第172話 娘と息子の苦労
「母御前が本当にご免なさい!」
その半日後、顔を青くしたコトコカが『黒葉宮』まで謝りに来た。本当はトウルドリックも謝りに来るはずだったのだけれど、軍の方で急ぎの書類仕事が入ってしまったのだそうだ。
「貴女がたが謝る必要など、何処にもありません」
「ええ、それにテオ様も言い過ぎましたから。もうこれ以上は止めましょう」
ユルルアちゃんがサポートしてくれて、やっとコトコカは顔を上げたのだが。
「どうせ……母御前は私達を褒めていたでしょう?」
「『どうせ』って……」
相当な事情があるみたいだ。
「母御前はいつもそう。誰かと比較する事でしか物事を捉えられないのよ。私達も散々にされてきたから……」
少しだけため息をついたコトコカが、一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「どうして私達が真っ当に育ったのかしらって顔ね、テオドリック。一人だけ味方をしてくれた女官がいたのよ、もう馘首にされてしまったけれども……」
「その女官の名は?」
「ネレーよ。ネレー・ノエム。実家からも追い出されてしまったらしくて、今、何処にいるかも分からないわ。でもね、彼女のおかげで私達は私達として生きていられる……」
何処かで聞いた事がある名前だと思ったが思い出せなかった。
でも、ユルルアちゃんがオレ達の袖を引っ張った。
「どうしたんだ……?」
コトコカに聞かれないように訊ねると、
「眠らされた娼婦の中に、その名が!」
「!」
思い出した!
『フェイタル・キッス』で眠らされた娼婦の一人だ。
「どうしたの?」
コトコカが不審そうな顔をする。
「コトコカ、もし、もしもその女官に会えたら如何されますか?」
「もしも再会できたら、私に付いてきて貰うわ。私ももうすぐ政略結婚しなきゃいけないだろうから、その嫁ぎ先まで。
ネレーはね、愚かしい女官だったわ。他人事として切り捨てるべき事を我が事のように捉えてしまう愚かしさがあったの。
……それでも私達は、その愚かしさが本当に好きだったから」
「そう、ですか」
暗くなってしまった雰囲気を変えるように、コトコカは笑う。
「出来れば政略結婚の相手は大金持ちの老人の後妻だと良いわねえ。すぐに自由になれるだろうし、子供を産めと強いられもしないでしょうし。何よりお金があれば好きな事を好きなようにやれるもの。母御前達みたいに誰かと比べる事でしか威張れない人になってしまうなんて、人生がつまらなくなってしまうから」
「貴女も人生においてやりたい事があるのですね」
「書が好きなの。誰かが書いたものも自分で書く事も。化粧もしない癖にって母御前には言われるけれど……はあ、いっそ陛下に志願してホーロロに行こうかしら。あそこは辺境だけれども、上質紙の産地で有名ですもの」
「志願して?……彼の地で何があったのですか」
『逆雷』が急ぎ戻ってきたと言う事は、何かあったんだろうと思っていたが……。
「ああ、テオドリックには知らされていなかったのね。実は今、ホーロロの部族衆から、我らが帝国の要求を呑む代償として、皇族から人質を一人は寄越せと言っているらしいのよ」
「でも、人質なんて……」
仮にコトコカが赴いたとしても、彼女が望むような対応をされる訳がない。
「分かっているわ。あくまでもここだけの話よ」
コトコカは寂しそうに微笑んだ。
「でもね、母御前の近くにいると、それだけで私達は心が削られるから……」




