474. 七毒牙、来たる
人間とは、心の生き物である。
つまりは感情で動きを左右される生き物だ。
「我様――じゃなくて、ワーレン卿……!?」
「おうよ、フラム氏。どうやら間に合ったようだな」
薄闇の中、突如として現れたのは、金属鎧に身を包んだ一人の男。
その姿を前にして、俺は驚き、声をあげてしまっていた。
そうしながらも体は勝手に起き上がり、後方への退避まで済ませてしまっている。
師である女性の体を乗っ取られ、残る力も使い果たしてしまったと絶望していたところ、我ながら唖然としてしまうほどの、速やかな逃げっぷりだ。
だがそれは、『凍炎の魔女』に取り憑いたヴォルツクロウより逃れたわけではない。
「なんで貴方が、ここに……!」
「なんで、と言われてもな。氏は魔人どもと戦っていたのであろう? あのグリフォンの雛……ホムラ氏に乗って飛んできた、メグスェイダ氏より聞き及んでいたが」
「た、確かにあの二人には、伝言を頼んでいましたけど。それにしたって……!」
まさかここで、この人が……
ミストピア神殿にやってきた査察団の一員であったワーレン卿が、こんなタイミングで姿を現すとは夢にも思っておらず。
「い、いやまあ、わかりますけど! そういやルゼアウルが率いてきた影人とツェブラクを、兵士の人たちと一緒に引き受けてくれたって聞いてましたし……!」
俺はフェレシーラがそう口にしていた事を思い出しながらも、思わず背筋を正してしまう。
「え……ワーレン卿? え?」
そこに、当のフェレシーラの声がやってきた。
見れば彼女もまた、俺と同じく呆気に取られた表情で立ち尽くしていたが……
先程までの自失状態ではなく、戦鎚を手に戦闘態勢を取っている。
しかしそんな極端なフェレシーラの立ち直りっぷりも、理解出来る。
というか俺自身、正しくそんな感じだ。
立て続けの窮地に絶望の淵にあった俺とフェレシーラが、二人揃って平時に近い状態に戻れていた理由。
それは強い驚きと共にやってきた、気恥ずかしさを伴う『体面を保とう』とする気持ちの成せる反応だった。
割とマジで。
「援軍か。図ったかのように出てくるものだ」
そんな事を考えていたところに、ヴォルツクロウが呟きをもらしてきた。
よくよく見れば、その体に纏った薄氷の如き礼装が、爪先から腰の辺りまで灰色に変じており、微動だにしなくなっている。
「だが……この程度の毒、このような呪い擬き。足止めにもならぬ」
その言葉と共に、灰色に染まった礼装に罅割れが走る。
そして『凍炎の魔女』の体より青白いアトマが漏れ出でたかと思うと、次の瞬間には「パキン」という乾いた音を発して薄い表皮が割れ散り、灰色の塵が辺りに振りまいていた。
「ぬ……古種階級のバジリスクの王毒を、労せずして『解呪』するか。華奢な成りのわりに、大した化け物だな。もしやあの風体で、件の魔人だったか? フラム氏よ」
「え、ええと、それはですね……なんて説明したらいいのか……ていうか、初見の相手にいきなりバジリスクの毒をブチ込むとか、ヤバくないですかね!?」
「なにを悠長なことを。どうみても追い込まれていただろうに。それに石化毒なら『解呪』さえ成功すればあの通りよ。むしろ初見初手でこそ活きるというものよ」
「い、言われてみれば確かに……!」
マイペースな口振りのワーレン卿にそう返されて、思わず納得してしまう俺。
どうやらヴォルツクロウは薄皮一枚どころか、纏ったアトマでその呪毒の効果の殆どに抵抗し、あっさりと『解呪』に至っていたようだが……
バジリスクといえば緑の外皮と鶏冠を備えた四足の蛇、といった外見を持つ魔獣の一種だ。
個体数はそう多くないものの、生息域自体は広く、時折人里に現れることもある為、知名度は高い部類に入る。
戦闘力は高く、厚い鱗に拠る守りと、牙や尾による攻撃もさることながら、最も脅威となるのがその爪牙に秘めた毒にある。
特に成長した個体のそれは王毒と呼ばれ、有名どころもいいところな石化効果を持つ代物だ。
とはいえ、死亡した個体からは瞬く間に毒性が失われてゆくという性質上、毒の抽出の難度は高く、保存に関しても厳重な管理が必要。
その為、人の手でそれを利用可能なラインに届かせるには、専用の器具を備えた施設と加工者が必須とされている。
そして当然ながら危険性の高いバジリスクの捕獲出来ることが望ましい故に、王毒が世に出回ることは殆どない筈なのだが……
「こんな事なら、もう少し準備をしておくのだったな。久しぶりの人間相手の任務と聞いて、手持ちの毒の精製を怠っていたわ。我としたことが、迂闊なことよ」
まるでこちらの疑念に答えるかのようにして、ワーレン卿が「やれやれ」とこぼして懐から短刀を取り出してきた。
手持ちの毒て。
精製を怠っていたって。
え、ちょっとこの人、なに言ってるかわかんないんですけど。
言い回しからして、普段から自分の短刀に塗布して利用する為の毒を、原料ごと持ち歩いて、それを都度必要に応じて加工している……と受け取れるんですが。
あ、ダメだこれ。
今そこについて深く考えていたら限がないヤツだこれ。
なのでそこについては、この際忘れよう。
今はそれどころではない。
折角の救援、予想外の攻め手が得られたのだ。
これを活かさない手はないだろう。
ヴォルツクロウに奪われた『凍炎の魔女』を、何とかする。
やるべき事を定めて、頭を回す。
「ありがとうございます、ワーレン卿! 危ないところを、助けられました! このまま加勢して頂けるともっと助かります!」
「善い善い。我とて影人などという手応えの無い有象無象よりは、こちらの方が楽しめる。ただし、状況がわからぬからな。適当に合わせるゆえ、説明よりも指示を飛ばせ」
「了解です……!」
色よいその返事には、頷き一つで応えてみせる。
適当と口にしてきたが、この人の場合は二つの意味でそうなのだろう。
確かに彼のいうとおり、状況がわからないからといって逐一説明をしていても仕方がない。
先程までは、何をどうしていいかもわからぬほど、追い込まれてしまっていたが……
アトマとゼフトを殆ど使い果たしたという事実は横に置いておくとしても、こちらの心情的な理由など、一々ワーレン卿に話して聞かせることではない。
必要なのは、明確な目標を定めること。
そしてそれを、どうして達成にまで持ち込むか、考え抜いてやり尽くすことだ。
……というか救援に駆けつけてくれたのが、事情を一切知らず、面識も殆どないワーレン卿であったからこそ、こうして割り切っていける部分は多分にある。
それはフェレシーラにしても似たようなものだろう。
あのタイミングで何故、抜け殻となっていたヴォルツクロウの肉体を執拗に痛めつけたのかは、その直前の反応も含めて、正直に気になるところではあったが……
しかし今は、切り替えてゆくべきだ。
それが単身この場に駆けつけてくれた、ワーレン卿への礼儀というものだ。
すぅ、と息を深く肺に取り込み、俺は声を張りあげた。
「フェレシーラ!」
その声に、神殿従士の少女が視線を向けてくる。
だが、まだ足りない。
いつもの彼女に戻りきってはいない。
その様子を見て取り、俺は敢えて語調を強める。
「ここは助けてもらうぞ! まだ、やれるか!」
「……勿論よ!」
そんなこちらのやり取りを、昏く冷たい眼差しが一瞥する最中――
「ほんと、生意気言うようになっちゃって……! 御助勢、感謝します! ワーレン卿!」
「うむ。その目、その威風。白羽根殿も持ち直したようだな。流石は音に聞こえた『教団の白き猛禽』よ。そうこなくては」
声に声が応じて、そのまま俺たちは行動を開始していた。




