第169話 芸術家のさだめ
ヴェドの固有魔法は『温度』である。己を含む周囲の物体の温度を自在に操るのだ。最初は寒い時に手を温めたり、暑い時に背中を冷やしたりが限度であったが、何十年もかけて鍛える内に、飴のように鋼鉄を溶かす事から、流れの激しい河をも一瞬で凍らせて道を作る事も容易に出来るようになっていた。
加えて彼の極め尽くした体術と剣術が、文字通りに帝国最強の一角を担うに相応しい高みへとヴェドを押し上げていた。
まともに彼と正面切ってやり合う事が出来る者は、彼の攻撃を回避しきれる程の俊敏さを持つギルガンドしかいなかったのだ。
誰よりも驕慢で烈しい気性のギルガンドだったが、好敵手であるヴェドとは不思議と仲が良かった。
寡黙で秘密を護る事を何よりも重んじるヴェドの――その真冬の霜のような厳しさと強さを、ギルガンドは心底から気に入っていたのである。
逆に、帝国十三神将の中でヴェドと最も相性が悪いのはフォートンであった。
「ギルガンドのようにとは言わないが、もっと自己主張されたら如何か。この帝国城では、黙っていれば相手をつけ上がらせて、己を侮られるだけです」
どう言われても、ヴェドは自己主張だけは下手くそだし苦手なのである。
秘密を護る事を重視する性格のためが理由の半分だったが――残りの半分は、かつて己が少年だった頃に、どうしようもなく長すぎる自己紹介をした瞬間、哀れみと好奇心の混じった視線が周囲から突き刺さった記憶があるからだった。
彼は今日も酷く寡黙に職務を果たし、皇太子ヴァンドリックに忠実に仕え、夜はシューヤドリックの住まう『丹碧宮』に帰る。静かにシューヤドリックの側にいて、彼が美しいものを愛で、美しいものを生み出そうと努めるのをそっと見守る。
「礼を言う、おかげで今日も愉快に過ごせた」
シューヤドリックは病床にあった。
元々、美の女神と芸術の女神達に愛された者の宿命であるかのように、若くして不治の病にかかっていたのが、最近になって酷く悪化したのだ。
人に感染する事だけは無いが、今の医療技術ではどうしようもない病である。
「いえ。何も出来ず申し訳もござりません」
トキトハが頭を垂れるが、シューヤドリックは笑い声を上げた。
「止めてくれ、私は最期まで美と絵の中で愉快にやりたいのだ。なあ、ヴェド?」
「っ!?」
トキトハが気配も無く、背後に立っていたヴェドにやっと気付いた。
そのまま黙って、『お前の存在が何よりの薬だ』と聞かれないように心の中で呟いて、彼女は静かに下がって行った。
シューヤドリックは秘蔵の美酒と珍味を宦官に運ばせて、
「ヴェド。一杯やろう、今夜は月がまたとなく美しい」
「――それで、バズム叔父上が仰るには、大層面白い書を持つ者を連れてくるそうだ」と愉快そうに微笑んだシューヤドリックだったが、顔を改めた。「どうも……深い事情があるらしい」
ヴェドは呟く。
「『逆雷』は、殿下の病状を知らないのでは」
シューヤドリックは再び微笑んだ。
ヴェドの苦しみや悲しみを、どうかこの今だけは忘れてくれと頼むように。
「知られたくは無いのだよ。叔父上との思い出は今となってはとても楽しいものばかりだ。それを手に負えぬ悲しみで汚したくない。何、馬に跨がれだの剣を持てだのとまた仰せになる事は無いだろう。私で役立てるなら喜んでやってやるとも」
「……」
ヴェドはもう己の言葉が意味を為さない事を、悲痛な程に理解していた。
シューヤドリックは既にヴェドのいる場所にはいないのだ。今も隣にいて、ヴェドの手がすぐに届く範囲にいるのだが、心の中では遙か彼方の月の世界へ身を投げてしまっているのだ。
己の間近の死を覚悟し静寂の中で受容しているシューヤドリックの幽玄の境地と、少しでもシューヤドリックの命を繋ぎ止めようと泥中でのたうっているも同然のヴェドの渇望の現状は、二度とかつてのように親しく交わる事は無い。
むしろヴェドがシューヤドリックを唯一無二の存在だと思えば思うほどに、手放したくないと願えば願うほどに、神々にもう少しだけこの人の命を長らえさせて欲しいと傲慢に祈れば祈るほどに、二人の間は為す術無く遠ざかっていくのだ。
「……我儘な私を、それでも尊重してくれるのだな。礼を言う」




