手に文字の書き方を教えていたのだが、ロクブの姿を見つけると近付いてきて、空いている机に座らせたのだった。
「はい、筆記具を持って。持ち方はこう。ちゃんと持ったらまずこうやって線を引いてみよう」
「何だよ!?俺に何をさせたいんだよ!?」
学問所に隣接する広い庭では武官志望らしき若者達が体を鍛えたり、武術の練習に勤しんだりしている。
その気合いの声や掛け声が激しく飛び交っていたのだが、彼らさえ何事だと手を止めてしまうほどの大声をロクブは出したのだった。
「何って、基礎基本の勉学だ。さあ文字を学ぼう」
コルスは怯みもせずに言う。
「でも!」
「おにいちゃん」その場で誰よりも幼い少年が、ロクブを諭すように言った。「ここでは、しずかにしなきゃだめだよ」
「……っ」
ロクブは言葉に詰まったが、ここで妙案を思いつく。
ここは大人しく言う事を聞いたふりをして、また暗殺の機会を狙えば良いのだ。
そうとなれば話は早かった。
「……こう、か?」
「ああ、上手だ。じゃあ次はこのお手本を真似して、文字を書いてみよう」
……おかしい。マズい!
ロクブが己の異変に気付いた時には既に手遅れであった。
大食堂で美味い飯を三食食べて、大浴場で汗を流し、夜は確りと寝て、朝早くの銅鑼で飛び起きる。朝から勉学に励み、体が凝った時は庭を走ったり同輩と相撲を取ったりして遊ぶ。寝る前に同輩達と隠れて札勝負をして、それに昼飯の肉料理の一品を賭ける。
そんな生活を二週間も続けていたら、彼はあれほど暗殺の機会を狙っていたはずだったのに、ネロキーア公家での生活が心底から楽しくなってしまっていたのだ。




