44. ただ、己がために
「ふむ……脈拍は正常。体温は低下の傾向あり。外傷、発育不全は特にみられず、か」
バーゼルの動きは、迷いがなく迅速だった。
生物学者の真似事をしていると言っていたが、それが謙遜であることは素人目にもすぐに伝わってくる。
魔術の類にも一切頼ることなく、彼はグリフォンの雛への診断を終えてきた。
「アトマの欠乏による、衰弱を引き起こしているな。早めに手を打たねばいけない状態だが……まだ体が出来上がっておらず、母親からの授乳によってしかまともにアトマを摂取出来ない。通常の手段では、死を免れることは出来ないだろう」
「通常の、ってことは……何か、助けられそうな方法があるのか」
可能な限り平易な言葉を選んできたであろうバーゼルの説明に、俺は縋る思いで先を求めた。
「あるには、あるな……だが」
「なら、頼む!」
咎めの言葉を遮り、俺は助力を乞うた。
バーゼルの表情から、それが何らかのリスクを伴うのは予測できた。
だがそれでも、俺は助けを願うことをやめられなかった。
「そうか……なら、良い。君さえ良ければ、引き受けるとしよう」
「! あ、ありがとう……ございますっ!」
「礼には及ばないよ。私はブリーダーでもなければ、人様に説くような立派な道徳心を持ち合わせているつもりもないからね。こちらは日頃の研究の成果を試す。君はそれに賭けて、協力をする。例え試みが失敗に終わったとしても、恨みっこなしで願いたいのだが……」
「……わかった。わかりました。それでお願いします……頼む、バーゼル!」
その一言を受けて、バーゼルがはっきりとした頷きを見せてきた。
「ところで従士フェレシーラ。君は、この少年の蛮勇を止めに回らずとも良いのかな?」
「本音を言えば、それどころじゃないのだけど」
俺の後ろに控えていたフェレシーラが、問われて溜息を吐いてきた。
「私はこれからその子を塔に連れ帰って、依頼を受けた村と、近くの教会か神殿に顔を出さないといけないし……」
「塔というのは、あの魔女の棲家かね? もしそうならば、既にあの場所には入れなくなっていたよ。おそらくだが、主も不在だろうね」
「……なんですって? 何かの間違いではなくて?」
「ああ。今朝訪れた際に、守護者からの門前払いを受けてしまったからね。私としても、マルゼス殿とは一度腰を据えて古今東西の術法論を交えてみたかったが……残念ながら、巡り合わせに恵まれなかったようだ。居留守という線もなくはないが、それらしい反応もなかったよ」
「ふぅん。なるほど、ね」
バーゼルの告げてきた話の内容は、意外なものだった。
しかし言われてみれば、納得が行く部分もある。
フェレシーラと村を出た後に見た、塔の光景。
水晶灯が全て消えていた、あの光景も……あの人が不在とあれば、ありえないでもない。
それにどうせ……俺はこのまま、あの場所に戻るつもりなど毛頭ないのだ。
だから今は、それ以外のことを優先すべきなのだ。
「ま、ここまで来てそのおチビちゃんに死なれちゃっても、それはそれで寝覚めが悪いか。……では、私からもお願い致します。術士バーゼル」
「ふむ。聖伐教団の人間は皆、もっと頭が硬いものかと思っていたが――いや、これは失言をした。今はそれどころではなかったね」
どうやらフェレシーラも、考えることは同じだったらしい。
俺は嬉しくなり、彼女のほうを見るが……
しかし何故だかフェレシーラはこちらの顔を見るなり、プイと頬を横に逸らしてきた。
「最後に、これは確認だ」
そのやり取りを見ていたのか、どうなのか。
バーゼルが横たわる雛に手を伸ばしたまま、俺の目を見据えてきた。
「フラムくん、といったね。これから君は、このグリフォンと一蓮托生――とまではいかないが、それなりの苦労を背負い込むことになる。理解しているとは思うが、この雛が成体となるまでのアトマの供給を君が母親の代わりとなり、担う必要があるのだからね」
「……わかった。絶対に、そいつのことを途中で投げ出したりしないって、約束する」
「それは飽く迄、君の自由だよ。言ったとおりに、私は人に道義を押し付けるつもりもない。只、己の栄達の為に。魔道を究める為に、君の望みを利用させてもらうだけだよ」
「それも……わかった」
「宜しい」
俺が頷きをみせると、バーゼルはローブの内側から何かを取り出してきた。
十㎝ほどの、半透明、円筒状の器具。
先端に細い針を備えたそれを手に、バーゼルが手招きをする。
俺はその物体の正体に、心当たりがあった。
注射器だ。
本から得た知識しか持ち合わせない物だったが、その用途は把握している。
そして、その中身が空であることの意味も理解していた。
「血を、採るのか……?」
「ふむ。察しが良いね。もしや、初めてではなかったかな? 一応、確実性は劣るが他の手段もあるにはあるが」
「いや……それが必要だって言うんなら、構わない。やってくれ」
「はは。そう緊張せずとも良いよ。まずは消毒からだ。楽にしているといい」
「そう言われてもな……」
反射的に身を硬くするこちらに、バーゼルは手慣れた所作で魔術による『純水』を生み出すと、腕の内側、肘の近くを洗浄してきた。
続いて出てきた真っ白なガーゼを受け入れる最中、俺は視線を洞窟の壁へと移す。
やがてそこに、チクリとした痛みがやってきた。
無意識のうちに顔が歪み、全身が強張る。
刺すような痛みと畏れは、一瞬のことだったのか……
「もう良いよ。後はこちらに任せてくれ給え」
「わかった、頼む……」
その言葉に、俺は視線を再び雛の元へと戻す。
全身を、そこはかとない脱力感が包んでいた。
どうやら思っていた以上に緊張してしまっていたらしい。
「ねえ。それ、どうするつもりなの?」
「君も聖伐教団に所属しているのであれば、血、ないしそれに準ずるモノを用いた、契約術については知っているだろう?」
「……まさか、その雛とフラムの間に、主従関係を結ばせようって言うの? 人間と幻獣の間に?」
「彼ほどのアトマの持ち主であれば、不可能ではないよ。尤も、私のそれは契約術とは異なるがね。それに母乳というものは血液から造られている。媒介としてこれ以上相応しいものもない」
「そうだとしても、俄かには信じ難い話ね……」
フェレシーラとバーゼル。
二人の間で交わされる会話を、俺は何処か他人事のように聞いていた。
「しかし、小さな生き物を相手にするというのは怖いものだね」
新しい注射器を片手に、バーゼルはそんなことを言っていた。
今度のそれは、俺に用いたものより更に小さい。
そうして俺とグリフォンの雛、両方の採血を終えると、彼はそれを一本の試験管の中でゆっくりと混ぜ合わせていった。
「ふむ……」
試験管の外側には、幾つもの文字が刻み込まれていた。
俺の知らない、見たこともない文字。
それはフェレシーラにしてみても、同様だったらしい。
「……大丈夫なの? それ」
「ああ。想定と異なる反応が出たので、調整は必要になると思うが……なに、これぐらいであれば、アトマの流れを作り出す程度はそう難しくもないよ。あとはこのグリフォンの雛が投薬に耐えられることを祈るのみだ。こればかりは、神のみぞ知る、といったところだね。幻獣という種の生命力、適応力に賭けるしかない」
言いながら、彼は試験管の中身を小型の投薬器へと移し始めていた。
経口からの投薬を目的としたその道具には、俺も実際に見覚えがあった。
あれは確か、随分前に……俺が熱を出したときに、師匠が飲み薬だと言って――




