470. 気炎、簒奪を赦さず
心を、意識を強く保つ。
総身を包む異様なまでの眠気に対して、それだけを念じて強引に瞼を開きにかかる。
精神領域より脱する直前に、それだけは強く念じておいた。
ここでうだうだとやっていては、話にならなかった。
「う、ぐ……ッ!」
疲れただのと、休んでいたいだのと、甘ったれたことを考えている暇すらないと、己の弱さに鞭を打ち、無理矢理に息を吐き出す。
内容物を失った肺が、寝惚けた頭が痛い程に渇えて、新鮮な空気を貪ろうと口蓋を動かす。
途端、夜の冷え切った味が舌一杯に広がってきた。
刺すほどの冷たさで肺を満たされたことで、急速にクリア―となった俺の意識が最初に認識したのは、ぱっちりとした大きな青い瞳だった。
いつも己の意志をこれでもかとばかりに映してきたその瞳が、しかし今は驚きに見開かれており、降り注ぐ亜麻色の髪も弱々しい『照明』の輝きを受けて、儚げに揺れている。
ここ最近で、だが忘れようもなく焼きついたその容貌を、言い当てるようにして口が動いていた。
「フェレ、シー……ラ?」
「! フラム!」
誰何の声に返されてきたその名を耳にして、未だ取り戻しきれていなかった五感が一気に蘇った。
「う、いま、どうな……」
「無理に動かないで! 落ち着いて、呼吸をして……それから気をおちつけて……!」
無理繰りに上半身を動かそうとしたところにやってきたのは、彼女の声。
まるで自分自身に言い聞かせるような、美しい中高音の声。
それにつられる形でしっかと目を見開くと、一人の少女の姿が視界一杯に広がってきた。
色白の肌。
くっきりとした目鼻立ち。
微かに戦慄く形の良い唇。
身に付けた白い胸甲の左側には、天秤の紋章。
ただ一枚の羽根を乗せて、右側へと大きく傾いた天秤だ。
フェレシーラ。
レゼノーヴァ公国に本拠を置く、聖伐教団のエース。
人類種に仇なす魔人討滅を至上の使命と目する者たちの中にて、ただ一人、『白羽根』の階位を授けられた神殿従士。
フェレシーラ・シェットフレン。
俺にとって、ただ一人――
「……そ、そうだ!」
「あきゃっ!?」
ここにきて完全な覚醒を果たしたことで上半身を跳ね起こすと、素っ頓狂でちょっと可愛い叫び声が間近で響いてきた。
「ちょ――なによ、いきなり跳び起きて! 私のいうこと、聞いてた!?」
「あ、や、わる……じゃなくて! あいつは――あの糞鴉はどこいった!?」
「クソガラスって――」
「ヴォルツクロウ! ヴォルツクロウだよ! あいつ、俺の精神領域から抜け出して――あ、づっ!?」
「ちょっと、フラム! 落ち着いて! ああ、もう……!」
地に手をつき起き上がろうとしたところで、腕全体に鋭い痛みが走り、それが全身を駆け抜けていった。
長く、深く己の内側に入り込みすぎていたからだろうか。
それともそんな場所で、激しい戦いを繰り広げていたせいだろうか。
自分が想像していた以上に、体にガタがきている状態だった。
まあもっとも……あそこでのダメージ云々となると、ヴォルツクロウを盾にするような形だったとはいえ、俺自身がぶちかました『爆炎』の影響が大方を占めている気がしないでもなかったが。
しかし今は、そんなことにかまけている場合ではない。
わずかに気息を整えて、焦る心と体の反応を押さえつける。
地面についたままでいた掌から伝わってくるひんやりとした感触が、気持ちを落ち着けてくれた。
「聞いてくれ、フェレシーラ……俺、ついさっきまでヴォルツクロウと精神領域で戦っていたんだ」
「精神領域で、って――あ、うん。それで? こうして無事に戻ってこれたってことは、勝った……のよね?」
フェレシーラもまた、俺と同様に平静さを保とうとしてくれていたのだろう。
恐る恐るといった反問の言葉に対して、しかし俺は力なく、頭を振って「いや」と答えていた。
「いいところまで追い詰めたと思ったんだけど、逃げられた」
「逃げられた? それって、どこに?」
「たぶん、こっち側だ。俺もつられて目を覚ました感じがするから……間違いないとおもう」
「なるほど、ね。ちょっと理解がおいついてないところはあるけど。そういう事なら、了解よ」
一応、納得の返事を返してくれたフェレシーラだが……
まずは話の内容から、事の優先順位を固めたのだろう。
それまでこちらの体を支えていたくれた手をそっと離すと、愛用の戦鎚を握りしめて立ち上がっていた。
「フラム。貴方は休んでいて。私が奇襲に備えておくから。暫くして、そのヴォルツクロウとかいう魔人が出てこないようなら、移動しましょう」
「それは……有難い話だけどさ。奇襲に備えておくっていっても、お前だってギリギリだろ」
「そうね。でもほんの少し休めたし、いまの貴方よりはマシかもよ?」
「そりゃそうだろうけどさ」
言いながら、俺は考える。
こちらが精神領域にてヴォルツクロウに与えたダメージは、決して小さなものではない筈だ。
あれだけ体の支配権に執着していたヤツが、その絶好のチャンスを手放して逃走に走ったのだ。
ならば、苦しいのは向こうも同じだ。
侮っていい相手ではないが、仕留める好機とあらばそれを逃してはいけない。
このままヤツの目論見通りにさせてはいけない。
その事を、素早くフェレシーラに伝える必要があった。
「フェレシーラ。あいつは今、至近距離から『爆炎』を受けて相当なダメージを負っている筈だ。そしてヤツは、自分のことを魔人将と名乗っていた」
「え? 『爆炎』って……あの、木偶の坊に仕込まれていたトンデモ攻撃術よね? それに、魔人将って……!」
「わるい、細かい部分は後で話す。いまはあいつもそう余裕はなくて、逃しちゃ不味い相手だから……俺もやれるだけのことはするよ」
「――」
流石に聖伐教団のエースを張っていることもあって、だろうか。
突如こちらが口にした『魔人将』という言葉に、フェレシーラは無言となりつつも口元を引き締め、その眼差しを猛禽の如き鋭いモノへと変じさせてきた。
そんな少女の横へと、俺もまた身を起こして並び立つ。
幸い、『治癒』を行使する程度のアトマは残っていたので、自分と彼女に一度ずつかけておく。
「助かるわ。でも、後は温存しておいて」
その言葉に俺は頷く。
ヴォルツクロウの狙いがまだこちらの体にあるのならば、肝心の俺自身が抵抗できなければ話にならない。
そうした判断は、フェレシーラと共にいる内に、互い、自然分かり合えるようにきたことだ。
多くを言葉にせずとも、意図を理解できる。
それ自体は、喜ばしいことには違いない。
だけど……
「フェレシーラ。あとで、話しておきたいことが……聞いて欲しいことが、沢山できたんだ」
「そう。それならその為にも、もう一踏ん張り。気合入れていかないとね」
「ああ……!」
四肢に力を込めて立ちあがると、それにニッコリとした笑顔が応えてきてくれた。
蒼鉄の短剣を手に、俺は辺りに伸びる木々の、その一角を見据える。
予感があった。
黒の魔人、ヴォルツクロウはまだこの場に潜んでおり、機を伺っているという予感が。
再び魔人の将と激突するであろうという、確信に近い予感があった。
「それに、よ」
そう思いヤツの気配を探っていたところに、フェレシーラが口を開いてきた。
「それに魔人将だなんて大それた名前を、この国で出してくるっていうのなら――」
一体、どこにまだそんな力を残していただろうか。
「それがどれだけ赦し難いことなのかを。身をもって、わからせてあげなきゃね……!」
白羽根の乙女、公国最強の神殿従士が燃え立つ闘志と不敵な笑みも露わに、俺の横へと並び立ってきたのだった。




