第121話 帝王たらしめるもの
「私はもう後に引けないし、堕落する事も出来ない。テオの献身と犠牲と愛は俺にとって究極の祝福であり最愛の呪禍となった。救われてしまったからには、私は一生を皇帝として生きるより道は無いのだ!」
その日も皇太子ヴァンドリックが精力的に政務をこなし、夜遅くに疲れ果てて東宮御所に帰ってきた時、真っ先に出迎えたのはすっかり腹が膨らんできたキアラカ皇太子妃だった。
「御政務に励まれさぞお疲れでしょう、湯殿の仕度が調ってございます」
「……頼む」
彼は臣下には決して見せぬ、疲れ果てて弱々しい顔を見せて、キアラカを連れて湯殿に向かった。
「キアラカ、具合はどうだ?」
「少し悪阻で気分が悪いくらいで済んでおります。早くこの子に会いたいですわ」
そう言って嬉しそうに腹を撫でる彼女の姿に、ふ、と彼は目を細めた。
「良かった。どうか体を大事にして過ごすように。それでミマナ達は……」
「ええ、お二人とも特赦の件で忙しくされています。でも、今日もあんなに良いものを頂きましたのよ」
そう言って彼女は涙目になり、腹を冷やさぬための絹で出来た腹巻きと足を冷やさぬための柔らかな室内履きが二人から贈られた事を話した。
「私は平民上がりの女なのに、こんなに良いものを頂いて……お返しが出来ないのが申し訳なくて……」
こら、と優しい声で皇太子はキアラカを叱責する。
「良いか、君は君にしか出来ぬ事があるから私の妃の一人になって貰ったのだ。その君を君自身が卑しむ事は、私の名誉を毀損する事と等しい。どうか分かってくれ」
「……ええ、ええ!」
ついに感極まって泣き出した彼女を優しく皇太子は抱きしめて、落ち着くまで慰めるのだった。
『ヴァンが執着している女はいつまでもミマナだろうに、よく言うものだ』
己に従う精霊獣の呆れたような声に、皇太子は湯に浸かり、のんびりと手足を伸ばして洗髪を宦官に任せながら心の中で答える。
(そのミマナが選んだ女だ。僅かにでも蔑ろに出来る訳がないだろう)
『……出来れば女が生まれると良いな。男であればミマナが育てねばならなくなる』
(オラクルは女だと言っていた。出来れば私もそうあって欲しいと思っている)
『産んだ子を奪われる女など哀れでしかないからな……』
(ミマナとの子は……どうにもこうにも男が欲しいものだ)
『レーシャナとは?』
(出来れば女だ。だが……男でもどうにかなるだろう)
『ははは、所詮は子を産まぬ我々の与太話でしかないぞ』
(……それでも、無事に産ませ、健やかに育てるのは我々の務めだろう?それが出来ぬなら子供など望まぬ事だ)
精霊獣『ロード』の声音が少し変わった。
『……ヴァンよ。「赤斧帝」を恨んでいるのか』
(………………恨みでは、ない)
同母弟の犠牲と献身によって、彼の魂は恨みや憎しみを欠片も抱けないようにされてしまったのだ。憎悪と怨恨の種がいくら彼の中に撒かれようとも、それらが芽吹く事は永遠に無いと断言できる。
彼は、そう言うものから徹底的に救われてしまったのだ。
『そうだ。聞け、ヴァン。
天下人を天下人たらしめるには何が必要だと思う。武力、経済力、人脈、知力、運?それとも才能か?いや、魅力か?――否、それら全てを備えていても天下人になれぬ者が大半であった。
その答えは簡単である。敵を赦せる度量を持つか否か、これだけだ。敵と戦い敵を倒す、これだったら「天才」にならば出来る所業だ。だが「天下人」はその敵を赦し味方に引き入れなければならない。拒むのではなく受け入れる広さなき者は、いずれ逆に拒まれ滅ぶ定めにあるのがこの世だ。
それを鑑みた上で――ヴァンは自らをどう思っている?
我から見れば、ヴァンよ、お前は敵であった「赤斧帝」の部下を赦し己の味方にしてしまった。これこそお前を天下人、世に普く唯一の帝、諸王の王たらしめる所業であるぞ』
(その私でも未だに巧く飲み込めぬ事は……ある)
『……テオか』
その救済は、彼の魂に深く刻み込まれた――哀しい祝福であり、美しい呪恨となっている。
(……。私には、まだあの面影を月に見やる資格が無い)




