第16話 恥ずかしいですわ!
静まり返った場を切り開いたのは、またしても猫の鳴き声だった。
ミャーミャーという鳴き声にハッとしたピンク髪の女の子が口火を切る。
「ご、ごめんなさい。見苦しかったですよね。私、あの猫を助けようと思って……」
木に登ろうとしていたところを見られてバツが悪いのか、ピンク髪の彼女は早口で説明し始めたものの、徐々に声が小さくなっていった。
「私何を言ってるんだろ。ごめんなさい。とにかく助けてきますっ!」
そう言って彼女は再び木に向き直る。
「ちょっと待って!」
「大丈夫です! 私、少し前まで平民だったので、木に登るのなんかへっちゃらです」
今にも木登りを始めそうな女の子にシェルリンはなるべく早く近づき、もう一度「待って」と声をかけた。
「落ち着いて。大丈夫。あの猫は任せて」
「え? でも貴族の方に木登りさせるわけには」
「登りません! それに最近まで平民だったかもしれないけれど、あなたも今は貴族でしょう。とにかく、任せて。ね!」
「私も貴族の記憶なんてないけれど、今は貴族なんだから前が平民かどうかなんて関係ないわよ」とシェルリンは心の中で付け加える。
とにかく困った時は、笑顔。
シェルリンはにっこり笑って、風の魔術を発動させた。
ふんわりした風が猫を包み、そのままシェルリンの両手へと運んでくる。
猫はよほど怖かったのか、シェルリンの腕の中で身を固くしていた。
よかったとピンク髪の子が駆け寄ってくる。
「ありがとうございます。見てください。猫ちゃん無傷です!」
彼女はシェルリンに礼を言い、未だに少し距離のある場所に立っていた茶髪の女子学生には手をぶんぶんと振りながら嬉しそうに報告した。
何それ可愛い。
茶髪の子はどう思っただろうとそちらに目を向けると、彼女は胸を鷲掴み、はーはーと必死に息を整えていた。
え、大丈夫?
彼女の普通じゃない様子にピンク髪の子と顔を見合わせる。
「あの、大丈夫ですか?」
ピンク髪の子が声をかけるが、声が届かないのか苦しんでそれどころじゃないのか茶髪の子は胸を押さえたまま。
「貴女、大丈夫?」
今度は二人で近づいて話しかけてみた。
パッと顔を上げた彼女がシェルリンの顔を見て声を上げる。
「ぎゃあ! あ、あく」
「あく?」
顔を見ただけで悲鳴をあげられるなんてちょっとショックだ。
それよりも彼女はさっきもシェルリンを見て「あく」とかなんとか言いかけていた。
あくってなんだ。
「あ、あ、あく……そう、握手! 握手してください!」
勢いよく手が差し出されるとともに、彼女は深く頭を垂れる。
九十度直角だ。
確かこの深いお辞儀は、相手の方に頭や首という弱い部分を差し出すことで、自分のことはいかようにも使ってくださいという意味があったはずだ。
大抵は謝罪や懇願の時に使われ、自分にできることならなんでもするので許してください、なんでもするからどうかお願いいたしますといった意味になる。
え? それほど握手したいの?
それともシェルリンの常識が変なのだろうか。
シェルリンが自分を疑ってしまうのも仕方ない。
だってシェルリンには記憶がない。
このお辞儀の意味に関してもノートを読んだからわかるのであって、実際にこのお辞儀を見たことはないのだから。
もしかしてあのノート間違っているのではと思い始めた頃、何故か隣にいたピンク髪の子もがばりと頭を下げて、手を出して来た。
「私も握手してほしいです!」
なんで!
シェルリンは確信した。
やっぱり私が勉強したマナー間違ってるんだと。
だって二人もこうしてお辞儀をする人がいる。
この学園に来る時点で二人とも貴族。
もしこのお辞儀をしたのがピンク髪の子だけだったとしたら、彼女はこれまで平民だったというから、もしかしたら貴族のやり方に慣れていないだけと思っただろう。
けれど実際は二人とも躊躇う様子もなく、ガバリと頭を下げた。
だから間違っているのはきっと自分。
ここでは握手する時はこのお辞儀なのだ。
「それはもちろんいいけれど」
なんとか頭の中の混乱をおさめて、返事をする。
握手をするのはもちろんいい。
今会ったばかりでシェルリンのことは知らないだろうから、これからよろしくね! という軽い挨拶なのだろう。
けれど、シェルリンの腕の中にはまだ身を固くしたままの猫。どうも片手を出す気になれない。
かちこちの猫はシェルリンが片手で抱いても、落ちずに、逃げずにいられるだろうか。
シェルリンには猫と触れ合った記憶がないので、どうしたらいいのかわからない。
そのうち、歯切れの悪い返事を聞いた茶髪の子が顔を上げた。
良かった。
これが握手の仕方だと理解しても、二人に深く頭を下げられているのは少し居心地が悪かった。
そう思ったのも束の間、顔を上げた茶髪の女子学生が再び「ぎゃあ!」と大きな声を上げた。
二度目である。
その声に驚いたのか、シェルリンの腕の中にいた猫がシャーと一声鳴き、身をよじって飛んでいく。
「ひゃっ!」
猫が飛んだ拍子に、シェルリンは後ろへ体勢を崩した。
すぐさま背中に手が添えられ転ぶことはなかったが、突然のことにシェルリンの胸がバクバクと音を立てはじめる。
あー驚いた。でも、二度も悲鳴を上げるなんて何事……。
怖がらせたつもりはないのだが。
思い返せば彼女はシェルリンの少し背後を見ていた。
も、もしかしたら……何か霊的なものが見えるとか?
そこまで考えて、ぞーっと鳥肌が立った。
確かに今後ろに転びそうだったのに、シェルリンは体勢を持ち直した。
まるで後ろの誰かが支えてくれたよう……。
目の前の二人を見れば、二人とも目を見開いて固まっている。
え、本当に?
「シェルリン、大丈夫か?」
「ユリウス殿下!?」
突然声をかけられて心臓が飛び出るかと思った。
振り返ってユリウスだとわかり、咄嗟に一歩離れる。
きゃーと声を上げなかった自分を褒めてあげたい。
ぐりっ。
左足がへんな方向に曲がった。
口には出さなかったが、身体はよろけ、痛みでつい顔をしかめる。
ユリウスの口から「捻ったか」という言葉が出てくるのを、シェルリンは気まずい思いで聞いていた。
近寄らない、近寄らないと言い聞かせていたユリウスの顔が間近にあって、咄嗟に彼と距離をとった。
関わりたくない一心だったが、それが逆にユリウスをこの場にとどめてしまった。
それにあの距離の取り方は、無意識だったとはいえあからさまだっただろうか……。
彼はシェルリンが転びそうになるのを防いでくれただけだったというのに。
「捻ったか」と言うユリウスの言葉を気まずい思いで聞いていると、突然ユリウスがかがみこんだ。
そしてシェルリンが「え?」と思う間もなく、ふわりとシェルリンの体が浮かぶ。
あっという間にユリウスに抱きかかえられていた。
「ユリウス殿下!? 大丈夫ですわ。降ろしてくださいませ」
「その足では歩けないだろう。医務室へ運ぼう」
「でも、そんな殿下に運んでいただくなんて」
「私もあの頃とは違うんだ。任せてくれ」
あの頃という単語でシェルリンの脳がまた忙しくなる。
王子であるユリウスに運んでもらうわけにはいかないというのもあるが、このまま昔話が始まったら何のためにあの場から逃げたかわからない。
まだ名前も知らないけれど、あの子たちと帰ろう。
握手したいくらい好意的なのだから、きっと肩くらい貸してくれるだろう。
二人に話しかけようとユリウスの肩越しにシェルリンは二人を見やった。
ピンク髪の子は、バラ色に頬を染めてうっとりとシェルリンたちを見つめ、茶髪の子も同様に「これはこれで……」とキラキラした目でシェルリンたちを見ていた。
彼女たちの反応を見て、シェルリンの顔に熱が集まる。
そうだった。今、シェルリンはユリウスに抱き抱えられているのだ。
その事実を改めて認識すると急に恥ずかしくなってきた。
どくどくどくどく。
突然聞こえ始めた心臓の音がこの場のみんなに聞こえそうで、シェルリンの顔はさらに赤くなる。
「で、殿下」
真っ赤な顔を見られたくなくて、シェルリンはユリウスの胸に顔をうずめて声を振り絞った。
「なんだ」
「すごく見られていますわ……」
だから降ろしてほしいとシェルリンは言うつもりだった。
恥ずかしいからと。
けれど、シェルリンがその希望を述べる前に、ユリウスは二人に向き直り笑顔で言い放つ。
「私たちは医務室に寄っていく。悪いが、その旨を誰か教師に伝えてもらえないか」
「はいっ!」「も、もちろんです!」
二人の息の揃った返事が聞こえ、きゃあきゃあと楽しそうな声が遠ざかっていった。
待って!
シェルリンは心の中で叫ぶ。
けれど心とは裏腹に、シェルリンの体はさっきまで腕に抱いていた猫同様に硬直してしまって、口から言葉が出てこない。
ユリウスが歩きだす。
「しっかり掴まってて」
「は、はい!」
掴まっていた方が歩きやすいからだろうとシェルリンはおずおずとユリウスの首に手を回した。
恥ずかしさで真っ赤になった顔やどくどくと早鐘をうつ心臓をどうにかしたくて、ユリウスが医務室まで歩いている間、シェルリンはずっと息を吸ったり、吐いたりしていた。
医務室に着く頃には、シェルリンも幾分落ち着き、どうにかお礼を言うことができた。
先に教室に戻るユリウスが扉の前で立ち止まる。
そしてたっぷり沈黙をした後「シェルリンも随分変わったようだな」と言い残して去っていった。
あぁライ兄様どうしましょう。初日から疑われているかもしれません。




