第167話 名前の長い男
ヴェドールッススマルスリアザノンテークイオスイオスグルフトテナーシスカンブロヌシウスクルトラケッスス・ノルシン――と言うのが『峻霜のヴェド』の本名である。
上の兄達は、跡取りとして、もう一人は地方の行政府で文官として働いている。もう一人姉がいたが、幼い時に病で亡くなっている。そのすぐ後に、ヴェドは地方貴族のノルシン家の三男坊として生まれた。
ノルシン家は小物ばかり生まれる、と言われる。何故か一族は、揃って気性が臆病で、体格も人より小柄な者ばかりであるのだ。
そこに、突然変異なのか何なのか、原因も理由も謎だが、長身で屈強な体格で、寡黙ながら何事にも動じないヴェドが生まれたのには、一応、訳があるらしい。
一人娘が幼くして死んだ事で悲嘆していた所に、三男坊の彼が生まれる前に母親が不思議な夢を見たのだそうだ。それがきっかけで、ここまで長ったらしい名前が彼に付けられた。
その夢では、威厳のあるひげ面の武官が登場して、母親にその腹を借りたいと申し出た。そして、生まれた子に長い名前を付けてくれれば必ずや出世して恩を返すと誓った……らしい。これは神々のお告げと信じた両親は、彼が無事に生まれる事と無事に成長する事を願って、ここまで長い名前にしたのだそうだ。
ただ、己の名前の中にマルスリアザ闘神とイオスイオス太陽神と叡智の女神テナーシスの名まであるのは、幾ら何でも親の期待と欲目が過ぎるとヴェドはこっそり思っている。
しかも長すぎる名前故、実際、その親でさえ彼の名前の全てを読んだ事はほんの数回しかない。
そのため、いつもヴェドと呼ばれ、彼自身もヴェド・ノルシンで通してきた。
ヴェドは、いわゆる神童であった。
頭の良さと武術においては末恐ろしいとまで言われていたくらいであった。
彼は16の年に下士官として地方の軍に所属してから、めきめきと頭角を現して8年後には帝国城の親衛隊に抜擢される異例の大出世を遂げた。
華々しい経歴に無双の実力を備え、しかも見目も麗しくあったのに、彼はいつも寡黙で、無表情な男であった。
誰にも言えたものではない、重大な秘密があったのである。
地方にいた時、ヴェドは、同期の若い下士官達で連れ立って娼館に繰り出した事がある。半ば度胸試し、半ば下心を兼ねた若者達特有の悪ふざけのようなものであった。
――が、彼はそこでとうとう自覚してしまった。
前々からおかしいとは思っていた。薄々そうなのではないかと怯えていた。
それが現実となってしまった。
どうやっても彼は女を愛せなかったのである。
それまでどんな強敵を相手にしても恐怖なんて大して感じた事が無かったのに、彼は生まれて初めて冷や汗にまみれた。訝しがる娼婦相手にどう誤魔化そうかと頭を巡らせた挙げ句、酒に酔いすぎて気分を悪くして戻してしまった、と言う醜態でその場は瀬戸際で取り繕ったのだ。
それから彼はますます寡黙になった。修練にとことんのめり込むようになった。
他の下士官達は娼婦相手に酔っ払って醜態を見せた事で、きっと矜持が傷付いたのだろう、と気の毒がったが、現実にヴェドを傷つけて常に追い回していたのは、絶対に隠したい秘密が何時何処で暴露するかも知れない『恐怖』であった。
帝国城に栄転して親衛隊として勤めるようになっても、彼のその姿勢は変わらなかった。寡黙で動じず、常に実直、まるで厳冬の霜のような男だ、と誰もが思っていたが――当の彼はいつだって唯一の秘密がいつか暴露されるであろう事に、全身全霊で怯え続けていた。
そう言う意味では、彼もノルシン家の臆病を強く受け継いでいたのだろう。
そのヴェドの運命が大きく変わったのは、『赤斧帝』の異母弟の一人である皇子シューヤドリックと出逢った時である。ヴェドより10ほど年上の、いつも物憂げな印象を与える物腰の柔らかな男であった。
シューヤドリックはよく帝国城の庭園に出て、花木や鳥や行き交う官僚や女官、宦官達を写生した。寡黙なのが五月蠅くなくて良い、とシューヤドリックにヴェドは気に入られてよくその傍らで警護にあたった。
シューヤドリックは水彩画と水墨画を何よりも得意とした。美を愛する者達からは、彼の水彩画はまるで硝子の中にもっとも美しい時期の花木を閉じ込めたようだ、彼の水墨画は一つの謎かけをその中に秘めているようだと評されて、富裕層にとっては家に一枚は飾る事がステータスとなっていた。
その水墨画を描いている姿を見て、ヴェドは気付いた。
――この方の謎かけは、もしかすれば己が抱いている秘密と同種なのかも知れない、と。




