第205話 愛してやまぬ
帝国十三神将が一人『財義のロクブ』には妻女ニチカがいる。彼女は、下級の貴族――と言うよりは、それなりの商人として名が知れている家の出であった。
ロクブは彼女に対して皆目頭が上がった事が無く、可能な限り、定時で早々に仕事を切り上げて家に一目散に帰るので、とんでもない恐妻を貰った哀れな男だと一般には思われていた。
うっかり下心で娼館に遊びに行こうものなら、きっと笞を振り上げて家中を追われるに違いない、と。
二人には生意気盛りの息子と夜泣きをする頃の娘がいて、官舎に住む者が度々泣いている娘をあやしながら官舎の前後を行ったり来たりする彼の姿を真夜中に見かけていた事も、その噂の信憑性を高めていた。召使いも乳母もちゃんといるのに、昼間も働いている彼がそれをやっているのだから。
この噂を一回だけロクブ本人が耳にした時――その丸っこい体格そのものの人当たりの良さで、部下の一度や二度の失敗も鷹揚に受け止めるこの男が、突如、蛇のような目をして、じっと、噂をした張本人達を見つめた。
そのまま、温度の無い、酷く乾いた声でこう告げた。
「ねえ、ねえ、有象無象を言っちゃいけないよ、君達。私はね、ニチカさんに頼み込んで来て貰ったんだ。二度とそれは言っちゃあいけない……」
「帝都の貧民街への流入が止まらなかった戦災者の数が最近では減少傾向にあるとか。どのような対策を講じられたので?」
閥族貴族と、官僚試験上がりの一般官僚が両方参加する定例の会議で、ロクブは資料の所定のページを開くよう言ってから、話し出す。
「ええ、ええ、ノーフォーレザの一帯で働き手が切実に必要でして、期間限定で皇室御用達の商人の下りの輸送船の運賃を半額にしたんです」
「では『財義』殿は皇室御用達の商船に卑しい平民を乗せたと言うのか!」
想定内の閥族貴族からの問責に、ロクブは冷静に答える。
「陛下よりご許可を賜っております」
「その陛下はまだお若い。佞臣に不幸にして誑かされたとしてもご無理も無いであろう」
「ええー、ええー……陛下は私共に『それで宜しい』と仰せでしたので」これがフォートンだったら、『偉大なるガルヴァリナ帝国の主である陛下を若輩者と侮る貴公こそ佞臣のお手本でしょうな』くらいはすぐさま言っていたが、そこはロクブは世間慣れしていた。「それで、皇室御用達の商人に対する補填ですが――」
「この『入れ墨潰し』め!卑しい身だから卑しい事を思いつくのだ!」
しかし突如として若い門閥貴族が叫んだ所為で、議場の雰囲気が一触即発になったのだった。宰相の『礼範』までもが一瞬険しい顔をした。
「言葉を選ばれよ!」
同じくらい年若い官僚が激高しかけたのを素早くロクブは視線で落ち着かせて、
「まあ、まあ。それについてはまた後にしましょう、モルド公もウツラーフ公もそれで宜しいでしょう?」
並み居る貴族の中でも今、誰よりも権勢を振るっている、皇后ミマナと皇后レーシャナのそれぞれの実家の当主に、確認したのだった。念のため『毒冠』も見たが、わずかに頷いて返してきた。
「無論」
「異議なし」
そうして議場が落ち着いた所で、
「次の議題ですが。マーロウスント王国の反王家派がマーロウスント『公国』を勝手に名乗って独立した一件にまつわる緊急報告が、ホーロロ国境地帯より来た件について――」
彼は愛想良く会議を続けさせるのだった。
夕飯時の少し前にロクブが家に帰ってくると、大騒ぎだった。
「貴方!早く後片付けと掃除をしてー!目を離した隙にタロディーがオモチャ箱をまた引っ繰り返したの!おまけに壁に落書きまで!」
その瞬間に、ニチカが抱き上げている娘が腹ぺこを知らせるかのように大声で泣き出した。
「おや、それは大変だ!すぐに片付けるよ」
ロクブが慌てて子供部屋に向かうと、惨憺たる有様だった。
さぞや息子タロディーは楽しかっただろう。
「こりゃあ酷い、ああ、ああ……」
慌てて片付けを始めた所でうっかり小さなオモチャを踏んづけてしまい、痛みに悶絶する彼の背後で、叱り倒すニチカの声と息子の泣き声がする。
思わずロクブは足をさすりながら声をかけていた。
「ねえ、ニチカさん、そのくらいにしておやり、空腹の時に叱られるとどうにも不満だけが溜まる。私からも後で良く叱っておくから」
「何を言っているの、一昨日に貴方がしっかり叱らなかったからでしょうが!」
「だって、その……可愛くて、叱れなくて」
「貴方!それでも父親なの!」
「許してくれ、ニチカさん!?ひい、ひいいあっ!?尻を蹴るのはどうか勘弁してくれ!」
「全くだらしない!」
そこで――乳母に娘と息子を託して、先に食卓に連れて行くように頼むと、ニチカは夫の側にかがみ込んだ。
「何があったの、貴方」
「……ねえ、ニチカさん」ロクブはぽつりと呟いた。「私なんかの側にいてくれて、本当にありがとう……」
確かに、彼女は恐妻と呼ばれる女なのかも知れない。
文字通りに夫の尻を蹴飛ばすような、極めつけの鬼女。
だがロクブにとっては、たった一人の救いの女神で、真っ暗な闇の中に差し染める一条の温かな日の光なのだ。
彼女と言う蜘蛛の糸がなくなれば、彼は何度だろうと血の池地獄へ真っ逆さまに堕ちるだろう。
「……また、暴かれたのね」
背中に当てられた手の温かみに、彼はまた穏やかに笑う。
「何時もの事さ。それに事実だもの。でもニチカさんが元気なら、それだけで私は明日も笑っていられる」
「貴方……。駄目よ、子供達もいるのよ?」
「うん、うん……よく分かっているよ。さ、早く食べないと冷めてしまうし、子供達が可哀想だ。もう、行こう」




