第227話 struggle jinx
クノハルが目を覚ました瞬間、目の前にあったのは乱杭歯の男ザイテの顔と、生臭い吐息と、短刀の切っ先だった。体は拘束されていて、自由なのは口だけだった。
「やあ、クノハルちゃん、大きくなったなあ。べっぴんになったもんだあ!……俺を覚えているかあ?」
「……ザイテ」
忘れるはずが無い。この男は、ある日、彼女と『無理矢理に遊ぼうとした』ために兄のロウと殺し合いになって、その後でいなくなったのだから。
被害者は彼女だけでは無かった。ロウは徹底的に隠そうとしたが、被害者達から彼女に向かって『どうしてクノハルちゃんだけ。どうしてなんだ!』と詰られて、知ってしまったから。彼らの親が地獄横丁に頼み込んで暗殺させようとしたものの、その直前に帝都から何処かに高飛びされたようで――それっきりだったのだ。
「やっぱり覚えていてくれたかあ!俺もまた会えて嬉しいぞお、クノハルちゃん!」
ザイテはニカリ、ニカリと嗤って言った。
「なあクノハルちゃん、取引をしようやあ」
「……何を」
「お綺麗な体のまんまで、お貴族様の所に嫁ぎたいだろお?何、とっても簡単さあ。――『シャドウ』って何だあ?少しは知っているんだろ、教えてくれよお、なあ?」
「……『シャドウ』……」
今は昼なのか、夜なのか。地下ではそれが分からない。せめて夜が近い事を彼女は願った。
「あんまりしらばっくれんなやあ」ザイテは嗤うのをぴたりと止めた。「ロウの周りを嗅ぎ回ったら、どうもその『シャドウ』ってのと随分と関係があるらしいじゃねえかあ?
『その仮面の者は不思議な武器を両手に宿し、闇夜のごとき黒い装束をまとって、この帝都に蔓延る邪知奸悪と戦っている』って、えらく変な噂まで貧民街に流れててよお」
「……」
「まさかロウが『シャドウ』なのかあ?彼奴は昔っから不思議な男だったからなあ……」
「……」
「へへへへ……」ザイテは舐めるようにクノハルを見つめて、我知らず舌なめずりした。「俺と出会った時のロウはなあ、とおっても可愛かったんだぜえ?」
冷静と無表情を貫いていた彼女の頭に一瞬で血が登った。
「貴様、兄さんにまで何をした!」
「おいおいクノハルちゃん、そう睨むなよお。怖いじゃねえかあ」ニカリ、ニカリとザイテは嗤ってベロリと短刀を舐めた、「ロウはなあ、貧民街に来た時、物乞いしてたんだよお。あまりにも可哀想だったから俺が拾ってやったんだあ。『よろず屋ザイテ』に住まわせてやって、面倒見てやって……だから、その分の報酬を貰ったって当たり前だろう?クノハルちゃんだって、そう思うよなあ?」
「……!」
「今でも思い出すぜえ、ロウの体あ……」うっとりと――恍惚とした表情をザイテは浮かべていた。涎さえ短刀に垂らしながら、「良いところのお坊ちゃんだったからだろうなあ、貧民街のくっせえガキ共と違って、反応が初心で、女かってくらい肌が滑らかで、本当に可愛くてなあ……何度だって俺は――ぐっ!?」
そこでクノハルが渾身の頭突きをした所為でザイテは転倒した。クノハルも転倒したが、構わずに怒鳴った。
「殺してやる!貴様だけは殺してやる!八つ裂きにして殺してやる!絶対に殺してやる!!!!」
「痛えなあ……」ザイテは短刀を片手に起き上がった。それからニカリ、ニカリと歯を剥いて獰猛に嗤い、「最後にロウの目の前でじっくりと嬲ろうと思ってたけどよお、その前に大人しくさせなきゃならねえなあ、こりゃあ」
思い切り蹴飛ばした後で髪の毛を掴んでザイテはクノハルを引きずった。
檻の向こう――『コロシアム』の上で先に殺された貧民街の住人の亡骸を見せながら、
「クノハルちゃんも、もうすぐああなるんだぜえ?」
それでも尚、ザイテを強く睨み付けるクノハルの目に短刀を近づけたのだった。
「クノハルちゃんだって嬉しいよなあ?大好きなロウお兄ちゃんとおんなじ盲目になれるんならよお!」
――きらり、と何かが輝いた直後にザイテに両腕が落ちた。
運良くその一閃を――両手を犠牲にしたものの躱して、逃げ出す事に成功したのはザイテの固有魔法が『直感』だったからだ。そのまま一目散に、一瞬も振り返ろうともせずにコロシアムの奥へとザイテは逃げていった。足跡のように血の跡が残った。
「しっかりしろ!」
すぐに拘束から解放されて、クノハルは痺れる両腕を咄嗟に擦った。
「ギルガンド……」
「逃げるぞ、走れるか」
「足が痺れて、」
「分かった」
彼女を抱えて、ギルガンドはすぐさま走り出す。
「何がどうなっている?」
「説明は外でする。精霊獣『ジンクス』が再び『スキル:カタストロフィー』を発動させる前に逃げる」
「分かった」
階段は飛び、隔壁は蹴破り、すぐさま二人は地上の光が見える廊下にまでたどり着いた。
しかし、そこには――。
「精霊獣!」
『ごめんなさい……』精霊獣『ジンクス』は謝りながら泣いていた。『貴方達を……この「コロシアム」から逃がしては駄目だと、言われてしまったの……』
「隙を作る、先に行け」
ギルガンドはクノハルに囁いて、クノハルは視線だけで頷いた。
『許してなんて言えない……全部、全部、わたしがここに存在している所為、だから……』
襲い来るギルガンドに向けて、『ジンクス』は告げた。
『貴方達まで、「不幸」にしてしまう……!』
斬りかかったギルガンドが、謎の力で弾き飛ばされた上に、その力を奪われる。
「ギルガンド」と咄嗟に足を止めかけたクノハルに、
「行け!」と軍刀を支えにギルガンドはどうにか起き上がって、冷酷に告げた。
「でも、」
「邪魔だ!」
クノハルは唇を噛みしめて、そのまま走った。
どうにか日の光の元に、帝国十三神将が率いる精鋭部隊と野次馬達が囲んでいる外に出られた彼女の背後から――『ジンクス』の消え入りそうな声が聞こえた。
『ごめんなさい……本当に、みんなを「不幸」にしてしまって、ごめんなさい……』
直後。
こじ開けられていたはずの隔壁が全て落ちた。『コロシアム』への潜入経路が全て再び閉ざされたのだ。
クノハルが思わず背後を振り返った時には、そこには分厚い扉があるきりで、その向こうにギルガンドの気配すらしなかったのだった。
――精鋭部隊は驚愕したし、対策を練り直す事となった。『闘剛』もそうだが、反対を押し切って単独で突入したとは言え、かの『閃翔』さえも捕らえられてしまったのだから。
まさか彼ら程の歴戦の猛者でさえ、精霊獣『ジンクス』の相手にならなかったとは。
それでも『幻闇』が二人の救出のために潜入すると進み出たが、あまりにも危険すぎますーと『睡虎』が抑え込んだ。
……クノハルが天幕の中で手当を受けて、『睡虎』らに事情を話した後。じっと仮設の寝台に横たわっていると、天幕の入り口に立っていた精鋭部隊を押しのけるようにして、ようやくロウが登場したのだった。
「――クノハル、クノハルは何処だ!?俺のたった一人の妹なんだ!」
『無事よ、クノハルは!大丈夫、手も足も目も耳も指も全部付いている!ちゃんと生きているわ!』
「兄さん、兄さん……!」
ロウに抱きしめられて、クノハルはいつの間にか声を上げて泣いていた。
「ごめんね、ごめんね、お兄ちゃん……ずっとごめんね……ごめんね……」
「気にするな。クノハルのためなら何だって平気さ」
まるで迷子になった後の幼い少女のように、兄に頭を撫でられながら、クノハルはワアワアと泣きじゃくるのだった。
「ギルガンドがつかまったの、わたしをかばったから……このままじゃころされちゃう……!」
「あの男は人間相手には負けない。相手が、精霊獣だったんだな」
『そう……あのプライド高過ぎ男、「ジンクス」相手でもクノハルを守りきったのね。ちょっとはこのパーシーバーちゃんも見直したわ!特別に、褒めてあげるんだからねっ!』
「うん……。おにいちゃん、ギルガンドをたすけて、おねがい……」
「それが……クノハルの選択なんだな?」
「うん。……おにいちゃん、ごめんね」
「いいや、謝る事なんて何も無いんだ。何だってクノハルの選択を俺は大事にするさ」
クノハルが泣き止むまであやすと、いつものようにロウはふらりと天幕から出た。
『じゃあ行きましょ、ロウ!この前バズムお爺ちゃんと大勝ちした時に胴元から情報を提供させた、あの秘密の地下通路を通りましょ!』
寂しそうに、少し嬉しそうに――ロウは微笑んでいる。
「本当は俺の手でギルガンドを殺してやりたいくらいだが、クノハルの選択じゃあ仕方がないな……」




