459. 闇への布告
ズキズキ、刺すように眼球が痛み。
チカチカ、しつこい程に目の前が眩しく。
クラクラ、両の脚でまともに立つこともままならぬ有様にて……
激しく不規則に明滅を繰り返す、眼窩眼底眼前、その全てが鬱陶しかった。
あり得ない程に腹立たしかった。
「さあ、私に見せてみよ。試させてみよ。挑んできてみよ……はははは」
しかし何よりこちらの神経を逆撫でしていたのは、哄笑と共に語りかけてくる黒の魔人、ヴォルツクロウの姿、口振りだ。
「さあ、どうした。いい加減に思い出してみてはどうだ。覚えることは何よりも得意であろう。さあ、さあ、さあ――」
「うるせぇんだよ……!」
ガギッ、と奥歯を噛み鳴らして、俺は喜悦に満ちた催促の声を砕き殺す。
「さっきから人が大人しく黙って聞いていりゃあ、ワケのわかんねぇことをグダグダと……なにが『終わりだ』、だ。なにが『答えろ』だ……!」
朦朧としかけていた意識ごとそれを吐き散らすと、腹の底から沸々と怒りが湧きあがってきた。
ドス黒くも明朗なその感情に衝き動かされて、俺はふらつく両の脚でもって強引に、真っさな地をギリリと噛む。
痛みと熱に侵された思考が、それを自動的に選択する。
「ふむ。まだ思い出せぬか。未だ無意識でリミッターを施しているのか、はたまた強引な封印の代償か……データを回収しておきたいところではあるが」
「だから――五月蠅いんだよ、テメェはッ!」
白と黒とが木目状に混ざり合った地にて、俺の靴底にて、バチリと戦意が火花をあげる。
刹那、弓弩の如く引き絞られていた己の全身が、一条の矢と化して解き放たれた。
「おや」
死ね。
短い呟きを殺意で塗り潰して、頭から突っ込む。
手には得物など携えてはいない。
そんな物は不要だ。
獣にしては数の多い指があれば、事足りる。
まるで決まりのなっていない生え方をした、小賢しい鴉の首一つ程度、造作もなく縊り落としてやる。
そう念じて足裏を蹴り抜き、腕を振りかぶる。
風一つ吹かぬ空間にて、ごう、という音が耳元で渦巻いた。
気付けば、鴉の頭が目の前にあった。
「おあぁアッ!」
視界一杯に広がった黒い火傷の疵へと目掛けて、手を叩きつける。
「おっと。いかんな、それでは」
握り拳にすらなっていなかったそれが、魔人が軽く握り込んだ拳に阻まれる。
構わず、跳ねのけられた手を再び振るう。
上下左右、あらゆる角度から叩きつけるも………視界に在るのは、涼しげなヴォルツクロウの姿だけだった。
それがささくれ立った俺の心を、更に煽り立ててくる。
ガンガンと痛む頭を、黒く黒く塗りつぶしてくる。
「このような野蛮な戦い方では、器の無駄遣いもいいところだ。学ぶべきことを誤ったか。それともあの紛い物の真似までしたか? なんにせよ、修正点が見つかったのは確かだが……洗い出しはこれぐらいでよかろう。悪影響が出る前にデリートしておかねばな」
無駄遣い。
学ぶべきこと。
紛い物の真似事。
修正点と、デリート。
悠然とした語りの中より拾い上げてゆく言葉の群れが、体の何処かに落ちてゆき、定着する。
するが、頭はそれを意味のあるものとして認識しない。
振り上げ、叩きつける手は止まらない。
全身の筋肉を勢いよく捻じりあげ、骨と骨の接合部に力を溜め、赤黒い感情と共に叩き込む。
殺意の鞭を、欲動のままに振るい続ける。
ギチギチ、ブチブチと何かが摩耗して千切れゆく音がした。
その音が大きくなる度に、眼球を走る痛みとノイズが和らいでゆく。
「シャアッ!」
「ふむ。スピード、パワー、共に悪くはないが……つまらんな。あまりに芸がない。あわよくば本稼働前に運用データを集められるかと期待したが、どうやら私の見込み違いだったようだな。残念だ」
「ア゛アッ゛!?」
なにを言っているのかはわからない。
しかし言葉自体は忘れない。
耳が、目が、脳が、感覚が、自動的にそれらを拾い集めて取り込んでゆく。
それは獣の作法、俺という個に備えわっていた本能だった。
腕を振り上げる。
高きに置かれた蔵書を引き出すようにして。
手を叩きつける。
閉ざされた頁を捲り開くようにして。
指を喰い込ませる。
初めてみる理論を噛み砕くようにして。
気付けば自分が、何をしているのかがわからなくなっていた。
しかしそれも仕方がない。
獣は己を御せないがゆえに、獣なのだ。
なのでそれは仕方がない。
考えるまでもない。
なので俺には、獣らしくやるより他にない。
「もうよい」
ドン、と胸に無音の衝撃が走った。
続けて視界が上から後ろに急転する。
あれだけ踏みしめていた地面が、今度は俺の背中を打つ。
「ガ――」
息が詰まり、遅れた体のあらゆる部位から重い痺れが伝わってくる。
まるで前借していた力を一気に取り立てに来られたのかのような、極めて原始的な反動。
仰向けに倒れた先には、闇が迫っていた。
それが何であるかを理解するよりも早く、理性に一筋の火が灯る。
「な、ん……いま、の――」
やられた。
否。
やってしまった。
暴走だ。
感情に任せて、無謀な攻撃を繰り返していた。
何がどうしてそうなってしまったのかは、まるでわからない。
だがしかし、色々とブッ飛んでしまっていたことだけは把握出来た。
「マジ、かよ……クッ、ソ!」
愚行もいいところなミスを起こした自分自身に悪態をつきながら、挽回の手立てを探しにかかる。
最悪最低もいい所な状況だが、文句を言っても始まらない。
巻き返す為にはとにかく考えて、動くより他にない。
体へのダメージ。
追い込まれた体勢。
残る反撃の手段。
「正気に戻ったか。物理的な衝撃が切っ掛けとは、面白みのない反応だ」
上から降ってきた声に対する、うるせぇマジで黙ってろ陰険糞鴉という反感すらも封じ込めて、瞬考する。
「流石に飽いたな。幕引きとしよう。最期に、残す言葉はあるか?」
「……テメェは、本気で泣かす!」
「そうか。覚えておこう」
視界の隅に移り込んできた指が、パチンと鳴らされる。
支えにしようとしていた背中側から、抵抗が失われる。
ずぶんと、肩から先に沈み込むのがわかった。
遅れて、腰、臀部、肘、踵と、バラバラに、黒土のように変じていた床に、体が呑み込まれてゆく。
「クソッタレが……!」
こちらの領域であったはずの足場が、見る間に底なし沼同然の闇と化して、全身を引きずり込んでいる。
抵抗は間に合わない。
それは理解出来た。
状況の劣悪さもさることながら、端から力の差がありすぎる。
完全なイーブンの状態、例えこちらのアトマ・ゼフト共に万全のコンディションでぶつかったとしても……
この埒外の魔人に、真正面から打ち勝つことは不可能に近いだろう。
それ程までに、ヴォルツクロウという魔人の将は、高みにある存在だった。
しかしそこで、俺は思う。
別にこのまま落ちてしまっても良いのではと、考える。
それは何も、思考を放棄したわけでも、生への執着を投げ出したわけでもない。
ただ、思ったのだ。
思い直したのだ。
そして思い出したのだ。
ここまで追い込まれたのであれば、まともなやり方で抜け出す手段はない。
そもそもそれは、俺が望んでいたことではない、と。
俺が望み、狙うは唯一つ。
フラム・アルバレットの精神領域だなどいう……
この、何の面白みもない場所までわざわざやってきてまで、やると決めていたことは変わらず一つだけ。
「そうだよな……そう、だったもんな……!」
その為の手段方策理論道筋を、己の中にて厳然と組み上げて、それを再認識して、残る頭だけを持ち上げ、仇敵を睨み付ける。
「泣かすって言ったら、ぜってー泣かせてやる……こんの、糞鴉!」
その宣言に、黒の魔人がニヤリと嗤った次の瞬間には――
俺のすべては、粘つく闇の中へと落ちきっていた。




